「1オクターブの天使」1





 それはクリスマスの前夜だったろうか。
 1年前から親を亡くしたり家庭に問題のある子供が収容される施設で過ごしていた。
 両親がなくなってから親戚の家をたらい回しにされ結局行き着いた場所は施設だった。親を亡くした子供が生きていくには世間は冷たい。
 しかし、それも当然な事なのだ。
 他人に見返りなく優しくなんてできる訳がない。
 誰でも自分が一番可愛いのだ。
 他人に優しく振るまえる人間は自分にゆとりがある人間だ。
 殊更、社会的成功としての文化事業と人格の優秀さを誇示したがる人間は施設に寄付するくらい痛くもない金持ちだ。その施設にもそういった人間がいた。
 資金が基本的に常時足りない施設の職員は彼に頭が上がらない。
 機嫌を損ね寄付を止められると、先行かないくらい経営は悪化していた。国は表面で福祉や教育に力を注ぐと言っていても、所詮経済発展が優先される。
 そんな中での施設の運営は、院長も頭を痛めていると聡い子供達は知っていた。質素倹約を心がけた生活は決して豊かとは言えなかった。無駄を省いた生活は必用最低限のものしか与えらなかった。そこで働く職員が子供達に冷たかった訳ではないが、所詮他人の愛である。仕事の延長線上にある親愛は、愛に飢える子供達を満足させる事はできなかった。
 学校で必用な文具でさえ満足には使えなかったが、施設に身を寄せる子供達は万引きなどの犯罪には手を染めなかった。
 最初から恵まれていない可哀想な子供だろいう偏見を持たれている。それ以上目立って、冷酷な目など向けられたくなどないというのが正直な気持ちだっただろう。
 守る人間のない無力な子供が一人で生きていくことは不可能だ。
 衣食住、与えられているだけましであるのかもしれない。それでも心が荒む事は否めなかった。
 誰も信用などできない。
 誰にも頼る事などできない。
 誰かに期待する事を忘れた。
 そうしないと生きて行けないと悟った。
 心が冷たく歪んで行くと自覚していた。それでも血を分けた弟がいた事が唯一の救いだった。
 弟のために。
 ここで負けてなんていられないと心に刻み込んだ。
 こんな風に蔑まれて一生を生きるなんてまっぴらご免だ。
 絶対にこんな場所を出て、己の力で成り上がってやる。
 そして、大切な弟を自分が守るんだ、と思った。
 誰も信用できない環境の中、必ず兄弟二人生き抜いてやる。
 
 
 そんな施設でも、毎年クリスマスだけは少しだけ華やかだった。
 誰からかの寄付なのか玄関に金銀のモールや雪に見立てた綿や人形で飾り付けられた大きなツリーが存在を主張し、食事も豪華でケーキまで付いた。
 施設に来て2度目のクリスマス。
 前回は引き取られてすぐだった。
 広間で人が集まって騒いでいるせいか玄関には誰もない。静寂の中、大きなツリーを見上げると、なぜだか胸中に絶望が蘇った。
 只でさえ灰色なのに、闇色をした絶望がじわじわと染め上げて余すところなく黒色に塗りつぶす。
 幸せの象徴のように飾り立ててられたツリーの存在が疎ましかった。自分には必用ないと思った。きっと関係がない。
 その日はいつもにも増して人の出入りが激しかった。
 ボランティアなのか有志で施設を訪問しようと毎年決められているのか、近所に住む人間や大学生など普段見たこともない人たちが世話を焼いていた。
 出し物らしき劇や歌。
 手作りのクッキー。
 ささやかなプレゼント。
 小さなぬいぐるみや文具等。それらが平等に渡される。
 偽善の匂いに寒気がする。恵まれていない施設の子供は、ありがたく何でも受け取ると思っているのだろうか。
 それでも、表面上は受け取った。
 もめ事を起こすつもりはない。面倒なだけだ。
 賑やかな雰囲気に嫌気がさして、弟の手を引いてそっと抜け出した。ツリーを横目に玄関を出る。
 決して広くはない施設の敷地にも、人が滅多に来ない場所がある。庭に続く小道を抜けて木々が伸び放題で手も入れられない空間。それ以外でも塀が低くて人知れず抜け出せる場所など施設では味わえない個人的な時間が過ごせる場所。そういった場所を持たないとやっていられなかった。そんな秘密の場所へその時も足を向けた。
 
 誰もいないはずだった。
 しかし、そこには。
 到底人間とは思えない者が存在していた。
 冷静で可愛げがないと言われていた己が珍しく我が目を疑い凝視した。動きを止めて魅入った。
 弟も繋いでいた手を引いて、自分に驚愕の意志を伝えてくる。
「……天使?」
 ぽつりとこぼれた弟の言葉に自分も心の中で同じ台詞を呟いていた。
 柔らかそうな金色の髪。
 きらきらと輝く琥珀の大きな瞳。
 小さくて桜色の唇。
 頬は滑らかで白い肌が寒さのためか赤く染まっている。
 白いマントのようなコートを身に纏い、首を傾げて自分達を驚いたように見つめている小さな天使。
 先日弟が見ていた絵本に出てきた愛らしい天使にそっくりだった。
 外見から推測すると、年は自分より下だろうか。年齢に応じた平均的な身長の自分より小さい。
 そして、あどけない幼い表情はこの世の垢や毒の欠片も見えない。
 この世に生きていたら、もっと染まるものではないのか。纏っている純白のコートそのもののように真っ白だ。
 本当に、天使がいるなんて思えない。信じていない。天使がいるなら神がいるなら、なぜ両親は自分達を置いて死んでしまったのか。なぜ、誰も自分達を救わなかったのか。
 社会を恨んでみても仕方ない。神などいないのだから。
 平等など、絵空事だ。
 それでも、こんなに綺麗な存在は見たことがなかった。
「……誰?」
 天使の唇が開いて、問いかけられた。
「人間だ」
 自分は賢いと言われていたが、その時ばかりはかなり間抜けな台詞を口走ったと自覚があった。しかし、天使らしき存在に誰と聞かれたら人間だと答えるものではないだろうか。
「……」
 天使は不思議そうに小首を傾げて近付いて来た。
 咄嗟に緊張が走り身構えた。弟も繋いだ指を力強く握って来る。しかし天使はそんな事など気づきもせず目の前まで来て1歩の距離を開けて止まると、にこりと可愛らしく微笑んだ。
「なあ、ここどこ?迷ったみたいなんだ」
 迷ったとは、どういうことだろう。空から落ちて来て天使は天上へ帰れないのだろうか。
 そんな馬鹿な訳ないのだが頭の端で考えた。
「迷ったの?」
 自分より先に立ち直った弟がおずおずと口を開く。
「そうみたい」
 困ったな、という表情を浮かべている天使は弟にそう返事してから自分へと視線を移した。
「どこへ行きたい?」
「シバウラ公園」
 天使は近所にある児童公園の名前を口にした。とても世俗的だ。
「そこなら、近くだ。ここの正門から右へ曲がって2番目の曲がり角を左。真っ直ぐ行くと右手に見える」
「えっと?右へ曲がって左?」
 天使は眉間にしわを寄せるという全く似合わない仕草をして、眉を寄せる。心底わからなくて困っていると目が語っていた。
「一緒に行こうか?」
 自分がそう切り出しすと、弟が嬉しそうに自分を見つめ天使を見上げ反応を待った。
「……いいの?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
 頷くと嬉しそうに笑顔を見せる。その笑顔が心まで染み込むようだ。
「ありがとう!」
 感謝でいっぱいの弾んだ声が耳をくすぐる。
「別に、大したことない。近くだし」
「でも、ありがとう」
 目の前にある天使の瞳と金色の髪が午後の光によって眩しそうに輝いていた。
「……行こうよ」
 やり取りを見守っていた弟が遠慮がちに差し出した手を天使がうん、と握った。弟に楽しそうに笑って自分を見た。
「連れてって」
 普段弟以外絶対しないけれど、自分までも天使の手を繋いで歩き出した。
 自分よりも小さくて柔らかくて暖かい手。
 繋いでいるだけで、じんわりと身体に伝わってくるものがある。
「何であんな場所に入り込んだんだ?」
「えー、わかんない。なんか賑やかだったし」
 とても疑問に思っていた事を聞いてみると答えは他愛もないものだった。
 人の出入りが激しいクリスマスは門も常に空いている上、誰が入り込んでも咎められる事はないだろう。
「そうか」
「うん」
「あのね、髪触ってもいい?」
 弟は手を繋ぎながらずっと黙っていたのが、おずぞずと欲求を口にした。
 言い出したかったのに、迷っていたとわかるそぶりで天使に真っ直ぐ目をあわせた。
「……髪?いいよ」
 天使は目を丸くするが笑みを浮かべて許可を出し、ほら、と弟の方に頭を寄せた。
 弟は金色に輝く髪をそっと触った。
「綺麗だね、お日様みたい」
 何度か梳いて、満足そうに吐息を付く。
 その弟の欲求と胸に訪れる感動が我が事のように理解できた。
 天使の金色へ手を伸ばしたい、と人間が思うのは至極当然な事だ。
 短い距離だがぽつりぽつりと話しながら公園の入り口まで来る。弟は手を離し難そうに殊更ゆっくりと繋いだ手を解いた。自分もそっと絡んだ指を外す。
「ここだ、ありがとう」
 弟の頭を微笑みながらくしゃりと撫でて屈むと頬にキスをして、自分には正面から両手を回し首に抱きつくようにして近付く。頬に柔らかな感触がすると思った瞬間、離れた。
 唇が触れた頬に手を当てて、唖然とする。
 何が起こったのか、瞬時に理解できなくて、間抜けにも声をかける事も引き留める手も遅かった。弟も顔を赤くしている。
 天使は手を振って駆け出し、途中立ち止まるともう一度振り返り、ありがとうと大きく手を上げて走り去った。
 そういえば、天使の容貌は日本人とも思えなかったのだが、躊躇なく自然に日本語を話していたから気にしなかったが、違和感がある。
 テレビで見たり聞いた事から総合すると、今のは外国での別れの挨拶。
 天使には、普通の、只の別れの挨拶、キス。
 が、しかし自分に与えた影響は多大だった。
 もういない両親が優しく頭を撫でてくれたり、頬や額にキスしてくれた事を思い出す。それ以来、誰もキスなんてしなかった。
 
 名前を知らない天使。
 名前を聞くなんて頭になかったのだ。
 弟も一緒に見たのだから、幻ではない。
 確かにこの世界に存在した実在の人間のはず。
 
 
 この後すぐに施設から、ある有名な富豪の屋敷に引き取られることになる。
 純粋に引き取られた訳ではなく、富豪からすれば優秀な人形が欲しかっただけだ。
 それは交換条件のようなものだったが、弟と一緒であるだけで我慢できた。
 このままでは終わらない。
 利用できるものなら何でも利用する。
 施設の子供、孤児と見下していた奴らを見返してやる。
 そのためなら、何でもする。
 
 子供である甘さなど何の役にも立たない。
 年齢などこの世で生き抜いていくためには関係がない。
 冷酷になる心は必然だ。
 記憶に残る甘い時間は全て忘れて。
 それでも、あの日逢った天使だけはどうしても忘れられなくて。
 あの公園に何度も足を運んでも、二度と会うことなどなかった。
 引き取られた後は、公園に行くこともできなくなって。選んだ運命を後悔なんてしていないけれど。
 いつか逢えたらと思う気持ちを止めることができない。
 あの天使には変わらずに綺麗でいて欲しい。
 辛い事なんて痛い思いなど知らないでいて欲しい。
 できるなら、幸福に過ごしていて欲しいと他人に対して興味のない自分が願うのが嘘のようだ。
 でも、あの天使だけは特別。
 
 自分の中に残っている唯一綺麗な希望みたいなものの破片。
 にこりと笑った綺麗な顔を胸の中でずっと覚えている。
 金色の天使。
 それが、自分のきっと初恋。
 

 




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