踏みしめた日本の地は、3年振りのものだ。 長時間座っていたせいで、腰が痛い。身体が固まっているようで、解すように動かすとぽきぽきと音が鳴る。 毎回思うが、飛行機は好きじゃない。 窮屈な空間に閉じこめられるのは、嫌いだ。 寝ていれば、あっと言う間に日付変更線さえ越へ到着するとはいえ、自分だけではないから人の動きも気になるし、フライトアテンダントに構われるのも面倒だ。サービスの提供だから、機内食や飲み物を持って来るのは当然なのだけれど。 別に機内食を食べ逃しても惜しくないから、放っておいてもらえないかと、いつも思う。 空港から向かう先は、これから住む家。以前しばらくの間暮らした事のある懐かしい場所だ。 荷物はすでに送ってあるから、ここでは軽い手荷物とゲージだけを持つ。 「いらっしゃいませ、リョーマ様」 「久しぶり」 懐かしい顔だ。優雅な身のこなしで会釈する彼はこれからお世話になる屋敷に長年仕える日下部という執事だ。 迎えに来ていた車に乗り込んで、日下部に同居人になる昔馴染みの今日の動向を聞いて、すぐに彼のいる場所に行き先を変更してもらった。 「ほあら〜」 甘えるように鳴く、連れてきた飼い猫をゲージから出して抱き上げ、撫でる。愛猫はヒマラヤンらしく毛並みが良いため、ついつい撫でるのが癖だ。愛猫を抱いたまま車窓を通り過ぎていく懐かしい景色をぼんやりと見つめる。 空は青く、雲もないいい天気だ。遮るもののない太陽が光を降り注いでいる。 その眩しさから逃れるように胸元からサングラスを取りだし、掛けた。 車で送ってもらい、降り立った場所は、学校の門前だった。学園の広さを証明するかのように、道なりにずっと続いていた塀が途切れた入り口は、多分正門だ。大きな両開きの年代物に鈍く光る門が開いている。 日下部が先に外へ出て、後部座席のドアを開けた。 「どうぞ」 「ありがとう」 日下部にお礼を言って腕に愛猫を抱えて降りると、運転席に座る運転手へもありがとうと声をかけた。それに、運転手もいいえと頭を下げた。 手を軽く振ってそのまま門から中に入る。どれだけか予想の付かない敷地にいくつか校舎や特別棟らしきものが並ぶ。敷地を囲むようにした塀沿いには緑が茂り、校舎と校舎の間には中庭があるようだった。 今日は休日らしく、校舎から人影や気配はない。 どこか遠くから声が聞こえる。多分グランドだろう。グランドやコートなど設備が充実していると聞いている。人の声が聞こえる方向へ歩みを進める。 やがて、見えて来たテニスコート。 グランドの中央にあるトラックの横に何面かテニスコートが揃っている。そのうちの一つには簡単だが客席があるコートまであった。 そこで試合をしているようだ。鋭いラリーが見て取れた。 片方が強烈な連打で一方的に攻めている。二人の間には圧倒的な差があるのだろう。 そのまましばらく試合を見つめた。 「君は見学?」 テニス部員である青年は試合を見ている見慣れない人物に声をかけた。 「……?」 その人物が青年を振り返った。 背中を覆う真っ直ぐな黒髪、白い肌、サングラス越しにも整っているとわかる容姿。白いシャツにパーカー、スリムジーンズと飾り気のないボーイッシュな出で立ちだが、反面より清楚さが強調されている。耳を飾る赤いピアスだけが目に印象深い。 どこからどう見ても、印象的な滅多に見られない美少女だった。 青年が一瞬見惚れてしまっても、仕方ないだろう。 「部外者は立ち入り禁止なんだけど……、それに動物も」 少女の腕に納まる猫を指して、青年は困ったように注意する。 ここ氷帝学園高等部のテニスコートでは現在他校生を呼んで練習試合を行っている。練習試合とはいえ、氷帝は全国に聞こえる程有名であるから、他校生が見学や視察にやって来ることは珍しくない。また、学園内でも男子テニス部は人気があったから応援と称して女子生徒が駆け付けることも多々あった。 目の前の少女がそのどれかかと聞かれれば、どれにも該当しそうにない。 第一、生徒数がどれほど多い学園であってもこれほどの美少女が知られていない訳がない。 その結果、不審というより不思議だと結論に達する。 「It is the persons concerned after this.(これから関係者だよ)」 にこりと、少女は笑う。 少女の口から漏れたのは英語だった。それに青年は驚愕する。 氷帝は偏差値の高い学園だ。留学生も多くいるし、もちろん青年も内容は理解できた。が、流暢な発音にひょっとしたら留学生が見学にでも来たのかと推測した。 その時、コートから歓声が上がった。どうやら試合が終わったらしい。 少女は、今試合を終え握手している青年達を見て口の端を引き上げた。 そして、サングラスを上げて頭に乗せたまま猫を目の前の青年へ預けると、ラケットを持ってベンチへ下がって行った青年へと向かって階段を足早に駆け下りた。 一方ラケット片手に試合を終えてベンチへ向かっていた青年は自分に向かって来た少女を視界に認めて、眉をひそめて立ち止まった。 少女はにこりと綺麗に笑う。 長い黒髪、漆黒の瞳、整った鼻梁。 記憶の端に引っかかる顔かたち。 確かに、どこかで見たことのある、知っている美貌だ。 彼はこの氷帝学園高等部テニス部の部長だ。総勢200名余りのテニス部員の頂点に立つ男だ。全国でも名前を売っている氷帝学園では知らない者は存在しない有名人だ。それ故、彼に向かって突飛で失礼な言動は普通しない。ファンである女子生徒にも、彼はさせない。 そんな生まれも育ちも王者気質の彼の名前を跡部景吾という。 彼は、少女を見つめながら自慢の頭脳を有効に使いながら、記憶を探る。 もしかしたら、と記憶が引っかかる。 しかし。 「Key」 少女が、彼を呼んだ。 跡部はその呼び方に記憶の結論と一致し、驚愕の面もちで息を飲む。自分を見る青年の反応に少女は喜んだ。 「Ryo?」 「Yes」 少女は跡部の正しい呼びかけに満足げに微笑んだ。 |