「桜の咲く頃」1


 桜が舞い散る校庭。
 ふわりと頬をなでる風が優しい。
 金に輝く長い髪を風が悪戯に触っていく。
 桜色の花びらが金の髪に絡まる。
 白い指が風になびく髪を押さえ、はらりと落ちた花びらが舞い上がる様を瞳が追う。
 それを傍らにいる少年が優しく見つめてた。



 春はここまで来ていた。
 皆、平等に春は訪れる。
 出会いの季節。
 優しい思いも切ない気持ちも全てがここから始まるのだ。




 入学式とはどうしてこんなにも退屈なのだろうか。
 校長の祝辞が延々30分も語られると、折角の新しい気持ちもどこかに行ってしまう。
教師の紹介などこの場で覚えられる訳がないのだから、果たして必要なのだろうか?と疑問に思う。
 15歳は子供だと大人は思うかもしれないが、本人からすれば十分大人のつもりだ。理不尽なこともある。背筋を伸ばしてじっとしているにもいい加減うんざりしてくる。その証拠にとっとと夢の中に入っていったものがいる。
 自分の前の席の人間は、首をがっくりと落とし、熟睡している。ついでに髪も長い。
 ここの校則は長髪が許されるのだろうか?
 超一流進学校というのに、のんきな人間も入学したものだ。入学試験は難関であると全国に知れ渡り、東大や有名私立大学合格が当たり前だというのに、割に自由な校風と聞いていた。が、こんなにのんびりしているものなのだろうか。かく言う自分もそんなことを考えているあたり、のんびりしているのかもしれないが……。
「新入生代表、挨拶。前へ!」
「はい」
 その時、よく通る声がした。
 ふっと、壇上に目を向けると、そこには「天使」がいた。金の髪が講堂の高位にある窓から差し込む光に煌いている。
 前を見つめる瞳は紫水晶。
 意思の強そうな瞳は、硬質な雰囲気を漂わせ見るものを惹きこまずには入られない。
 まだ同じ15歳という未成熟な身体はとても華奢で、強く抱きしめたら壊れてしまうのではないかと思わせる。新入生代表とはつまり主席入学ということだ。
 そう、壇上にいる天使のような少年がこの有名進学校の入試で1番だったということだ。少年が挨拶を述べているのだが、自分の耳に入ってこなかった。ただ、彼の姿だけが瞳に映り離れない。
「………………………………新入生代表、玄奘三蔵」
 最後の名前だけは耳に届いた。
 三蔵、それが彼の名前。
 きっとここにいる全ての人間が彼の名前をこの時覚えたに違いない。なぜなら、居眠りしていた目の前の人間も、自分から見える全ての人間の視線が彼に向いていたから。誰であろうと、瞳を反らす事を許さない存在だから。
 八戒はそう思った。



 自分の視界の斜め前に金の頭がある。
 そう、なんと彼と同じクラスであったのだ。八戒はついついその後ろ姿を見つめていた。彼の周りは誰もいない。
 気軽に声をかけられない雰囲気が彼を包んでいた。本当はクラス中が彼に注目しているのがわかる。なんとか声をかけられないだろうかと心を悩ませているのがわかる。けれど、彼はそんなことは知らぬげに、まるでどうでもいいように座っていた。すでに担任の紹介も明日からの予定も聞いて、帰るばかりだ。三蔵も帰り支度をして立ち上がった。そこへ大柄な男が廊下から顔を出し、
「よう!三蔵」
 と声をかけた。三蔵は声で誰かわかったのだろうか、一つ小さな吐息を吐くと振り向いた。
「あんたか……朱泱」
 三蔵はふんと笑う。
「あんたかは、ないだろう、三蔵。相変わらずだな」
 そう言って嬉しそうに三蔵の髪をくしゃりと撫ぜた。三蔵は鬱陶しそうにその手を払う。その機知のやり取りを注目しているクラス中の人間に朱泱は気付き苦笑する。
 全校生徒に先ほども注目され、これだけ視線に晒されているというのに、どうしてこんなにも無関心でいられるのか不思議だ。全く視線の意味に気付いていない三蔵。興味どころか、嫉妬の眼差しで見つめてくるものまであるというのに……。
 三蔵の本質は何も変わらないというのに、外見はすこぶる成長している。出会った頃より美しく。これからどれだけ花が咲いていくのだろうか?まだまだ蕾の大輪の花は、誰によって花開かれるのか?ふと、朱泱は思う。
 もしかしたら、傍にいるのかもしれない。
 運命はそこらへんに転がっているのかもしれない。
 それまではこの弟のような存在を見守って行こう。
「今日、これから暇か?お祝いにおごってやるぞ」
 だから、ついつい甘やかしてしまう。
「今日はダメだ。先約がある」
「……ああ。今日はあれか。ま、楽しんでこいや。今度おごってやるさ」
「わかった」
 二人は教室から立ち去った。



 春の嵐。
 心に吹いた恋の風。
 すぐそこまで、来ている出会いの予感。





 新入生も1週間も過ぎれば学校に慣れてくる。
 広い構内にある建物、入学式を行った講堂に体育館、武道館、プール、グランド、テニスコート、などがある。校舎だけでも3棟はあり、移動教室の折迷いそうなほどだ。
 そして割に緩やかな校則。
 校則で締め付ける必要がないほど、穏やかな学生が多い。というのも、進学を目指す学生にとっては、ちまたのように余所見をする暇がないのかもしれなかった。もっとも、それでも所詮高校生、青春は真っ盛りのはずだけれど。



 満開を誇っていた桜も散りかけ、桜吹雪が目を楽しませる。八戒はその風情のある桜を一等地で見ていた。ここは図書館。
 構内の端にあるレンガ色の楕円形をした建築物である。名のある建築家が建てたと聞いているが、外観はレンガ色の外壁に緑の蔓も巻きつき、少しばかり古城のようだ。内装はすこぶる使いやすい。
 蔵書も豊富で、パソコンで探したい本も簡単に検索できる。本を読むことが好きな八戒としてはここの図書館はかなり魅力的だった。委員会も迷わず図書委員を希望した。
本に囲まれて過ごす時間は楽しい。週に1度ほど当番が回ってくるが、それには関係なく図書館には来るだろうと八戒は自覚していた。
 今日は昨日の続きから探索しようと、授業が終わると一番に来た。すると、ふと見上げた窓から図書館に面した桜並木が桜吹雪を起こしたという訳だ。



 興味のある本を歩いて探す。
 コンピュータで検索するよりずっと贅沢な気分になる。
 並んでいる本を1冊ずつ手に取り、ざっと読み、気に入れば今度借りようと思う。そうして借りたい、読んでみたいと思う本が増えて行く。それが、また楽しい。
 八戒はふと、次はどの棚を見ようかと頭をめぐらした。すると、金色に輝く光が目の端に映った。慌てて視線を戻すとそこには彼が立っていた。
 華奢な後ろ姿。
 この学校の制服はグレーのブレザーだ。釦には校章の菊が掘り込まれ歴史の古さを物語る。内には白いシャツに細身のネクタイを結ぶ。学年事に色が異なり一目で学年がわかるようになっている。1年はえんじ色。2年は紺色。3年は緑色である。その制服が彼には良く似合った。
 さらさらの金の髪が襟にかかる。細い首が、色の白さが際立つ。
 彼の周りの空気がピンと張り詰めているようだ。
 八戒は訳もなく緊張した。彼は高い位置にある書棚から本を取ろうと背伸びをした。
何冊かすでに片手に持っている。借りるつもりなのだろう。八戒は興味を引かれて、本のタイトルを見た。

 ………?

「初めての料理」
「自炊の進め」
「料理の基礎」

 八戒の頭の中は???でいっぱいになった。
 どういうことだろうか?
 彼が料理をするのか。誰かのために借りて行くという選択もあるが、あまりに少ない。
料理をしたことがないのだろうか?多分同世代の少年が料理が上手い可能性は限りなく低い。八戒はその点、世間一般とはかけ離れていたが。あまりにじっと見つめていたせいか、彼が振り向いた。
 紫の綺麗な瞳が八戒を見つめた。一瞬の出来事。
 八戒は息を呑んだ。
「あ……」
 何か言いたいのだけれど、言葉にならない。
 眉をしかめながら、三蔵は不信そうに八戒を見た。
「料理、するんですか?」
 八戒は絞り出すように、声をかけた。三蔵は八戒の言葉に驚き、自分が持っている本を見て嫌そうに目を細める。何を言うのか?とその瞳が語っていた。
 からかわれたと彼が思ったかもしれないことに、八戒は気付いた。
「えっと、違うんです。そうじゃなくて、僕も料理はするからもっといい本があるなと思って……」
 しどろもどろになりながら、何とか誤解を解こうと必死だ。
「お前が料理?」
 三蔵は首を傾げた。
「ええ。姉と二人暮らしなので、一通りのことはできますよ」
 その言葉に三蔵の瞳が輝く。
「だったら、初心者でもできる料理は何だ?」
「初心者ですか?無難なところでカレーとかですかね……」
「カレーか……」
「初心者のレベルにもよりますけど。あの、貴方が作るんですか?」
 三蔵は一瞬固まるが、頷いた。
「失礼ですが、今までの経験は?」
「小学生の家庭科くらいだ」
「……そうですか。ちなみにりんごの皮とか剥けますか?」
「多分、そのくらいなら」
 しかし、三蔵の不安そうな声に八戒は怪しいと思った。カレーは無理かもしれない。
「まず、基礎から初めてはどうでしょう。本もここにあるものではなくてもっと簡単なものがいいと思いますよ。写真とかたくさん載ってて、わかりやすいものがいいと思うんです」
「どんなのがいいんだ?」
「本屋とかで見繕う方がいいですよ。図書館は確かに蔵書が抱負ですが、その手の本は本屋で手に入れた方が断然いいです」
「そうか……」
「本、貸しましょうか?」
 三蔵は瞳を見開き、「いいのか?」と聞いた。
「いいですよ、それくらい。何なら、本屋で選ぶの手伝いましょうか?最初は僕も大変でしたから人事じゃないですよ」
「頼む」
 三蔵は嬉しそうに微笑んだ。
 その初めて間近に見た笑顔に八戒は見惚れる。そして、肝心なことに気付いた。
「えっと、僕は同じクラスの八戒というんですけど、覚えていますか?」
 まだ、1週間しか経っていない。
 顔はおぼろげながらわかるだろうが、通常全員の名前まで覚えているとは考えにくい。三蔵のような人間は一度で全校生徒に記憶されるだろうが……。
「ああ、覚えている。お前、席が俺のすぐ近くだろう」
 しかし予想に反して三蔵は八戒を覚えていた。八戒は嬉しくなる。
「俺は三蔵だ。よろしくな」
 さらに、「よろしく」とまで言われてしまった。

 今夜は夢に出てきそうだ。
 八戒は思う。


 八戒は明日にでも本を持ってくることを三蔵に約束した。
 そして、今度の土曜日にでも本屋に誘おうと決めた。


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