| 窓から見える景色が暗い。 今日は朝から、雨だ。 久しぶりに降る恵みの雨は木々や花々を潤わせる。 葉に落ちた雨粒が跳ねてぴちゃりと微かな音を立て広がり散る。 花びらに伝う滴が貯まり大きな粒になり、今にも落ちそうな情景は少し切ない気持ちにさせる。 机の前には積まれた書類が貯まっているが、一向に処理する気になれない。 残り少なくなった煙草を灰皿に押しつけて消す。 立ち上がる白煙が天井に向かって伸びる時間で決めた。 僕も心を潤しに行きましょう。 天蓬は部屋を後にした。 しばらく仕事が立て込んで来れなかった、観世音の館。 つまり、それだけ金蝉の顔を見ていないということになる。 どうりで仕事が進まないと思った、と自覚した。 心の栄養が足りなかったのだ。 しかし、女官に取り次ぐと、金蝉は体調を崩して寝ているという。 覗いてもいいか、と聞くと構わないと言われた。 女官にも知れ渡るほど、天蓬はここに通っているということになる。 そんなことに気付いて、天蓬は自分が健気だな、と少し思う。 心配しながら、部屋を覗く。 「金蝉?」 寝室の扉をそっと開けた。 様子を伺うと、寝台に目を閉じて寝ている金蝉がいた。 ゆっくり音を立てないで近づく。 熱を出している・・・。 辛そうな表情だ。 天蓬はそっと、頬に手を伸ばし指先で撫でる。 やはり、熱い。 指先に伝わる熱の高さ。 天蓬は眉をひそめた。 すると、瞼が動き、ゆっくり金蝉の瞳が現れた。 ぼんやりと見つめ、やがて視界に天蓬を認めた。 「て、んぽう・・・?」 掠れた声。 「はい」 天蓬は心配げに金蝉を見つめる。 「いつ、来た?」 「今ですよ。大丈夫ですか?」 天蓬は金蝉の顔に汗で張り付いている髪をかき上げてやる。 瞳を閉じてされるがままの金蝉。 自分でも身体を動かすのが億劫なので、ありがたかった。 もちろん、相手は選ぶ。 これが、ばばああたりだったら絶対に触るなと拒否していただろう。 「ああ・・・。昨日から熱が引かないだけだ」 「何か飲みますか?」 「水くれ」 天蓬は部屋に用意されている硝子の器に、これまた透明な硝子の茶器から水を注ぐ。 寝たままの金蝉を見て、天蓬は考えた。 「このままだと飲めないですよね、ちょっと手を・・・」 そう言って天蓬は金蝉の側に寄ると、金蝉の手を取り自分の首に回させた。 そして、腰に手を差し入れて、抱き上げる。 金蝉はあっと言う間の出来事に瞳を見開き驚く。 手際が良すぎるのではないか・・・。 一応抱き上げてもらったのは感謝はしてるけど。 起きあがった金蝉は寝台の背にもたれて身体を安定させた。 「はい」 天蓬が水の入った硝子の器を目の前に差し出した。 「ありがとう」 受け取って冷たい水を口に含む。 喉を伝う冷たい感触が気持ちいい。 ふう・・・。金蝉は大きく息を吐く。 少し気分的に楽かも知れない。 こういう時、一人は少し寂しいのか? 天蓬が側にいると、気持ちが楽だ。 器を返すと天蓬は、 「何か食べられますか?果物とか喉越しのいいもの。桃、葡萄、蜜柑・・・」 「・・・桃」 「はい。桃ですね」 天蓬は金蝉に微笑む。 食欲があるだけ、早い回復を望めるだろう。 天蓬は側にあった椅子を金蝉の寝台の横に持ってくると座り、桃の皮をむき始める。 くるくると、器用に桃が剥かれていく。 それを金蝉は見つめた。 なんだか、嬉しい。 あっという間に、食べやすいよう八つ切りにされた桃が小さな器に盛られた。 「食べられますか?」 「ああ」 器を受け取る金蝉に天蓬がひそかに笑う。 「何だ?」 「いえ、食べられなかったら、食べさせてあげようかと思っていたんですけど、残念ですね」 「子供扱いするんじゃねえ!!!」 金蝉は怒る。 しかし、体調が悪い時に怒るのは、無理がある。続かないのだ。 金蝉はあきらめると、桃を口にする。 柔らかくて、食べやすい。 口中に広がるほの甘い味と香り。 「美味しい」 「それは良かったです。食べられるだけ、食べて下さいね。栄養が付きます」 安心したように笑う天蓬。 「・・・ありがとう」 最近はちゃんと生意気なことだけではなくて、感謝の言葉も言えるようになった金蝉である。もともと礼儀自体は弁えているのだ。ただ、理不尽なことには我慢ならないだけで。 「早く良くなって下さいね」 天蓬はいう。 金蝉が辛いのは自分まで苦しいし、不安だから、という思いは言えないから胸にしまって。 貴方が大丈夫か心配で、仕事が手につきませんよ、と冗談でも言えたらどんなにいいか。 でも、言ってはいけない言葉。 だから、金蝉が桃を食べ終えると横になるように促す。 天蓬を見つめる金蝉の頭を軽く撫でて、天蓬は告げる。 「さあ、少し寝て下さい。僕も邪魔でしょうから帰りますし」 「帰るのか?」 しかし、金蝉から返って来た言葉に驚く。 「ええ、傍にいたら、寝られないでしょう?」 「・・・邪魔じゃない」 「傍にいてもいいんですか?」 天蓬の言葉に金蝉は小さく頷く。 「・・・わかりました、傍にいますよ。ただ少し寝て下さい。起きた時も目の前にいますから」 「うん」 金蝉は安心したように瞼を閉じた。 すぐに、穏やかな寝息が聞こえ始める。 天蓬はその寝顔を見つめる。 寝ていればどれだけ見ても許されるから。 でも本当は、輝く瞳で自分を見てくれるのが一番なのだけれど。 今は密やかな幸せを噛みしめようと思う。 安心して天蓬の目の前で眠る金蝉に、心を許してくれていると実感できる。 傍らにいてもいい、と言ってくれた。 けれど許されていると思える反面、あまり無防備に自分の前で振る舞われると、「保護者」として必要されているだけなのではないか、と思ってしまう。 どう考えたって、恋愛対象外でしか、ありえないと。 それが少し寂しくもあった。 いつか、金蝉は恋をするのだろうか? それを自分はどんな顔で見守っているのだろうか? その時が来ても、金蝉は傍らにいることを許してくれるのだろうか・・・? いつか来る未来を天蓬は、見たくなかった。 眠る金蝉の夢の中。 そこに漂う優しい空気。 側にいてくれる、笑顔。 それに、嬉しくて、幸せで、金蝉は微笑んだ。 その寝顔に浮かんだ笑みの意味に天蓬は気付かなかった。 |