温泉の弐 (……ふ、不覚……) 湯気の向こうに四阿の青い瓦屋根が見える。それもゆらゆらと揺らいで……。 彼は湯あたりを起こしていた。のぼせたと言い換えてもかまわない。 足湯のあたりまでやっと戻ってきたのだが、足元がおぼつかなくてそれ以上はどうも進めそうになかった。腰までの浅い湯に浸かっている状態で、背後の岩に寄りかかる。 「……手を、お貸ししましょうか、姫君」 のんびりとした声が聞こえた。 「誰が姫君だ」 露骨に不機嫌な声音で金蝉は応じる。 嫌な奴に見つかった。と内心顔をしかめた。 己の弱さを見られるのは、彼の天よりも高いプライドが赦さない。 「あんまりにも遅いんで、のぼせてるんじゃないかと……」 「……別に。温泉を楽しんでいただけだ」 ぷいっとそっぽを向く。その勢いで頭の中がクラクラとしたが、そんなことは顔にも出さない。本音を言えば、濡れた湯衣すら重くて指一本動かしたくないほど。 「強情ですね」 驚くほど間近でその顔を見て、思わず後ずさりする。もちろん、金蝉が後ずさりしたつもりでも現実には10cmも下がってはいないのだけれど。 「……な、何だ」 「いえ、一緒に入ろうと思いまして……」 「お、俺は一人がいいんだ」 さっさとどっかに行ってしまえと心の中で罵るが、天蓬はにっこりと笑顔を向ける。 「そんな冷たいこと言わないで下さい。せっかく一緒に温泉に来たんですから……」 (俺が一緒に来たのはてめえじゃねえ……) 金蝉の心の声は発されることはない。すでに、声を出すのすら億劫だった。 「……おや、どうしたんです?のぼせたんじゃないですか?」 ぐらりと金蝉の身体が傾ぐ。 「いくら温泉が好きだからって、のぼせるまで入るのはどうでしょうかねえ」 天蓬は、捲簾が常日頃警戒している作りものめいた満面の笑みを浮かべた。 「……大丈夫ですか」 気がつくと、金蝉の身体は四阿の長椅子に横たえられていた。そして、頭は天蓬の膝の上。額には冷たく絞った手布がのせられ、いつのまにか湯衣も新しいものに代えられている。 「……………じゃねえ……」 掠れた声が響く。 「は?」 「……大丈夫じゃねえって言ったんだよ」 白い肌がほんのり紅潮しているのはのぼせているせいなのか、それとも照れているのかよくわからない。どっちにせよ本人が肯定する事がないことだけは確かだ。 「……じゃあ、もうしばらくこうしていましょうか」 金蝉はふんっと自分を見る眼差しから目を逸らした。 あまりにも間近でその瞳をのぞきたくはなかった。 この飄然とした男の中に存在する熱がおそろしい。いや、おそろしいのは垣間見ただけでその熱が伝染しそうになった自分自身なのかもしれない。 そっぽ向いた先に満ち足りた月の姿がある。 綺麗な満月だった。 「……お水、飲みます?」 「ああ……」 気が利くなと続けようとして、何となく上が遮られた気配に視線を上げた。 「なっ……」 何をするのかと叫ぼうとして、その唇はもう一つの唇にふさがれる。 柔らかい感触。自分とは異なる熱の存在。 ゆっくりと水が流し込まれる。 ドクドクと早鐘を打つのが、己の鼓動なのか相手の鼓動なのかわからなかった。 確かなのは、触れ合ったその唇と唇から交差した熱が己の全身を侵していることだ。 指先がぴくりと痙攣する。それは、全身を満たす甘い痺れ……頭の芯が白くかすんだ。 しばし後……名残惜しげに唇が離れる。 「……どうです?」 何がどうだと言うのだと思った金蝉は、相手のペースにすっかり巻き込まれている自分に気付いてはっと我にかえる。 「……貴様……」 「仕方ないじゃないですか。あなたは起き上がれないし、この体制では他に方法ないですよ」 ニコニコといつもの笑顔を浮かべる。 「もう一口どうぞ」 そう言って、もう一度、天蓬は水を口に含む。 ゆっくりと上体が覆い被さってくる。だが天蓬は、決して金蝉に体重をかけぬよう、細心の注意を払っていた。 自分はなぜ、この男の振る舞いを許しているのだろう……近づいてくる唇を見て、金蝉はそんなことをぼんやりと考えた。 そして、そっと目を閉じる。答えは、まだ見つかりそうにはなかった。 お姫様とその騎士(従者)が濃密で有意義な時間を過ごしている、同じ時。 倦簾は一人飲んでいた。 天鵞絨のような絨毯に腰を下ろし、手酌で名酒を杯に注ぐ。 窓から差し込む銀色の月がその透明度の高い酒に映る。 まるで、月を落としたような杯に目を細めた。 「旨いねえ………」 満月を眺めながら倦簾は呟く。 それにしても、天蓬は戻ってこない。 金蝉の様子を見に行って帰ってこない所を見ると、お楽しみなのかもしれない。 倦簾の横では悟空が寝ていた。 薄い掛け布から首を出し、脚を蹴飛ばして布をめくり上げ、すやすやと寝息を立てている。お子さまはたくさんご馳走を食べ、動き周り、はしゃいだため睡眠が押し寄せているのだ。とても健康的である。 寝る前までは、どこに入るか不思議に思うほど食べながら、 「ケン兄ちゃん!」 と言って話かけ騒いでいたというのに……。まるで動力の切れたおもちゃのようにぱったりと倒れこんでそれきりだ。 もう少し大人しくしていられねーのかと思っていたが寝てしまうと静かすぎてほんのちょっとだけ寂しい気がするから驚きだ。 悟空が静かというのは、寝ている時以外にありえないのだ。 しょうがねえな、と苦笑しつつ掛け布から出ている脚を入れてやり茶色の髪をくしゃりと撫でた。 「俺は、子守な訳ね」 独り者はつまらねえな。 一人で飲む酒が嫌いな訳はない。堅苦しく飲む酒はまずいので、よほど気のおけない奴と一緒でない限り独りで飲むことにしている。 まして酒は極上、景色も絶景ときては言うことはない、はずであるのにどうしてこんなに気が乗らないのか? それもこれも、あの2人のせいだと思う。 あの不器用極まりないお姫さまと、お姫様に対する時だけその素晴らしい頭脳がまるで働かない従者は、互いに相思相愛のくせしてあまりにもじれったすぎるのだ。 つかず離れず……もう何年もあんな不器用な恋を続けているのだろう。 はっきり言って見ている方がいささか食傷気味だ。 かといって、二人の間に付け入る隙はまるでない。はっきり言って、あのお姫様は難攻不落。そのガードが緩くなるのは天蓬の前だけなのだから始末に終えない。 (ったく、いい加減、デキちまえっての……) じゃなきゃ俺が失恋もできね〜じゃん。 あの金の髪の麗しいお姫さまに恋をしたのは、捲簾も同じ。だが、彼の恋したお姫さまは、初めからその心に他の男を棲まわせていた。 だとするならば……彼が願うのはお姫様のしあわせ。 かの姫君の想いの叶うことが彼の望み。 ……それが誰にも言わない、彼の密やかな恋の成就。 (……でも、ま、あいつらじゃそうそう一足飛びにそこまではいかねーか) 邪魔者……モトイ、バカ猿はここに預かっていて、普段のように常時侍女や下官が侍っているわけではない。はっきりいってまたとない絶好の機会なのたが、ここでそんなことできるくらいなら、もうとっくにデキているに違いない。 (ま、せめて、一歩くらいは先に進んでおけよな、天蓬) 見上げた空には、満月。 捲簾は、その月に向かって杯を掲げた。 |