夢想離宮 3


 温泉の壱

 奥殿の温泉は岩風呂である。そして、とても広い湯気で曇る先が見えないほど。
 入り口は全部で四つ。それぞれに着替えるための小さな四阿があり、湯殿は全て繋がっている。あまりにも広い為別々の入り口から入ると中で会うのにはかなりの労力を費やさねばならない。
 だが、静寂を楽しむつもりならば、絶対に別々に入るべきだった。温泉のその効能をじっくりと味わうためには絶対に一人がいい。ここまで来て、よっぱらいに絡まれたり子供の世話なんてまっぴらごめんだと金蝉は思う。
「てめえら、俺の近くに寄るんじゃねえぞ!」
 はっきりきっぱり宣言した。
「十分に広いんだ、俺の見えないところで入ってろ」
「ええ?俺金蝉と一緒がいいな〜」
 悟空は命知らずな発言をする。
「何で俺がサルと一緒に入らないといけねえんだ?俺は一人静かに入るんだ。邪魔したら即刻帰してやるから、そう思え」
 金蝉にじろりと睨まれて、悟空はしゅんと項垂れる。
「まあ、いいじゃないですか。悟空、僕たちと一緒に入りましょう」
「うん」
「これだけ広いんだ、きっと泳げるぜ?」
 捲簾もそう励ます。
「じゃあ、絶対に俺に近づくなよ、わかったな?」
 金蝉は2人に念を押す。
「はいはい」
「美人と一緒に混浴ってのも、良かったんだけどね〜」
 捲簾の軽口に眉をひそめる金蝉だったが、無視して自分の四阿に入っていった。
 それを見送った天蓬は、
「捲簾、僕からも一言。絶対に金蝉に近づいちゃいけませんよ」
 にっこり笑顔で言う。でも目が笑っていない。
 捲簾はこの空恐ろしい笑顔を知っている。絶対に逆らってはいけないのだ。
 だから、
「了解しました」
 神妙に答えた。
「それじゃあ、悟空、温泉に入りましょうか?」
 今度はいつも通りの笑顔を悟空に向けて天蓬は自分たちの四阿に入っていった。
「恋する男は怖いよな………」
 捲簾はぼそりと呟いた。


 ぴちゃりと水滴が落ちる。
 ふんわりと湯気が漂い、遠くは見渡せない。
 けれど3人の声が遠くに聞こえる。
 金蝉は安心して、湯に浸かった。
 熱過ぎずちょうどいい温度で、身体にじんわりと広がる心地良い感触。
 金蝉は両手でお湯をすくって、自分の身体に掛ける。
 気持ちが良かった。
 金蝉は実は温泉が好きである。
 ゆったりと身体が休まるし、この穏やかな空気が好きなのかもしれない。
 白く濁ったお湯は効用があり、身体にもいいと聞いている。
 普段、最近とくに悟空に振り回され肩が凝っていると感じる金蝉は、肩こりに効用があったらいいなあと思っていた。
 しばらく気持ちよく浸かっていたが、先ほど飲んだ酒が回ったのか少し意識がふんわりする。金蝉は立ち上がり、近くのちょうどいい大きさの岩に腰掛けた。
 脚だけ湯に浸かる、頭寒足熱というやつだ。
 金蝉は貴人であるため、湯衣を着ていた。
 白くて薄い衣は簡単に脱ぎ着ができるように、前あわせで大きく襟が開いている。衣は脇で結ばれていて動きやすいように両脇に膝下から切り込みが入っている。
 つまりその湯衣が濡れて、当然金蝉に纏い付き壮絶に色っぽかった。
 金の長い髪は簡単に結い上げられ、少し後れ毛水滴を含んでいる。
 上気した頬は桜色に染まり、気持ちよさに目を閉じていた。
 汗が顎から首筋を伝い落ちる。
 濡れた湯衣が華奢な肢体に張り付き、白い雪のような肌が映る。
 湯衣の切り込みからこれまた白い脚が露になっているため、もし見る者があったなら、赤面するか、欲情するかどちらかだろう。
 天蓬が捲簾に「絶対金蝉に近づくな」と言ったのにはちゃんと理由があったのだ。
 こんな艶っぽい、誘っているとしか思えない金蝉を他人に見せたい訳がない。
 天蓬元帥は、実は心が狭かった。金蝉に関する限り、極端な傾向にある。もっとも、本人自覚もあり喜んでやっている節があったが………。


「広〜い。わ〜っ」
 歓声を上げた悟空は湯船に飛び込んだ。
「こらこら、飛び込んじゃいけませんよ。他の人に迷惑になりますからね」
「いいじゃねえか、どうせ俺たちだけだぜ」
 どこから出したのか、湯殿に酒を持ち込んだ捲簾はかなり上機嫌である。
「まあ、それもそうですけど……」
 確かに子供はちょっとくらい元気な方がいいだろうと思う。
 ここに来るために、悟空は必死の努力をしていたのだから、多少ハメをはずすくらいは多めにみてやるべきだとも思う。
 何よりも離宮の中と違って、ここにはたいして破壊するようなものはないから、ここで遊ばせておく方が無難だろう。
「金蝉のとこにいかなきゃ大丈夫だろ、ほっとけって」
「それもそうですね」
 そもそも、悟空の躾なんて天蓬の知ったことではない。それを心配するのは彼の役目ではない。彼の保護者はちゃんといるのだから。
「そうそう」
 彼らはそろいも揃って放任主義を信念としていた。
 子供なんて放っておけば育つのだ。
 あまりにもはるか昔のことで覚えていないのだが、自分達だってここまで育ったように。
 彼らは、金蝉が悟空が彼らのように育つのを最も恐れていることを知らなかった。


(……こういうのも、悪くない……)
 少し休憩した後、再び湯につかる。
 こうして何度もそれを繰り返していくと身体の芯から癒されるというわけだ。
 パシャ。
 夜の静寂の中に水音が溶ける。
 手のひらに掬い上げ、ゆっくりと流れ落ちて行く湯を見ながら、金蝉はかなり上機嫌になっていた。
 疲れの染み込んだ、腕や脚……そして身体が柔らかな湯の中でゆっくりと癒されていく。
 あのババアもたまにはまともな提案をしやがるな、と頭の片隅で考えた。たとえ目当てが酒だったとしてもだ。
 そして、彼にしては極めて珍しいことにほんの少しだけ……本当に少しだけ観世音菩薩に感謝の気持ちすら抱いた。何にせよ、一瞬のことだったが。
 パシャ。
 湯に浸した手布で額を拭う。
 源泉に近い方に行けばもっと熱いのかもしれないが、金蝉がつかっているあたりは、かなり温めだった。
 あまりの高温よりも温めの方が身体にはいい。
 わずかに白濁した湯に漬かっていると、そのあまりの心地よさに眠気を覚えるほど。
 静かな湯殿で明日の仕事の心配も、いつもこうるさいサルの心配もせずにのんびりと湯に漬かる……これほど至福の時間があっただろうか。(いや、ない)
 あまりの心地よさに彼は失念していた。
 ……酒精の回った状態は上せやすいということを。


「……金蝉はまだ上がっていないんですか?」
 金蝉の風呂好きは先刻承知だが、幾ら風呂好き・温泉好きでもこれは遅すぎるなと天蓬は判断した。
 いつも不機嫌な美貌の姫君は、基本的に己を知らない。
「はい。まだご入浴されているようでございます」
 しとやかに一礼した侍女は、天蓬を見上げてほんのり頬を染めた。
 ここ数日、金蝉一行の来訪を知らされてからというもの、常には静寂で満たされているこの離宮も沸きかえるような騒ぎだった。
 金蝉童子と言えば、その美貌で知られる観世音菩薩の甥である上級神。
 なるほど実際に顔を合わせた金蝉は、噂に違わぬ……いや、噂以上の美貌の持ち主だった。
 流れる金糸の髪は光を弾き腰まで達し、その夕闇を映したかのような双眸はけぶるような紫……その麗姿に、離宮中の人間が声を失った。
 彼女らとてこの離宮の侍女なれば、高位の神族をはじめ、名だたる上級神に常日頃接する機会も多い。しかし、あれほど美しさはいかなるものか……。
 金蝉の容姿は、それほどに圧倒的で……あまりにも完璧すぎた。
 そして、同時に恐ろしい。傷一つない美貌は……強すぎる光と同じで、正視が憚られる。
 それに比べれば、彼らの連れである二人……護衛だと言う捲簾と天蓬は非常に親しみやすい。軍人だと言うが軍人特有の気性の荒々しさやその存在の持つ粗暴さが見られないし、逆に捲簾のどこかぞんざいな物言いは彼の野性味を際立たせているようだった。それに、穏やかな笑顔を浮かべる天蓬は軍人と言うよりは文官めいていてとても好ましい。
「……確か、金蝉は北の四阿から入りましたね?」
「はい」
「少し心配なので見てまいります」
「ですが、金蝉様は誰も来るなと……」
「……一応、護衛ですから。あ、これ、いただいていきますね」
「あ、はい」
 天蓬は、侍女が手にしていたお盆をそのまま受け取る。
 氷の塊の浮いた水差しはさやかな月光を反射して、その盆の上に美しい影をおとす。
 己の恋に目がくらんだ男は、しとやかな侍女の熱い眼差しに欠片ほども気付くことはなかった。





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