夢想離宮 2


 離宮

 その離宮は麗筝山の麓にあることから、公には『麗筝宮』と記される。
 しかし天宮においては、その別名たる『青月宮』の名で呼ばれることが圧倒的に多い。そして、単に『離宮』と呼んだ場合は、数ある離宮の中でもここを指す。
 それほどにこの宮は、天宮において特別視されていた。
 天宮あるいは他の離宮に比べれば、さほど広いとはいえない…天蓬の常識からすれば充分広い範疇に入ると思われるが…この宮は、常に濃い靄の中に閉ざされている。
 緑深き森と翠の湖に抱かれた白亜の宮……まるで湖の中に建っているように見えるこの宮は、選りぬかれた職人達が隅々に至るまで精魂を傾けて作り上げた実に素晴らしい芸術品だった。卓子や椅子の室内調度は言うに及ばず、随所で見られる欄間の細工の見事さや床の模様の素晴らしさは言葉には尽くせぬほど。
 そして、何よりもこの離宮の最大の特徴は、温泉があるということだった。
 温泉と言ってもそこらへんの大浴場を想像してはいけない。小さな宮一つがまるまる湯殿されている事実からも推して知るべし。
 
 
「……いいか、サル。何か一つでも壊してみろ、1ヶ月メシ抜きにしてやる」
 離宮に着いて金蝉は悟空に宣言した。
 ここ天帝の離宮の調度品を破壊された日には嫌みを言われるどころか、弱みを握られる上、二度と使用できなくなる。
 そして、天蓬と捲簾に向かって、
「お前ら問題起こしてみろ?叩き出してやるだけで済むと思うなよ!!」
 表向き護衛であろうとも、二人がおとなしくしていると思えない金蝉である。
 金蝉はこの離宮の正式な賓客であるが、一行の責任者でもある訳だ。
「問題なんて、僕が起こす訳ないじゃないですか、金蝉」
 天蓬はにっこりと微笑む。
 しかし、その笑顔に騙される金蝉ではない。
 伊達に長年付き合っていない。
「美人が柳眉を逆立てて怒鳴るってのも悪くない。そそるねぇ」
 にやにや笑う捲簾にきつく言い渡す。
「捲簾………いいか、女官には手を出すな。ここは天帝の離宮だ。そして、酒は出された物以外飲むな。酒蔵漁ってる姿をもし見たら、すぐに帰ってもらうぞ!」
 女好き、酒好きの捲簾である。釘をどれだけ刺しても、足りない。
「へいへい」
 手を頭の後ろで組んで、軽く返事をする捲簾を金蝉は睨んだ。
 前途多難。
 金蝉の頭に浮かんだ言葉だ。
 心の中で大きくため息を付いた金蝉は挨拶に来た女官に食事の支度を頼んだ。


「旨そう!!!!!」
 悟空の嬉しそうな声が部屋中に響く。
「確かに、美味しそうですね、金蝉」
 隣に座っている金蝉に天蓬が言う。
「まあな」
 金蝉も同意する。
 目の前に並べられたご馳走はどれもこれも美味しそうだ。
 鮑茸と袋茸を添えた鴨肉の冷菜、薄切りにした鮑に雲丹味噌を重ねた蒸し物、翡翠緑の餃子やぷりぷりしたエビの詰まった焼売等の点心はもちろんのこと、珍味と言われる燕の巣と筍の羹やら鱶鰭の姿煮等……新鮮な魚貝類に海老や貝柱などの高級食材をふんだんに使い、贅を尽くした料理がならんでいる。
 そして無論忘れてはならないのは、氷でできた器に盛り付けられた『翠晶果』と破璃の酒器の中で揺れる『翠晶酒』だった。

「まるで宝石のようですね」
 翠色に輝くその艶やかな粒は、どのような宝玉にも勝る微妙な色合いをしている。
 悟空の一番食べたかった『翠晶果』。
 たわわに実った、その極上の葡萄を目にして悟空の目がきらきらと輝いている。
「頂きます〜〜〜!!!」
 悟空は艶やかに輝く緑の粒を摘んで口に入れた。
「美味しい!!!!!」
 顔中で「嬉しい」を表現してる悟空だ。
 ここでしか食べられないのだ。美味しくない訳がない。
 ばくばくと口にする。
「サル、こぼすなよ」
 金蝉はそれでも母親のように注意する。
 子供に、まして動物にその忠告は無理なのだが、言わずにはいられない金蝉であった。
 条件反射であろうか。
「酒だ〜」
 そして、ここにも子供が一人。
 捲簾は初めて飲む『翠晶酒』を見て、ご機嫌である。
 新酒は色も淡い翠色をしている。これが年経るごとに熟成し、100年を越える頃には果実そのものの色を映す翡翠色になるのだと聞いたが、そこまでの年代物にはさすがの金蝉もお目にかかったことがない。
 破璃の杯に満たした淡い色合いの酒は、さっぱりとしていて……でもほのかに甘い。
 年代物になると紅く色付いてきて、芳醇な香りと味がする。
「旨〜い!!!」
 一口煽って、相好を崩す。
 金蝉と天蓬の前にも華奢な硝子の器に注がれて、その『翠晶酒』がある。
 悟空の前にあるのは、年齢を考慮してくれたのか翠晶果を絞った果汁だった。
「旨いな………」
「本当に、美味しいですね、これ」
「これもすっげー旨いよ」
 口に広がる何とも言えない甘みと旨味。さわやかな香りも鼻をくすぐる。
 ついついお酒が進みそうだ。
 美味しい料理を魚に、旨い酒。
 金蝉も段々と顔がほころんできた。
 目元をうっすらと紅く染めた金蝉を隣で見ていた天蓬は、来て良かった、と思っていた。
 天帝の離宮に自分のような軍人が上がることは、まずない。
 上級神である金蝉がいるからこそこうしてもてなされ、『翠晶果』を口にし、『翠晶酒』を飲むことができるのだ。
 上級神は賓客である。
 金蝉は最上級神である観世音菩薩の甥だ。本来ならば、天蓬や捲簾がこのように気安くつきあえる相手ではない。
 公的な地位こそなくとも、その身分は高い。だから、簡単にここの許可も下りたし歓迎されている。
 そもこの離宮にあがるということは……それが認められるということはそれだけで相応の身分の証となるのだ。





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