夢想離宮 1


 約束

 ドタドタドタっ……バタンッ。
 うるさい足音、勢いよく開かれる扉……招かれざる訪問者が誰であるのか顔をあげずとも金蝉にはすぐにわかった。(というか、この宮でこんなに騒がしい者は他にいない)
「サルっ、廊下は走るなっ、ドアは静かに開けろっ」
 額に青筋を浮かべ、毎度毎度同じことを言わせるんじゃねえと心中で突っ込みをいれつつ、言い放つ。
「金蝉っ、俺っ、翠晶果が喰いたいっ」
「はぁ〜っ?」
 金蝉は書類から顔をあげて、思いっきり怪訝そうな表情で突っ込んだ。
「きれいな緑色の葡萄なんだって。しかも、100年に一度しか実がならないんだってさ。
すっげえうまくって……ほっぺた落ちそうなくらいなんだって……」
(……誰だ、そんなことをこの食欲魔人の耳にいれやがったのは……)
 『翠晶果』というその名に聞き覚えはある。
 ありとあらゆる美味珍味が饗される天宮においてすら、やたらと食することができない貴重な葡萄だ。育成条件が大変厳しい為、天界のごく一部の地域……より正確に言うならば、ある一箇所の農園……でしか栽培することができない。
 たかが葡萄と言われるかもしれないが、これは本当に稀な美味だった。
 その上、この葡萄から作られた酒は格別だった。珠玉の逸品と言ってもいい。
 ただし、あまりにも少量のため一般には出回ることはまずない。確か観世音菩薩の秘蔵の酒倉の中にも2、3本しかなかったはずだ。
「ほぉ、『翠晶果』か……。そういえば、そろそろ季節だな……」
 居合わせた観世音菩薩が思考を彷徨わせる。
「なあ、金蝉ってば〜」
(……うるさい……)
 とは思うものの、目の前で期待感に満ち溢れたその大きな瞳に見つめられるとムゲにもできない。
「あのな、あれはすごく珍しい葡萄なんだよ。てめえのようなサルの口に入るわけねえだろうが」
 手に入れることは不可能ではないが、金蝉や観世音菩薩ですら困難が伴うことは確かだった。
「でも、作っている場所に行けば食べれるって。見張りなんていないから食べ放題だって……。前に天ちゃんとけん兄ちゃんはそれで食ったって……」
(あのバカどもめ、何て事を……)
 二人の姿を脳裏に思い浮かべて、金蝉はかなり本気で拳を握り締めた。
 数年前に賊が押し入ったと聞いてはいたが、その賊はどうやら軍服を着用していたらしい。
 だいたい、あの二人はどちらをとったとしても子供の教育に関して大変よろしくない影響のある人物である。一人一人でも無論のことだったが、二人揃えば尚更だ。
 自分はもう少し悟空の教育について真剣に考えるべきかもしれないとちらりと金蝉は思った。もちろん、無駄だという気はしていたが。
 ぎゃははははと観世音菩薩は腹を抱えてバカ笑いをしている。
 じろりと金蝉は一瞥をくれた。
「いいじゃねーか連れて行ってやれば。確かあの近くには離宮があったはずだ。別に盗み食いなんかしなくても、離宮でおまえが所望するって言やあ、ちゃんと出てくるさ。生産地なんだからな。ま、ついでに温泉にでもつかって2、3日のんびりとてくればいいじゃねーか?何だったら俺が手配しておいてやろうか」
 妙に協力的な観世音菩薩に白い目を向ける。
(……怪しい……)
 普段彼をコキ遣っている張本人、すべての元凶にそんなことを言われてほいほいとそれに乗る金蝉ではない。
「……何を考えてる……」
 冷ややかな声音は、硬質な響きでありながらどこか背筋を甘くざわめかせる響きを帯びていた。
「べ〜つに〜。土産は『翠晶酒』の新酒でいいからな」
 なるほど、狙いはそれかと納得する。
 そろそろ収穫期だということは、当然、去年醸した新酒もそろそろ解禁されるということだ。
 この目の前のババア(と、金蝉は呼んでいる。ジジイでも可)は、無類の酒好きだった。
 千年に一升しか醸すことのできないと聞く幻の『清凍酒』と引き換えに少年の金蝉をどこぞの助平爺に売り飛ばしたことは未だ記憶に新しい。
 貞操の危機をやっとのことで逃れて怒り狂って詰め寄った金蝉に、観世音菩薩曰く。
『俺は別におまえの貞操を売り渡したわけじゃない。「一晩自由にしていい」と言ったが、それはおまえの時間を一晩自由にしていいってだけで、おまえの身体を自由にしていいって言ったわけじゃないからな。後はおまえ次第だ。おまえが逃げようがヤられようがそらはおまえの自由意志ってヤツだし……。せっかく一晩おまえと一室に閉じ込めてやったのに何もしなかったのもあっちの自由意志だからな。アフターケアまでしてられるかっての。ま、俺の知ったこっちゃねーな』
 さすがの金蝉も開いた口がふさがらなかった。
 まるで詐欺の手口である。
 『慈愛』と『慈悲』とやらが聞いて呆れると思ったが、このババアは万事が一事こんな調子だった。

「なぁ、金蝉……、いいだろ〜、なぁ〜」
 目の前で金色の瞳がきらきらと輝いている。
 まっすぐと彼を見つめる澄んだ瞳は、まるで鏡のようだ。
「……1週間、何も壊さず、誰にも迷惑をかけず、俺の仕事の邪魔をしなかったらつれてってやる」
 絶対に無理だと思った。
 何せ相手は悟空だ。
 学習能力のないサルだ。
 これまで1日だって彼の仕事の邪魔をしなかった日はない。(毎回、毎回、理由は違ったが)
「うん。約束だからなっ」
「ああ」
 見あげる瞳にたいしておもしろくもなさそうな顔で金蝉はうなづいた。
 
 彼は、子供が一途に寄せる情熱と、悟空の食べ物に対する恐るべき執念というものをまだ理解していなかった。


 出発

 どうしてこんなことになったのか?金蝉は疑問に思う。
 こんなはずではなかったのに。
 まさか、本当に悟空が「約束」を守るとは思わなかったのだ。
 ところが、サルでも執念があったのか、それとも動物だからこそ食べ物に関して意地汚いのか、1週間何も壊さなかった。
 誰にも迷惑をかけなかった。苦情も来ていない。まあ、ここ以外の場所では知らないが。
 そして、金蝉の仕事の邪魔もしなかった。邪魔しないように、あまり執務室に入らないようにしていたようだ。サルはサルなりに相当努力したらしい。
 最初の日にすぐにダメになるかと思っていたのに、とうとうやり遂げてしまった。
 そして、「約束だよな!」と瞳を輝かせて言われては、頷く以外できなかった。

 金蝉はため息を一つ付いた。
 しかたない、離宮に連れていってやるか。これも飼い主の義務だ……。
 無理やり自分を納得させる。
 そう。そしてついでに自分も温泉に入り、上手い酒でも飲むとしよう。
 金蝉は気持ちを切り替えて、「離宮への旅?温泉&旨い物ツアー」を楽しむことにした。


 さて、出発の日。
 離宮には観世音菩薩がすぐに連絡を入れてくれた。おかげで決まった次の日にはこうして旅立つこととなった。実は自分が『翠晶酒』をいち早く飲みたかっただけではないのか、とも思わないでもない。
 しかし、金蝉の思った通りには物事は進まないらしい。
「おはようございます、金蝉!」
「よう!元気そうだな、悟空」
 金蝉の前に現れたのは言わずと知れた、天界西方軍、天蓬元帥と捲簾大将であった。
「なぜ、お前達がここにいる?」
 金蝉は不機嫌そうに言う。
 それに、天蓬はにっこり笑いながら答えた。
「え?温泉に行くんでしょう。お供しようかと思いまして!」
「いらん!」
「離宮に行くんだろう。『翠晶酒』がちょうど時期じゃねえか。『翠晶果』も食える、温泉もある、正に極楽だね♪」
 捲簾はこれからの旅を思い巡らせ楽しそうに言う。
「だから、誰が連れていくといった!」
「嫌ですよ、金蝉。二人で行くつもりなんですか?大勢で行った方が楽しいに決まってるじゃないですか!」
 ね、と笑う。
 その笑顔に金蝉は眉間に皺を寄せて、怒る。
「誰から聞いたかしらないが……、悟空、お前か……」
 金蝉は悟空を見る。
「え〜?一緒に行かないの?俺、みんなで行きたいなあ!!!」
 悟空はみんなで行くものと思っているらしい。
「そうですよね、そのために悟空はがんばったんですよね」
「うん!ありがとう、天ちゃん、ケン兄ちゃん!」
 悟空は二人に礼を言う。
「それは、どうゆうことだ?天蓬、捲簾!」
 金蝉は二人を睨む。
「1週間、何も壊さない、迷惑をかけない、金蝉の仕事の邪魔をしない、でしたっけ?どうしたらいいかって、相談を受けたんですよ。ね、悟空」
「うん、そしたら、いろいろ教えてくれたんだ!」
「……」
 金蝉は理解した。
 サルに学習能力があったのではなく、二人の入れ知恵だったのだ……。
 道理で執務室にいないと思った。絶対、二人が相手をしていたに違いない。それなら、苦情も来ないだろう。
(全く、そんなに離宮に行きたいか!お前ら!天界軍はそんなに暇なのか??)
 そこへ、
「よお!!準備できてるか?」
 現れたのは、もちろん観世音菩薩であった。
 観世音菩薩は天蓬と捲簾を見ても当然という顔をしていた。
「ばばあ、知ってたのか?こいつらが行くって……」
 金蝉は観世音に詰め寄る。
「いいじゃねえか、連れてけば」
「嫌だ!」
 金蝉は即答する。
「それが嫌だったら、軍一個小隊連れていくか?どっちがいい?」
「何でそんなもの連れていくんだ?鬱陶しい!」
「金蝉童子。お前は上級神なんだよ、それも俺の甥だ。離宮までの道のり、護衛も付けずにここから出せる訳ないだろう。それが嫌だったら二人を連れて行け。仮にも天界西方軍、天蓬元帥と捲簾大将だ。十分護衛になる。それなら、俺も許可してやる。どうする?金蝉」
「………」
 究極の選択ではないのかそれは。こいつらを連れていくか、一個小隊引き連れて行くか……。
(それにしても、鬱陶しい。たかが、離宮に行くだけで、護衛!)
 普段、出不精の金蝉は自分の立場を全く理解していなかった。
 観世音菩薩の甥で、上級神。
 それでなくとも見るものを圧倒する美貌の持ち主だ。
 どうしたって、目立ってしょうがない。観世音と言えど護衛も付けずに道中の無事を保証できる訳がない。護衛は決して形式的なものだけではないのだ。
「………わかった」
 そして、金蝉は、しぶしぶ二人の動向を認めた。
「やった〜〜〜!一緒に行けるんだね」
 悟空は無邪気に笑う。
 天蓬も捲簾の当然のように笑っている。
 それが、金蝉の気に障った。
「ただし、お前ら問題起こすんじゃねえぞ!起こしたら、叩き出してやる!」
 金蝉は腹いせに宣言した。
 護衛を叩き出す訳にもいかないだろうが、やってやる。
 金蝉は決めていた。
「じゃあ、行ってこいや!土産待ってるからな!」
 観世音が手を振る。
「行って来ます!」
 悟空の声だけとても元気だ。
 一行を見送りながら、観世音は思う。
 二人が付いていれば、問題ないだろう。………腕は立つ。
 まあ、別の意味で危ないかもしれねえけどな、それはあいつが自分でどうにかするしかないだろう。
 温泉ってのは開放的っていうしな……。肌も綺麗になるらしいし。
 そこで、天蓬の理性がどれほどもつのかね?それも、一興だな。
 観世音は楽しげに笑った。




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