あの晩。 有栖川は仲の良い先輩女流作家、朝井小夜子と飲んでいた。初めは梅田の洋風居酒屋で軽い食事を摂りながら飲んでいたのだが、だんだんと盛り上がるうちに、有栖川が最近買ったお気に入りのビデオ(もちろんホラー映画である)の話になり、今からふたりでそれを見ようということで、有栖川のマンションになだれ込んだ。 ビデオを見ながらまた飽きもせず、火村が先日置いていったフォアローゼスを一本空けて、酒に関しては並みの並、といった程度の有栖川はすっかり気持ち良く酔ってしまい、気がつけばソファでうとうとと舟をこぎ始めていた。 一人取り残された、こちらは酒の強さは最強レベルの朝井女史は、手持ちぶさたにキャメルを咥え、すやすやと睡っている有栖川を斜めに眺めた。まったく、幸せそうな顔をして眠ってくれる。長い睫毛を閉じ合わせ、うっすらと開いた唇で静かな呼吸を紡ぐ顔を見ているうちに、どうにもムカムカと腹が立ってきた。 なんやねん。客を置いてひとりで寝るなっていうの。あんた、わかってんやろうね。これでもうちは女なんやで、失礼千万やないの。しっかも、とんでもなくカワイイ顔して……。ああ、ムカつく。 そんなふうに考えたこと自体、朝井女史の思考回路にもアルコールの影響が出始めていた証拠である。とにかく、理由もなく不機嫌になった朝井女史は、何か悪戯でもしてやらなければとてもすまされない気分だった。朝井女史は三分の一ほど吸ったキャメルを灰皿に押しつけてもみ消し、覆い被さるように有栖川の顔に顔を近づけた。 襲うたるわ。後で泣いても知らんで。 酒の混じった甘い息を継ぐ唇に、唇でそっと触れてみた。 朝井女史は三十半ば……星の数ほど、というのは言い過ぎだが、数え切れない程度のキスはしてきた。仕掛けるキスも、仕掛けられるキスも。でも、こんな、男子中学生が片想いの女の子の唇を眠っているうちに盗むような、かわいらしいキスは経験がない。実際、有栖川は三十過ぎの男のくせにふわふわと柔らかくて、朝井女史は勝手がわからなくなり、途中で首を傾げてしまった。 ほんまになんやの、この子は。 もう一度、今度は深く唇を合わせる。密着させてから軽く押し開くと、元々閉じられていなかった有栖川の唇もあっけなく一緒に開かれた。ちらりとのぞかせた舌の先で唇をなぞり、粒のそろった貝殻のような歯列をなぞり、それからするりと内側へ滑り込んだ。そうなれば、酸いも甘いも知り尽くした朝井女史のこと、もしも本当に有栖川が女子中学生なら間違いなく腰を抜かしてしまうような、やや濃度の高いキスに切り替えた。 「……ふう」 感じているのか、ただ息苦しいだけなのか、よくわからない吐息が有栖川の唇からこぼれる。朝井女史は唇を離し、それでも起きる気配のない有栖川の顔を見つめた。かわいらしくて、幸せそうで、どうにも許してはおけないような残酷な気になる。朝井女史は自分の中の悪魔が囁く通りに、酔いのため薄く上気した暖かくて滑らかな首筋に、咬みつくように吸いついた。 その瞬間。 有栖川が、不意に目を醒ました。 というよりも、目を開いた、といった方が正しいかもしれない。ぼんやりと潤みのフィルターがかかったような双眸で有栖川は朝井女史を見つめ、長すぎる一呼吸を置いて目を細めてにっこりと微笑い、それから、 『……ひむら』 そう、呟いた。 何の躊躇いも、疑いもなく。 そして、ふたたび何かに攫われるように寝入ってしまった。 悪い物にでも取りつかれたかのように、一瞬で酔いが醒めてしまった朝井女史は、しばらくの間あっけに取られたように有栖川の顔を見ていたが、やがておかしくなってくすりと笑った。 ――なんやの。 こらえきれず、声を出して笑う。有栖川に被さっていた上体を起こし、ソファに背を凭れる格好で、テーブルの上のキャメルの箱を手に取った。 「あぁ、あほらし」 思わず、声が出た。 抜き出した一本を口に咥える。さきほど居酒屋でもらってきた燐火で火をつけながら、彼女はまだもうしばらくの間、くすくすと笑いつづけていた。 ―――眠っているのに、有栖川はなんだかとても幸福な気分だった。 キスは、五感が馴染んだ火村の匂いがした。それは、有栖川にとってはなによりも身近な香りで、彼はその香りに包まれて無条件に安心していた。それが火村なら、どんなことでも受け入れられる。意識よりも本能的に、有栖川はそう考えたかもしれない。 火村が好むやや癖のある煙草は、朝井女史が愛飲する煙草でもあった。ただそれだけの偶然が有栖川に『夢』を見させたのだ。 そのことを有栖川は知らない。あの夜の成り行きを有栖川には、ましてや朝井女史にはとても問うことができない火村も知らなかった。 あるのは、不確かな記憶と錯覚によって生じる有栖川の不可解な言動。そして、有栖川の首すじに残されたくちづけの跡だけだった。 * * * 「会いとうないって言うたやないか」 顔も向けずにつれない言葉を吐く有栖川を、火村は眉を顰めて見た。 こんなかわいくないことを言う口を、いっそ塞いでやりたい。 しばらくの間、と有栖川は言ったし、火村は本当に有栖川の機嫌が直るまで待つつもりだった。なのに2週間が過ぎる頃には、火村は自分に禁断症状が出ていることをはっきりと自覚することとなった。 寝ても覚めても『アリス』である。何を見ても何を聞いても行き着くところはそこで、思考のパターンが一本化されてしまったかのように、そこから離れられない。互いに別の仕事を持つ立派な社会人である。小学生や女子高生ではあるまいし、今までだって半月程度は声さえ聞かずにいるときもあり、こんな症状に陥ったことはなかったはずなのに、まったく、どうにかしてしまったとしか思えなかった。 火村はそんな自分をばかばかしいと思い、自慢の自制心を総動員してこの異常事態を切り抜けようとした。幻を見るようになったら終わりだと、冗談半分、自分自身で一線を引いていたのだが、一昨日、ついにそれを見るに至ってようやく事態の重さを認識することとなった。仮眠を取っていた研究室のソファから落ちて目を覚ましたら、どういうわけか有栖川の姿がある。無意識に抱き寄せようとしたのだが、だが、腕は虚空をかき寄せただけで、実際にそこには何もなかった。誰も見てはいないと思っても、恥ずかしさとバツの悪さで顔が赤くなった。 ――具合が悪くなりそうだ。 それで、火村はついに観念して、有栖川の部屋を訪れたのだった。 「しばらく……、会われへんて言うたはずや」 「おまえが一方的に言ったんだろう? で、俺の返事も聞かずにさっさと帰った。俺は納得してないぜ」 落ち着いた様子で言葉を紡いでいるように見えて、火村は今すぐに動いて有栖川をつかまえてしまいそうな自分の右手を抑制するのに必死だった。 「せやけど……」 「しばらくってなんだよ。……俺は待てなかった。そんな曖昧なこと言われたって、とてもきけない」 「……子供やないんやから、少しくらい会われへんでも平気やろ?」 「おまえは平気なのか?」 少し開き直っている。それは自分でもわかっていた。 「何日も俺と会わなくても」 「……」 「寂しいとも思わないのか」 「そんな……、寂しいやなんて、子供みたいな」 「四六時中一緒に居たいとか、そんなことを言ってるわけじゃない。俺にだって分別はあるからな」 とうとう火村は有栖川の肩に手を置いた。こっち向けよ。言って、やや強引に彼を自分に振り向かせた。 目が合うなり。 有栖川は、また派手に赤面する。……まったく、いい加減にしてくれ。 「けど……やっぱり聞かなきゃ納得できねぇ……」 ぞんざいな囁きは、ほとんど吐息になって有栖川に零れた。硬直したまま自分を凝視める有栖川の頤を指の先に捉え、ゆっくりと唇を近づけていった。 「……ひ」 「なんで、会いたくないなんて言うんだよ……」 「火村……っ」 触れてしまう寸前で、火村は有栖川の両手に押し戻された。火村は顎に触れていない方の手でその手首を握り締め、有栖川の抵抗を封じ込めた。握り締めた手首を有栖川の背に回して固定し、そうすると有栖川は火村に密着したまま動くことができなくなった。 煙草の香りの混じった微かな火村の匂いが、密着しているから濃く有栖川を包む。有栖川は軽い眩暈を覚えて、熱い涙が滲んできた。 「アリス」 有栖川を宥めるように、火村は呼んだ。手の内の有栖川の顔をやや仰向けるように傾けると、唇は2センチも離れていないすぐそこにあった。 「……キス、してもいいか?」 「な……っ、何言うて……」 「いいな」 いちいち確認を取られても、有栖川は混乱するばかりだ。これは現実なのか、それともいつもの夢なのか、判断がつかなくて頭がぐるぐるになる。夢かもしれない。夢に違いない。それなら、もう何度もしているし、拒む理由なんかどこにもないのかもしれない。 どうしよう。 もう、わからない。 しかたがないので、焔にまみれたように熱い瞼を上げて火村の顔を見た。 「目、閉じてろよ」 火村は低く囁いて、とうとう有栖川の唇に触れた。言われるまでもなく有栖川は、逃げることもできずに瞼を閉じ、迷うだけの瞳を覆った。火村は、ふっくらと膨らんでいる下唇をついばんで柔らかく挟み、上唇に移って輪郭を辿り、こわばりを宥めるように両の口角に触れ、それから、吐息を重ね合わせてゆっくりと塞いだ。そのまま押しつけて開く火村の唇の動きに、有栖川の唇は素直についてきて、うっすらとほどけたその隙間に滑り込むと、内側の粘膜は信じられないほど甘かった。 丁寧に丹念に有栖川の唇の内側を刺激してやると、唾液が溢れ出してくる。その甘さを味わいながら火村は、さて、どうしたものかと、妙に冷静な頭の一角で考えた。有栖川の過去の恋愛経験をほとんど把握してはいるものの、彼がその相手とどんなキスをしていたかまではさすがの火村も知るわけがない。どのくらいまでのキスが有栖川の許容範囲なのかがわからないので、少し手加減をしてやろうと思い、火村は自分の口内に吸い出した有栖川の舌先を柔らかく咬んだところで、とりあえずは彼を解放してやった。 「……はぁ」 唇を離してのぞき込んだ有栖川の顔は、今にも泣き出しそうに見える。朱を掃いたように目元が薄く上気し、そこに黒々と潤んだ瞳と濡れて膨らんだ赤い唇が嵌まっている様は、火村の拍動をたやすく加速させた。 「……う」 「?」 有栖川が俯いてぽつりと何か呟くのを、火村は聞き逃してしまった。背中に押しつけて拘束していた有栖川の手首を離し、代わりにその手で彼の頬に触れた。 「……どうした?」 「……違う。こんなんや……」 「違うって、何がだ」 一度キスを交わしたことで、火村の焦燥は嘘のようにおさまっていた。彼は自分でも驚くほどの余裕を意識しながら、睦言のように優しく問いただしてやった。 「何が違うって……?」 「……」 有栖川はぼんやりと間近にある火村の顔を見つめていたが、やがて諦めたように口を開いた。頭のどこかで、まだ、これも夢の中の出来事だと思っているのかもしれない。 「いつもの……キスと違う」 「い……いつものキス?」 予想もつかなかった有栖川のセリフに、火村は思わず場にそぐわない気の抜けた声を出してしまった。 「いつもって……何言ってんだ、おまえ。俺、おまえにキスすんの初めてだぞ」 「……え?」 「俺はおまえが酔っぱらって意識不明になってたって、キスなんかしたことねぇぞ。そんな欲求不満の男子高校生みたいなマネ、俺がするとでも思ってんのか?」 いや、このまんまだったらしたかもしんねぇけど、とその言葉は発せずに飲み込み、火村はぐいと有栖川を抱き締めた。 火村がそう言ったとたん、有栖川は発火したようにそれまで以上に派手に赤くなった。慌てて火村の胸に手のひらをつき、彼から離れようともがき始める。 「逃げるなよ、アリス。どういうことか、ちゃんと聞かせろ」 「……な……なんもない……関係あれへんって……っ」 「関係ないことがあるかよ」 少し乱暴かなと思いながら火村は、暴れる有栖川の身体を強い力で巻き締めて、ほとんど押し倒すようにソファに座らせた。左膝を有栖川の膝の上に乗り上げてぐいと上体を乗り出すと、その分だけ有栖川は身体を反らし、そうすれば背が背凭れに押しつけられる形になって、必然的に立ち上がることはできなくなることを見越しての行動だった。 「アリス」 「な……何や」 呼んで、火村は舌を突き出してぺろりと有栖川の唇を舐めた。信じられないくらい甘い。もともと甘い物は嫌いではないが、この甘さは何とも言えずたまらない。何か特別な成分でも含まれているのかと思うほど微妙で極上な味がする。 わかっている。こんなものは錯覚だ。 けれど、こんな錯覚ができる自分は、そう悪くない。 「正直に答えろよ。誰のキスと較べてるんだ?」 「……較べてへん」 「嘘つくんじゃねぇよ」 「嘘やない。……ごめん、火村。膝、重いって……」 「言ってやろうか?」 我ながら、何もこんなに意地悪くならなくても良いのにと思いながら、火村は続けた。有栖川が自分を拒んでいないことは充分すぎるほどわかっているのだから、今更もうどうでもいいという気もしたが、やはりここはきちんと確かめておかなければ、後々まで引きずってしまうことになるだろう。だから、ほとんど確信を持って、 「朝井さんだろ? 違うか?」そう言ったのに、有栖川は、火村を突き飛ばすようにしていきなり立ち上がった。 「な……っ、なんで……っ。なんで、俺が、朝井さんとキスなんかするんや!!」 怒っている有栖川というのは、そうそう見られるものでもない。火村はやや呆然として有栖川の突然の激情を眺めた。 「……あほっ。火村のあほ……」 有栖川は、怒っているうちに涙が滲んできた。この男は、いったい誰のおかげでこんなに悩んでいると思っているんだ。火村だから、相手が他の誰でもなくて火村だから、こんなに苦しくてつらいのに……っ。 「おまえが……っ、夢で……」 「……夢?」 「毎日毎日、勝手に俺の夢に出てきて……それで、勝手にキスしてくるんやないか。……せやから、俺は……」 「いやで、逃げてたって?」 有栖川は、もう逃げ場がない思いで力なくかぶりを振った。夢の中で何度も何度も繰り返される火村のキスがいやだったかどうか、そんなことは考えなくてもわかりきっていることだった。 「……いややない。いやなんかやあらへんけど……」 「けど?」 「火村といたら、思い出して……」 「……照れてたのか?」 言葉を引き継いで紡いでやりながら、火村は笑ってしまった。 こいつは、なんてかわいいことを言うのだろう。30をとうに過ぎた大の男のくせに、いちいち感動させてくれる。 火村は手を延ばし、すぐ届く位置にいる有栖川に触れた。腕をつかんで引き寄せると、有栖川は今度は抗わずに素直に傾いて火村にぶつかった。優しく、柔らかく、ゆっくりと抱き締めた。 「……これは、夢じゃないぜ? わかるな?」 「……たぶん……」 有栖川の答えはどうにも頼りなくて、目の奥をのぞき込むようにもう一度くちづけてみる。 「……違うから。いつもと……違う」 「いつもとどう違うって?」 「そんなん……よう、言われへん」 有栖川は吐息のように呟いて、静かに唇を噤んだ。 「じゃあ、もう一度確かめてみろよ」 煙草と酒と……今思えば、夢の中での火村のキスは、その香りだけだった気がする。甘いと感じたことはなかった。なのに、たった今与えられた火村の唇は、甘くて、甘くて、ほんの少しだけ苦い。 この違いは、夢と現実の違いだ。そう思って有栖川は、自分から火村の唇にキスをした。 キスを交わすには、理由が要る。 これから、その理由を探すのだ。 もしかしたら火村はもう見つけているかもしれないけれど、ようやく夢と現実の区別がついたばかりの有栖川には、まだそれははっきりとわかってはいない。だから、これから急いでその理由を探そう。 きっと、そんなに長い時間はかからない。 抱き止めてくれる火村の首すじに両腕を回し、緩く抱き締め返しながら、有栖川はそっと微笑した。 まひるさまは、先日サイトを閉鎖されたのですが、とても気にっていたお話だったので、 お願いして載せさせて頂きした。ありがとうございます。 そして、ご苦労さまでした。 キャメルは火村の香りとインプットされているアリスが可愛いです。そして、無意識にでも許している所が、 溜まりません・・・! 火村がアリスにキスしようとするシーンは何度読んでも好きなんです。 そりゃ、甘いでしょうよ、助教授・・・と思いません?(笑) |
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