声をかけようとして、いっとき躊躇った。いったいどんな夢を見ているのか、睡る有栖川の顔があまりに幸福そうに見えて、起こして現実に引き戻してしまうのがかわいそうな気がしたのだ。 「アリス」 それでも、際限なく眠らせてやるわけにはいかない。火村はベッドの脇に佇んだまま、囁きを落とすように呼んだ。最初は、起こすためではない、とりあえず呼んでみるといった感じの呼びかけ。声が、熟睡している有栖川に届かなくても無理はない。そこに有栖川が居ることを自分自身に確認させるために一度火村は囁いて、それから、有栖川の枕の横にそっと右手をついた。 「おい、アリス」 今度は、少しだけ身を屈め、少しだけ声を強めた。閉じ合わされた有栖川の薄い両瞼にかすかな痙攣が走り、睫毛がさざなみのように震えた。 そして、睇が現れる。塗り込めたような漆黒で、水の膜を張ったように濡れていて、はみ出しそうに揺れている。大きすぎる黒瞳はなかなか対象に焦点を合わせられず、いつだって目の前に居る火村を捉えるのに時間がかかった。捉えるだけでなく、その映像が意識に届くまでには、更にもう一段の時間が要る。 「起きろよ」 「……」 「もう9時になるぜ」 ゆっくり紡ぎ出す声と共に、火村は微笑がこぼれるのをどうしようもなかった。 寝起きの悪さには定評のある火村が、有栖川と一緒のときだけは彼よりも早く、しかもはっきりと目が醒めるのは、夢現にうつろう有栖川の双眸を見たいがためだけのことだ。今朝のように、外での待ち合わせを決めておきながら、有栖川の寝坊癖を理由に、京都−大阪間の距離をわざわざ彼を起こしに来ずにいられないのも。 そのことを火村は自覚していたが、有栖川に告げたことはない。有栖川の表情の変化を見るだけのことがなぜこんなにも楽しいのか、その理由については考えてみることさえなかった。有栖川も寝起きの思考回路ではその辺りにまで考えが及ばないのか、いつでも火村に起こされる自分の状況について疑問を感じることはないようだ。ただあたりまえの朝の習慣として、馴染んでいる。有栖川はその視界にようやく火村の姿を認めると、いつもの朝と同じように、両の口角を引き上げて機嫌の良い笑顔を作った。 この笑顔が要注意である。こんなふうににこにこ笑っているのですっかり起きたのだと思って安心していると、少し目を離した隙にまた眠ってしまっていたりするから始末が悪い。火村は有栖川の目醒めを確実なものにするために、ぼんやりと自分を見ている有栖川の頬をてのひらで軽く叩いた。 「ほら、いつまでもぼうっとしてると置いていくぞ。地裁、ついてくるんだろ」 「んんー。……おはよ、火村」 「ああ。……って、挨拶するんならせめて身体くらい起こしてからにしろ。……おまえ、ゆうべずいぶん飲んだな?」 薄い頤をつかんで覗き込んだ有栖川の眼は、うっすらと充血している。 「ちゃんと見えてるか?」 「そないなことあらへん。……飲んでへんよ、ぜんぜん」 まるで見当違いの返事を返しながら、有栖川は身体を起こそうとしたが、背骨が溶けてしまったかのように姿勢が定まらず苦労している。火村は呆れながらも、有栖川の右手を引いて手伝ってやった。 「……なんか、のどがヘン……。あれ……? 火村、ずっとここにおった?」 「今来たんだよ。放っておけばおまえいつまでも寝過ごすからな。……ったく、今頃言うなよ」 こんな言い方をすれば、普段なら勢い良く口ごたえが返ってくるところだが、ぼけている有栖川はよくしつけられた仔犬のようにおとなしい。 「だいたい、今朝もまたチェーン開いてたぜ。寝るときは鍵だけじゃなくてチェーンもかけろって、いつも言ってるだろうが」 火村がことあるごとに言うのでドアの鍵こそなんとかかけるようになったものの、どういうわけかいつでもチェーンをかけ忘れる。おかげで、今朝のように有栖川が寝ているところに訪れても合鍵で入ることができるわけだが、物騒なことには変わりがない。事件に巻き込まれる可能性がないともいえず、火村は合鍵を使うたびに微妙に不機嫌になるのだ。 「いいか、鍵とチェーンはひとセットだ。何度も言わせるな」 「……ごめん」 「……まあ、いい。とにかく、もう起きろよ」 「うん……もう、起きる。慌てへんでも、まだ間に合うよな? すぐ着替えるから……待っとって」 話す内容が徐々にまとまった意味を持ったものになり、まともな会話が成り立ち始めると、火村はようやく安心して、有栖川にやや覆い被さるようになっていた上体を起こした。ベッドサイドを離れ、半端に開いたカーテンを完全に開ける。梅雨の晴れ間の初夏を思わせる陽射しに、室内がくまなく照らし出された。 ふと気づいて、火村は、サイドテーブルに置かれていたメモを手に取った。居間の電話台に備えられている伝言メモだ。それが大雑把に二つ折りにされて目覚し時計の脇に置いてあったので、何気なく手が伸びてしまった。 「……あれ……俺、いつのまにベッドに寝てたんやろ……?」 やっとのことでベッドを這い出た有栖川が、呆然と呟いている。火村はメモに目を落としたまま、口を開いた。 「なあアリス。……朝井さん、ゆうべここへ来たのか?」 「……? あさ……、ああ、うん……そう。そうや、ここで飲んだんや……。……あれ? 泊まってもろたと思うたんやけど、……いつの間に帰ったんやろ……?」 「朝井さんをソファで寝かせたのか? さすがはアリスだな」 「そういうんやなくて……なんや、気づいたらいつの間にか寝てしもうた、というか……」 「メモが置いてあるぜ」 有栖川の歯切れの悪い台詞を遮るように、火村はメモを差し出した。有栖川は素直に受け取って、畳まれたまま手渡されたメモを開いた。起き抜けに字が読めるのだろうかと火村は少しだけ心配になるが、短く簡単な文章だったのでぼけはさほど影響しなかったようだ。 ――打ち合わせがあるから、今日は帰るわ。ごちそうさま。鍵はドアの新聞受けにね。朝井(vv) 書かれているのはそれだけだった。 「……打ち合わせあったんなら、遅うまで付き合うてもろて悪かったな……」 有栖川は首を傾げながら、それでもそうしているうちに、だんだんと意識がはっきりしてきたようだ。メモを置くついでに傍らの時計の文字盤を読んで、いまごろになって改めて驚いている。 「あ! なんや、もう九時やんか。九時には出かけるって言うてたのに」 火村はどうにもやり場のないため息を苦笑とともにこぼしがら、ようやくエンジンがかかって慌てている有栖川を斜めに見やった。 「もう、……なんでもっと早う起こしてくれなかったんや」 「自分でちゃんと起きられるから大丈夫だって、電話口で大見栄きったのは誰だ? きっちり寝坊してくれやがって。本当なら、俺は今頃こんなとこにいるはずじゃなかったんだ。起こしに来てやっただけでも感謝しろ」 「……そうやけど」 筋の通った反撃をされて素直にうなだれている有栖川を見ていると、不機嫌になりかけていたことさえ忘れてしまう。火村は自分が再び微笑んでいることに気づいていた。 「どうでもいいから、とにかく早く着替えろよ。十五分までに玄関出られなかったら置いて行くからな。……ほら、後十二分」 「すぐ支度するっ」 有栖川はクローゼットの扉を開け、とりあえず手に触れたものといった適当さで、それでも頭のどこかに今日これから訪れる先が大阪地裁であるという情報が残っていたのか、感心なことに明るいグレーのソフトスーツを取り出した。ばさりとベッドに投げる。次に薄いブルーに細いストライプの入ったワイシャツ。それからネクタイ。靴下。一揃いベッドの上に全部出してから、着衣のまま寝てしまったためにしわくちゃになった、萌葱色のダンガリーシャツを脱ぎ捨てた。 「おい、アリス」 その衿足から肩へ続く辺りの皮膚の白さに浮き上がるように、小さな傷ができて血を滲ませているのを目に止め、「おまえ、こんなとこに傷――」火村は考えるより先に足が動いて、有栖川の剥き出しになった首に指先で触れた。 有栖川は、火村の呼びかけに応えようと反射的に声の方向へと顔を上げた。 「……」 近すぎてぶつかってしまう。火村がそう思うよりも早く、有栖川が。 いきなり、焔を吹きつけられたように赤面した。 「……」 みるみる、首筋から肩まで朱が散っていく。瞠られた瞳の表面を覆う潤みが破れそうに盛り上がる。顔前5センチの、ほとんど触れてしまいそうな近さで見つめたまま、有栖川の膚の温度がかっと上昇する気配が火村にまで伝わってきた。 「……おまえ」 「……」 「どうしたんだ……?」 無意識にそう訊ねていた。そんな意味不明の問いでも、それでも、有栖川をこちらへ引き戻すことはできたようだ。有栖川は火村の声を聞いて思い出したようにまたたき、火村の顔に貼りついていた視線を外した。動きが、ひどくぎこちない。 「や……、な……んでも、あらへん」 「……なんでもないって……」 「なんか……、ちょお変な夢見てて……」 言いづらそうに呟きながら顔を背け、うつむくので、火村もどうしていいのかわからずに触れていた手を引っ込めた。 「……急に、思い出した。ごめん……、すぐ着替えるから」 うつむいた首すじが赤くて、火村は不安になる。 「向こうで、待っててくれ」 「……ああ。わかった」 火村も気まずくて、このままこの場所にはいられない気分だった。言葉にできないもやもやした感情を抱え、有栖川ひとりを残して先に寝室を出た。ドアを閉めるべきかどうか、そんな単純なことさえ迷う。結局開け放したまま居間へ向かい、だが、ソファに腰を下ろすことも忘れていた。 今見たものの意味を考える。自分の視覚や意識や記憶や判断力や、そんなすべての確実性を推し量る。 あれは、傷などではなかった。 あの血の色の染みは。 あれが、どんなときにできるものかくらい、今時子供でも知っている。 無意識に、指先が唇を辿っていた。納得のいく解答を見つけようとするのに、まるで考えが纏まらない。 * * * どうしたというのだろう。 あれから、何度も夢に見る。あの夜の夢を、あの朝から繰り返し繰り返し見て、有栖川はこのところかなりおかしかった。 火村に口づけられる夢、だ。 おかしくもなろうというものだ。状況は様々で展開も決まってはいない。時間も場所も毎回違っている。なのに最後に必ず火村は、骨張った長い指の先に有栖川の頤をそっと捉えてすくい上げ、ゆっくりと確実に、唇を重ねてくるのだ。押し包むような唇の暖かく乾いた柔らかさや、すべり込んでくる粘膜の熱さや、吐息に混じった煙草の香りまで、はっきりと感じ取れるほどの現実感。 あの朝、急に間近に迫った火村の存在に、質感まではっきりと蘇った。心臓が破れそうに鳴って、ぐるぐると眩暈がして、立っているのがやっとだった。 あれは、火村の匂いだ。 間違いようがないだけに、有栖川は混乱した。 どうしてそんな夢を見るのかわからない。 「アリス」 自分は、どうにかしてしまったのだ。 「グラスが落ちるぞ」 いつの間にか指の間からすべり落ちそうになっていたグラスを、火村が抜き取ってカウンターに置いてくれる。火村はいつもこんなふうに気がついて、ぶっきらぼうなくせに優しくて、だから有栖川はただ任せていればよかった。 有栖川は、無駄のない火村の手の動きをぼんやりと目で追った。 喧噪に溢れた居酒屋のカウンターで、自分の周りだけが異次元のように取り残されていると思った。すぐ右となりに並んで座っている火村さえ、手が届かないほどに遠い気がした。 「おまえ、昔からぼけてるけど、最近特にひどいな。……どうかしたのか?」 「……うん」 これ以上隠し通しておくことはとてもできない。有栖川は、カウンターの上の火村の綺麗な長い指に目をやったまま、ほとんど無意識に頷いた。こうしていても夢の中の場面を思い浮かべてしまう自分への罪悪感に苛まれているのに、それを心配してくれるのは当の本人なのだ。友人として有栖川の不調を気にかけてくれている火村に対して、はしたない妄想を―そうだ、まったく妄想だ―を抱いてしまうことを止められない。これは、いかにぼうっとした有栖川でもきつかった。火村と過ごす楽しいだけのはずの時間が、痛みにすり替わっていく。この罪悪感からほんの少しでも逃れるためには、しばらくの間火村と離れるしかないと思うほど。そして、もしかしたらその『しばらくの間』は、『永遠』になってしまわないと誰にも言えない。 「俺……おかしいんかな」 口にしてしまうと、本当にそう思えてくる。有栖川はいっそう悲しくなった。 「……ほんまに、頭がおかしくなったかもしれん」 「……」 いつもの軽い揶揄のつもりで口にした言葉に、思いがけない台詞で返されて、何をコメントすべきか判らずに、火村は黙っていた。有栖川はしばらくの間火村に取り上げられたグラスを見つめていたが、やがて思いついたように立ち上がった。 「アリス?」 「……帰る」 「帰るって……おまえ、まだ九時前だぜ?」 それでも有栖川がどんどん出口へと向かって行ってしまうので、火村も彼を追って立ち上がった。慌てて会計を済ませたが、通りへ出ると有栖川の姿が見えない。地下鉄だと見当をつけて駅の方向へ走り、一つ目の角を曲がったところで追いついた。 「待てって」 手首をつかんで引き寄せた。有栖川は振り返らなかったが、歩く速度は緩んだ。 「まったく、おまえは……」 「……」 「なんで急に機嫌悪いんだ」 有栖川は答えない。火村につかまれた手首が熱くて、痛くて、そのことばかりに気を取られて声が満足に耳に入ってこないのだ。火村も、ここのところの有栖川の彼らしくない不自然な態度にいい加減煮詰まっていたので、動作がやや乱暴になっていた。 「なんか、言いたいことがあるんなら……」 最後まで聞かずに、有栖川はいきなり顔を上げた。ストップモーションをかけられたように、すべてがその場に立ち止まった。ふたりはほとんど同じ身長なので、相手の顔の何もかもが目の前にある。有栖川は、言葉の途中で開きかけた火村の唇にふと目をやり、そのまま吸い寄せられるように離せなくなった。 柔らかく乾いている。暖かくて優しい。甘くて苦い、煙草の香りの混じった…… 「……」 火村と知り合って十五年足らず。 こんな気持ちになるときがくるなんて、有栖川は想像もしなかった。火村の顔を見たくない、見られない、と彼は初めて思ったのだ。 「……会うの、やめよう」 ぎこちなく足元に視線を背けながら、有栖川は呟いた。 「しばらくの間」 「……なんだよ、それ」 「理由は……訊かんといてくれ」 おかしな会話である。少なくとも、普通の同性の友人同士が交わす会話ではない。それでも、有栖川も火村も周囲とはまったく関係のない二人だけの世界に入り込んでいたので、これがおかしいという自覚はなかった。ただし、行き交う他人の目にはこの光景はかなり異様に映り、二人は充分すぎるほど注目を集めていたが、これも本人達の自覚はゼロである。上背のあるそれなりに見栄えの良い大人の男が二人、道の真ん中で手を取り合い(実際は火村が有栖川の手首を握っているのだったが)、会うだの会わないのだのと揉めていれば、これは特殊な関係の痴情の縺れだと誤解されても無理はない。 かなり楽しい状況といえる。 「理由は訊くなって……おまえな、そんなこと急に言われて、素直に、はいそうですかって言えると思うのかよ」 「火村は……俺を病気にしとうないやろ? せやったら……」 「俺と会ってたら病気になるって言うのか?」 切り返すように鋭く問い質され、さすがに、言い方がまずかったかと有栖川は思ったが、口をついて出てしまったものは取り返しがつかない。彼は仕方なく頷いた。 「……俺にもいろいろ事情があるねや。……もうええやろ、手ェ離せ」 「アリス」 「俺から連絡するから……電話もせんといて欲しい。しばらくは」 「しばらくってどのくらいだよ」 「……ともかく俺、今日は帰るから」 「……おい、アリス!」 有栖川は身を翻して走り出し、その先の地下鉄の入口を駆け下りて行ってしまった。追いかけるタイミングを逃した火村はその場にひとり取り残され──── ようやく、自分が好奇のまなざしに取り囲まれていることを知るのである。 まひるさまより頂きました。 |
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