所変わって、広徳殿にて。 広徳殿とは、州庁が置かれている場所である。 麒麟は首都州の州侯も兼ねているため、 午後はここで政務を執っている。 さらに、金蝉は幼いため、補佐として、傅相・光明の補佐のもと、政務を執っていた。 「台輔、こちらの治水の件に関してですが・・・」 「・・・・・」 ゆったりと、幼い麒麟にも判りやすく説明する光明の声が、 室内に響いている。 それを聞く金蝉の方はといえば、心ここにあらず、といった感じだ。 開いた窓から初夏の爽やかな風が流れ込み、金糸を揺らすが、 それにさえ気付いていないようである。 「という事なのですが、台輔はどう思います?」 「・・・・・・」 説明が終わって、光明が意向を尋ねる頃になっても、 金蝉はぼんやりとしていた。 普段なら熱心に――時に過ぎるほどに―――仕事をこなしていく金蝉を知る者にとって、それは意外な事で。 「台輔?」 「・・・・・・」 「江流?」 「あっ・・すいません」 (仕事中にぼけっとしてるなんて・・・今日はこれでもう五回目だ。何してるんだ俺はっ) いいんですよ、と気にしていないように優しく笑う光明には、 本当に申し訳なく思う。 自分は、悔しいけどまだ子どもで。 その自分を思いやって、助けてくれる大事な人にこうやって 迷惑かけるなんて、と金蝉は少なからず自己嫌悪に陥る。 政務に集中できない理由はわかっていた。 昨日見た光景が、頭から離れないのだ。 見知らぬ女が、天蓬にまとわりついて、口接けた。 それだけのことなのに。 自分だって、この五年間、天蓬に散々されてきた事だ。 それだけの・・・事、なのに――――。 「江流・・・一旦、休憩を取りましょうか」 また自らの中に入って行きそうな金蝉を見透かしているのか、 光明はやわらかく笑ってそう告げた。 「まだ半分も終わってません」 自分がさっきみたいにぼけっとしてるせいだ。 「でもですねぇ、何だか気が乗らないみたいですし・・・」 「そんな事ありません!」 心配してくれる光明に、そんなの必要ないとアピールするため、 金蝉は硯を手元に引き寄せ、筆を付けようとする。 だが、力がこもり過ぎたか、墨汁を落としつつ、 ガチャンという音と共に硯は床に落ちた。 ぱっくりと二つに無残に割れている。 「・・・・・・」 「・・・・・・」 あまりの失態に金蝉は真っ赤になる。 何か言おうと金蝉が口を開く前に、有無を言わせぬ笑みで以って 光明は言葉をかけた。 「ね?一旦休みましょう? 少し気分転換に遊んでいらっしゃい」 頷く以外に、金蝉には返す言葉もなかった。 ********************* 「金蝉、ほら綺麗だろう。 牡丹がもう咲き始めている。 金蝉はどんな色のが好きなんだ? 俺は白だな。 何故かって?お前に一番似合うからだ。 だが、ここにある花全てを合せたよりも、お前は美しいから 安心していいぞ。 俺の心は常にお前の上にあるのだから・・・」 決まったな、と焔は思った。 そして、情熱的な(と自分では思っている)視線を、告白の相手である可愛く綺麗な少年――金蝉に投げかけると・・・ すこんと無視されていた。 ひゅるりー、と一陣の風が吹いていく。 いつもなら、上記のような長台詞に短気な彼は飽いて、途中で 何らかのツッコミを入れるというのに、今日はそれさえもない。 全くの無反応である。 ちなみに舞台は「夏宵園」と呼ばれる夏の花ばかりを集めた花園で。 その名の通り、夏の宵の頃にはうっすらと灯篭を灯し、 無数の牡丹が絢爛と美を競う様を幻想的に映し出すという 告白にはもってこいの場所なのに。 その上、風がさやさやと吹いて気持ちがいいし、その風が、牡丹の香を運んでくれている。 そんなムードたっぷりの場面で、とっておきの決め台詞を無視された焔少年は結構傷ついた。 そんな様子にも気付いた風もなく、 金蝉は物憂げにため息ばかりついている。 十歳になり、蕾がほころびるようにその美貌がますます際立って、きらきらしいばかりの彼には、年に似合わないそういった大人びた仕草も似合うが・・・ あまりにもらしくなかった。 そんな金蝉に悟空もまた違和感を覚えているのか、 「ね――ね――金蝉――どーしたの? 腹へった?」 と使令らしさの欠片もなく、小首を傾げて聞いたが、 それにも全く反応はない。 普段なら、「うっせーよ馬鹿猿!何でもかんでもてめえと一緒に すんな!」などと怒鳴りつけるというのに。 深刻に変だ。 不気味なものでも見るかのように、悟空と焔がそろって見つめて いると、おもむろにこちらを向き、ぼそっと呟く。 「何も・・・ねぇよ」 はっきり言って何もないという様子ではない。 これはかなり思い悩んでいる。 金蝉は、普段は些事でうだうだと悩む事こそないが、 一旦考え始めると、なかなか浮上してきてくれない。 しかも、プライドが高く、他人を頼る事が嫌いな彼は、自分からはなかなか相談してくれない。 二人だけでなく、周りの者たちはそれをじれったく思う。 もっと頼ってくれても構わないのに・・・。 まあ、金蝉自身がそれで何らかの答えを出してくれる場合はいいのだ。 だが、悶々と考え込むあまり、体調を崩す事もしばしばで・・・。 焔も悟空も、そんな金蝉の姿など見たくない。 特に、焔としては、そうなると絶対に天蓬がべったりと金蝉に 付きっ切りになって、しかも自分以外に絶対に会わせようとしなくなるので、余計にその念は強い。 思いの方向こそ違えぞ、真剣に金蝉が好きで好きでたまらない 二人は、なんとしてでも聞き出した方がいい、と思い、 互いに目配せをし合った。 だが、自分の問題に口出しされるのが嫌いなお姫様だ。 下手に口出しすると、余計にかたくなになって口を閉ざしてしまう。 焔にしてみれば、悔しいが、こうなったときの金蝉の扱いに関しては、圧倒的に光明や天蓬が上手い。 だからといって、彼らに(特に後者に)頼るのは業腹だ。 (さて、どうするか・・・) と焔が思案していると、金蝉のほうから上手い糸口を投げてくれた。 「焔・・・お前、女にべたべたされるの好きか?」 「!は?」 唐突すぎる台詞。 だが、ここを逃したら次の機会を捕らえるまで、かなり待たなくてはいけない、と勘を働かせ、焔はとりあえず思ったままに答えてみる。 「女にもよるな。 ブスやババアはゴメンだが、若くて美人なら嬉しいと思うぞ」 「俺はね、おやつくれる人がいい!あと優しい人!」 はいはい自分も入れて!、といった感じで悟空。 それを聞き、 「・・・そうか・・・」 と言ったきり、金蝉は再び思案顔に戻ってしまう。 心なしか、思い詰めた感じが強まっているようだ。 焔がこれまでの金蝉の言動から察するに、「金蝉は〈女にべたべたされる事〉について、何らかの悩みを抱えている」と言う事が推察される。 (では、具体的にその悩みとは・・・) とそこまで考えて、焔ははっとなる。 (まさか・・・) 「金蝉お前変な女にべたべたされて気色悪い目に合わされたのか! 可哀想に・・・。 気にする事はない。俺が今すぐ抱擁して汚れを払っ・・・ぐっ」 「そんな事されてね―よ!馬鹿!」 皆まで言わせず顔を真っ赤にして金蝉は怒鳴った。 その小さな拳はがっちりと握り締められている。 頭を拳で殴られ、流石の焔もダメージを受ける。 頭を抱えてうずくまる焔に、悟空だけが「だいじょぶ?」と心配そうに声をかけてくれるが、彼が一番信頼してほしい相手は、握りこぶしを作ったまま、「そんな奴ほっとけ。馬鹿が鬱ってさらに馬鹿になるぞ」と無常な言葉を投げかけた。 しかし、金蝉の方も突き指をしてしまい、顔には出さないが、 かなり痛い。 頭をさすりつつ、懲りない焔はさらに頭を働かせる。 (金蝉が自分の事以外で、女にべたべたされた程度の事を、ここまで思い悩むというと・・・) そこまで思い当たり、声に出してみる。 「天蓬か?」 それと同時に、金蝉の顔が、さらに朱に染まる。 当たりのようだ。 「ねーねー、金蝉天ちゃんがどうしたの?」と無邪気に尋ねる悟空を横目に、焔の打算計算機がくるくると回り始めた。 (天蓬が女にべたべたされていた事を金蝉が思い悩んでる。 という事は、金蝉は、天蓬が女にべたつかれていた事が嫌だった、という事か? フッ、莫迦め! 天蓬よ、お前は好きなだけ女といちゃついて 鼻の下を下界に達するまで伸ばしてでもいるがいい! その間五億歩ほど俺がリードしてやるからな!) 打算計算機の結論―→金蝉から天蓬を引き離すチャンス。 そして、焔はそれを見逃すつもりはさらさらなかった。 「金蝉・・・天蓬が女といちゃついてるとこ、見た事なかったのか?」 と、微妙に表現を変えつつ、探りを入れてみると、あっさりと金蝉は乗ってくる。 「お前はあるのか?」 「まあ、数回はな」 大嘘である。 「しかし、意外だな(白々しい) 俺よりも天蓬の側にいるお前が見た事なかったとは」 「あいつ・・・そんなに女とべたべたしてんのか?」 焔の台詞に、金蝉は傷ついた表情を浮かべたが、それでも聞かないでいられない、という風に言葉を続けた。 それに対し、少し心が痛んだが、さらに焔は、金蝉の心の中で育っている疑念に、一筋二筋と根拠を与えていく。 「ああ。 第一、あいつは王だろ? 好きなだけ女なんか手に入る。それに・・・」 と意味深に言葉を切ると、金蝉は目論見どおり話に食いつくような目になってくる。 「それに?」 「あいつはなかなか美男な方だし。 女だって放っとかないだろう。 地位と金と顔がそろってるってことだしな。 ああ、あと後宮にほとんど人がいないって言うのも不味いんじゃないかって、言われてるの聞いたことがあるし。 それに、なんと言っても、あいつだって若い男だ。 美しい女が嫌いだなんてことはないだろ」 駄目押しのように、思いつく限りのことを並べ立てると、金蝉は ついに黙りこくってしまった。 それを見て、焔はさらに罪悪感がそそられたが、多少彼を悲しませても、最終的には気分が幸せにしてやる、と強く考える事で、 その痛みを無視する。 辛そうに黙りこくってしまった金蝉を悟空が心配する様子が、 視界に映るが、焔はあえてそれを見なかったことにした。 嫉妬という感情に気付けば、金蝉も大人になるのでしょうか? 好きという気持ちに種類があるのだと、知ることになるのでしょうね。(春流) |
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