「遠乗りに行きませんか?」 と全快した国王は王妃を誘った。 天気の良い日、草原を走る気分は壮快だ。 「……ここで、弾いてもらえますか?」 胡弓を持ってきている新一は頷いて、そっと弾き出す。豊かな音色が草原に響きわたる。エウーダで有名な曲は、切ない恋をうたったものだ。 切々と心に訴えかけてくる音色に、キッドも胸を押さえる。 新一は一曲弾いてから、いったん胡弓を草の上に置く。 二人には話さなければならないことがあった。それは新一にもわかった。どんな話になるのか、定かではないが自分は聞かなければならなかった。 「姫。姫のおかげでこうして元気になりました。本当に、ありがとうございます。まずはお礼を言わせて下さい」 キッドは頭を下げた。 「頭を下げる必要はない。……そのくらいしか王妃として努めを果たせないんだから」 新一の本心だった。新一が王妃としてキッドに出来ることなどしれている。 「そんなことおっしゃらないで下さい。どこの王妃がこれだけのことをしてくれるのです?宰相と医師からちゃんと聞きましたよ。姫がどれだけ危険を侵して解毒剤をもって帰ってきて下さったのか。第一、私が姫にお礼を言わなかったら宰相に怒られます。宰相はすっかりあなたに心酔していますし」 キッドは笑った。 白馬はすっかり王妃贔屓だ。これ以上の資質を持つ王妃など他に探せないのだから、しっかりと捕まえておけ、口説けと鼻息荒く言っていた。王妃に見捨てられた国王なんて無惨なものだなと不敬なことを吐いていた。 時々白馬は王を王と思わない言動がある。その分、キッドも白馬には言葉も荒いし扱いもぞんざいであるけれど。 「宰相が心酔?」 不思議そうな顔で首を傾げる新一の片手を取って、キッドは指先にキスを落とす。 「本当ですよ。私もあなたに心から心酔していますし。姫だけなのです、私の妃は。以前、妾妃は迎えないのかとおっしゃいましたが、必要ないのですよ、本当に。なぜなら、私が妃として迎えたいのは姫だけだからです。人質であるから立場を思って言っている訳ではありません。人質など思ったこともありません。ティターン国王が大事にしている王女だから姫を指名したのではありません。私は姫が姫だから王妃に迎えたのです。姫が他の王女、第三王女、第四王女であっても姫を名指しました。もし姫が10歳という幼さでも、もっと年上でも王妃に望みました」 「……なぜ?」 「姫をお慕いしているからです」 キッドの告白に新一は大きな目を見開いて凝視した。 「なんで、どうして?」 いつ慕う時間があったのか。それ以前に、なぜ自分を最初から望んでくれているのか、わからない。それとも、会ったことでもあるのだろうか。 「昔、結婚を申し込んだことがありまして。国王が承諾したら結婚してもいいと答えてもらいました。求婚したからには、しっかりと実現しなくてはいけないでしょう?」 それは、いつ? 新一は覚えていなかった。キッドから求婚? 懸命に過去を思い出そうとするが、さっぱりと思い出せない。キッドという名前を聞いたことがあるだろうか?名乗ったのだろうか?自分は当時、かなり幼かったはずだ、どう考えても。長い戦争の間、国交はなかった。それより前しか会う可能性はない。 「……それは、ずいぶん昔のこと?キッドは名乗った?」 自分の記憶力にはそれなりに自信があったが、さっぱり思い出せない。 「ティターン国の城の薔薇園でお会いしました。姫はまだ5、6歳だったでしょうか。……その時は幼名を名乗りましたね」 懐かしく思い出しているのか、キッドは楽しそうな声音で新一を覗き込む。 「幼名?」 「はい。キッドは成人してから付いた名前です。昔はカイトと言いました」 「カイト……」 その名前を覚えているだろうか。城の薔薇園はとても美しく、父親である国王と一緒に時々過ごした。母親が亡くなってからは公爵家や離宮で過ごし、城の庭園に行くことはなくなった。あそこにいたのは、確かに母親が亡くなった後少しだけだ。それから宴会などが催される時、父親がおいでと呼んでくれた。宴会に出席することはなかったが、薔薇園で過ごした時間は楽しかった。その時だろうか。他国の当時、王子がやって来るなら。そして、あの薔薇園に立ち入ることができるとはよほど父親である国王に気に入られたのだろう。母親との思い出の場所である薔薇園を父親は大切にしていたから。 そこで、子供に求婚したというのか?信じがたいことであるが、嘘を付いているとは思えない。信じるけれど、なんてモノ好きな。 新一はそんな失礼なことを思ってしまった。 「あなたが覚えていなくても私は誓ったのです。妃として迎えようと。私のそばにいて欲しい。隣で笑っていて欲しい。そう思ったのです。ですからその後長い争いが起こり、ティターン国王に姫をもらうようにお願いできなくて困っていました。無事に停戦を結んで、ようやく姫を望めるようになり、ちょうど人質としてならすぐに婚姻できることになったので、あなたを是非にと指名しました。最初からあなたが欲しかったのです。おわかりですか?」 「……うん」 知らなかった。通りで最初から優しかった訳だ。嫌われようとしていたのに、全く堪えなかったはずだ。自分はかなり無駄な努力をしていたのだろう。否、でも、嫌われなければならないのは本当だった。 「ですから、妾妃を迎えろなどとおっしゃらないで下さいね。跡継ぎなど必要ではありません。王族などいくらでもいます。私は、ただあなたに側にいて欲しいだけなのです。こうして話して、胡弓を弾いてもらって楽しい時間を過ごせたらそれ以上の幸せはないのです」 心からの願いだとわかる。 とても、嬉しい。書庫の寺井から本を借りて読んで、いろいろ彼の考えを聞いてみれば興味深い。胡弓も楽しいと聞いてくれて、遠乗りだって一緒に行ける。ここでの生活はとても自由で楽しい。 あの国で、自分は朽ちていくのだと思った。本当は王女ではないのに、王女の振りをして、生きていかねばならない。どこかに嫁ぐこともなく、誰かを娶ることもなく、王宮に上がることもなく、あの離宮で人知れず死んでいくのだと思った。それとも、死んだことにして、どこか別の場所で別人としてひっそりと生きていければいいと思った。 自分という存在は、厄介者だった。 それなのに、キッドはこんなにも自分を必要としてくれる。求めてくれる。朽ちていくしかなかった自分とは思えない。誰かが自分を欲するなんて夢にも思わなかった。 だが、自分はキッドを騙している。 心の裡をさらけ出してくれているのに、自分は重大な秘密を持っている。 駄目なのだ。自分は彼の妃にはなれない。跡継ぎだけの問題ではない。跡継ぎを生めなくてもいいとして、このまま形だけの王妃でいるのか。それは許されざることだろう。 このまま騙していたら、彼が傷つく。成人したらなどと言っていたら、キッドの幸せを奪うことになる。どうしても、彼には妾妃が必要だ。それとも自分を死んだことにすれば、代わりの王妃を迎えられるだろうか。ちゃんとした女性の。 なら、ここで見限ってもらった方がいい。キッドも女性の妾妃を迎えなければならないことを悟るだろう。 「……キッド」 新一は真剣な眼差しでキッドを見上げた。そして、自分からキッドの手を握りしめる。 「聞いて欲しいことがある。今まで言っていなかったことがある」 「なんですか?」 握りしめられた腕を自分の方に導いてキッドは新一を見つめた。互いの瞳に己が映っているとわかる近い距離だ。 「ごめん、騙していてごめん。言い訳もできないけど、でも……」 新一は辛そうに眉を寄せ唇を噛んで、必死にキッドを見上げた。これから言う言葉がキッドを傷つけるのかと思うと、怖い。自分が本気で嫌われるのが悲しい。 「落ち着いて下さい、姫。何かわかりませんが、なにを聞いても大丈夫ですから」 安心させるように、キッドは新一を抱き寄せてそっと髪を撫でる。短くなっても艶やかで美しい黒髪だ。澄んだ蒼い瞳が悲しげに潤みながらキッドを縋るように見ている。 新一は、意を決した。 「本当は王女じゃないんだ。王子なんだ。性別が違うんだ……!」 最後は悲鳴のように叫んだ。 だからキッドの王妃になど本当はなれなかった。 キッドは、驚きで瞳を瞬いてから、ついでにこりと笑った。 「姫が姫であるなら問題ありませんよ?」 「は?問題あるだろう?」 新一はつっこんだ。 「いえ、かえって好都合です。だって、姫は万が一にでも子供を授かるということがないのですから。出産で、身体を悪くして私をおいて逝ってしまうことはない」 「……」 あれ?そうか? キッドの断言に、新一は内心首をひねった。 男だから妊娠はしない。産後の肥立ちが悪いということもありえない。命の危険はないだろう。でも、男でいいのか? 「でも、妾妃は?」 王妃が男だとわかったなら、必要性も理解できたはずだ。 「必要ないと言ったでしょう?姫が私の王妃なんですから。早く成人して下さいね」 「成人?」 「ええ、そして身も心も私の王妃になって下さいね」 にこりと清々しくキッドは笑った。一点の曇りもなかった。 心はとうに王妃だけど、身も?え、身体も? 驚きで新一はキッドの胸の中で腕を付いて顔を上げた。大きな蒼い瞳をまん丸にしている様に、キッドが楽しそうに唇の端をあげる。 「イヤですか?すべて私の王妃になってくれませんか?」 「…………イヤじゃないけど」 どう答えていいか困った新一は口ごもる。 「では、約束ですよ?」 上機嫌に笑うと、キッドは新一の顎に手を伸ばして心持ち上げさせると、唇を重ねた。 「ん、ん……うん、や……」 いきなりの口づけに新一は戸惑った。だが、キッドはそのまま抱きしめながら唇を深くあわせる。 「ふん、んん。キ、……ドっ」 甘く唇を吸われ、うっすらと開いた隙間から口内に濡れた舌が入ってくる。初めての感覚に新一はめまいがした。口腔内をゆっくりとそれでいて執拗に舌で荒らされ、奥に隠れていた舌を追い掛け捕まえて絡める。ぴちゃりと濡れた音が響いて、新一は身体から力が抜けた。羞恥で目元を赤く染め焦れた身体をキッドが腕で支えより密着させ深く口内を侵した。 「も、やっ……」 未知の感覚に身体が熱くなる。 新一はキッドの胸元の服をぎゅうと力なく掴んで、弱々しく抗議する。 それに、キッドが薄く笑い名残惜しげに唇を離した。 「ふ……っ」 新一は大きく息を吐いた。その際、甘い息がキッドに寄せられる。 「イヤででしたか?」 耳元で、キッドが低い声で囁いた。新一は耳を赤く染め、恥ずかしそうに俯いた。無言の返事にキッドは調子に乗った。耳に甘い吐息を注ぎ、舌でぺろりと耳朶を舐めた。びくりと身体をふるわせる新一に気をよくして、低く囁く。 「これからは、この男に口づけを許して下さいね」 請うような男の声音に、新一は本気で悟った。キッドは身も心も奪う気なのだと。 それに否と言う気がない自分に、新一は恥ずかしくて、身の置き場に困った。 「……新一」 新一は了承の証に、名乗った。 「え?」 「だから、本当の、名前だ」 キッドはその告白に、相好を崩した。 「新一?」 「ああ」 真実の名前を呼ばれるのはなんて嬉しいのだろう。心が暖かくなる。 「では、これからよろしくもお願いしますね、新一」 「うん」 新一は白い頬を染めて、頷いた。短い黒髪が頬にかかりなんとも愛らしい。あまりの可愛さに、ついキッドは触れるだけの口付けを再度贈る。 「ばか……」 新一も、なお赤くなって憎まれ口を返した。 キッドが愛しくなって新一をさらに抱きしめたのは言うまでもない。 END |