おそらく、疲れてつまらなそうに見えたのだろう。隠しているつもりだったが、人心に聡く尊厳を集めている彼には見抜かれていた。内緒だよと耳打ちされた場所。 誰も立ち入ることなどできない秘密の園の入り口の門扉には見るからに頑丈な鍵がかかっていた。 「私以外は踏み込むことのできない場所だ。自慢の薔薇の庭園だ。……薔薇の精ならいるかもしれないが」 そう言って小さく笑って回廊を案内してくれて、門の鍵を開けてくれた。大国の王とは思えない気さくさで、手を振って悠々と歩いていく後ろ姿を眺めてからこの城自慢の庭園へ踏み込んだ。 そこには、見事な薔薇が咲いていた。赤色、朱色、オレンジ色、ピンク色、黄色、白色と、色とりどりの豪奢な薔薇が緑濃い葉と共に月明かりの中、くっきりと浮かびあがっている。 この国は薔薇の種類や美しさが有名で、国家の紋章にも使われてるほどだ。その国の王が住まう王宮の薔薇園。 手入れされた薔薇の道を歩いていくと蔓薔薇が巻き付いたアーチが見えた。小振りで一重の薔薇は純白で可憐な美しさがある。そこを抜けると薄いピンク色の薔薇が両側を壁のように茂らせている。少し迷路のような風情がある。 道がいくつか分かれていて、道によって薔薇の種類や色が異なるようだ。赤い薔薇の道、黄色い薔薇の道、紫色の薔薇の道。その中で、赤い薔薇の道を通った。背より高い薔薇の細い道は石畳になっている。大小さまざまな石が平らになるように埋め込まれ歩きやすいし、天にかかる満月に近い月が道を照らし白い石は反射しているせいで、明るい。 両脇の薔薇は、大輪のものがあれば、小振りなもの、花弁が幾重にも重なったものなど見たこともない種類があった。道も途中でいくつか曲がってどこへ向かっているのかわからない。 確かに、秘密めいた花園だ。 やがて歩いた先、視界が広がった。真ん中に噴水があり月光に水面が煌めいている。水は女性像が持っている壺から吹き出している。大理石でできた像は月光と水面から反射される光を受けて幻想的だ。そこから聞こえるわずかな水音と楽の音が聞こえてくる。 見回すと、噴水を囲むように茂る薔薇は純白の大輪で清楚で美しい。その脇にベンチがあった。 少女が座っている。まだ5、6歳の幼い少女だ。 ここは、誰も立ち入ることのない場所のはずだ。王自身がそう言っていた。が、実際、そこには確かに少女がいる。思わず足音を立てず進み、じっと静かに観察した。 艶やかな黒髪に大きくて澄んだ蒼い瞳。長い睫毛は月光に陰を作り、ただでさえ白い肌が際だっている。白い鼻梁に、薄紅色の小さな唇。幼いながらも整った顔立ち。ふんわりとした白いドレスに身を包んでいる様は、人間ではないようだ。 まるで、本物の薔薇の精だ。 今まで信じていなかったが、うっかり信じてしまいそうなくらい幻想的だ。 その少女は小さな手に胡弓を抱えている。そして弦を滑らして、豊かな音が流れている。 噴水から聞こえる水音に混じって聞こえたのは、少女が奏でる胡弓の音色だったのだ。しんとした闇の中、雅な音が響いていた。 「こんばんは、姫君」 「……こんばんは」 思わず、不躾ながら声をかけていた。 こんなところで何にをしているのか、と問いたかったが、それをいうことが、いかに不自然か思い当たり疑問を飲み込む。 この場所にいるということは、どう考えてみてもこの国の王女だ。 王自身が茶目っ気に薔薇の精はいるかもと言ったではないか。愛する秘密の花園に立ち入ることを許す王女。王の愛情が間違いなくあるだろう。 「おひとりですか?」 だから、他の質問をしてみた。こんな幼い少女が一人いるには不用心ではある。共が入れる場所ではないだろうとは思うが。 少女は瞳を瞬き、こくりと頷いた。その仕草も愛らしい。 「胡弓を弾いていらしたようですが、ずいぶんお上手ですね」 こんな年端もいかぬ少女が弾いているとは思えない音色だった。自分は楽の才がないらしく、昔習ったけれどほとんど弾けない。たぶん、少女の方が腕は上だ。 「ありがとう。かあさまみたいにひけるようになりたいから、れんしゅうしているの。せんせいは、とってもうまいのよ……」 にこりと可愛らしく少女は笑う。 「お母様のようにですか。すぐに、弾けるようになれますよ。一緒に弾いたら楽しいでしょうね」 「それは、もうできないの。おかあさま死んでしまったから」 表情を曇らせて悲しそうに目を伏せる少女に、己の失態を悟る。 「失礼しました。申し訳ありません」 少女の前に片膝を付いて小さな手を取り、下から覗き込むようにして謝った。知らなかったとはいえ、失言である。 「いいの。そのかわり、おじさんも、えりさんもいろいろやさしくおしえてくれるから。ねえさまたちといっしょに、たくさんべんきょうしているし」 たのしいわ、と少女は微笑む。そこには、無理はなかった。少し心が軽くなる。 「姫はお強いのですね。私も昨年母を亡くしました。しばらく落ち込んでしまい、浮上するのに時間がかかりました」 妹もしばらく泣いていたが、男より女の方が強いらしくさっさと元気に笑うようになった。いつまでも泣いていてもお母様は帰ってこないからと。彼女より自分は弱い。亡くした痛みがいつまでも消えなかった。 来年は成人を迎えるというのに、表面だけは平常心を心がけていても心の傷が癒えていない己を、父親は今回の宴に連れ出した。隣の国とはいっても気候や風土が違う国の王宮は、見るだけで面白かった。国王も気を使ってくれたのだろう。花園へと誘ってくれた。 「あなたたも、おかあさまをなくしたの?かなしかった?」 「悲しかったです。優しい母でした。いつも笑っている母でした」 暖かい愛情に満ちた母親だった。決して美人というわけではないが、笑っている顔がとてもきいれいだと思った。病床に付いてからも、子供や夫に惜しみない愛情を注い、やがて眠るように息を引き取った。 「まだ、かなしい?さみしいの?」 「……どうでしょう」 どうなのだろう。自分の方がわからない。答えられない。 「ちゃんとないた?わたしは、いっぱいないて、これいじょうなみだがでないくらいないたもの。だから、あとは、わらうだけ」 「泣いていませんね。もう泣く歳ではありませんでしたから」 葬儀の間も涙は出なかった。己の立場では、もう弱みを見せられなかった。父親も悲しみの瞳でいたが、気丈に立っていた。その肩に大きく重い責任が乗ってるのだ。父親は母親を亡くした痛みを忘れはしていないが、すぐに忙しく日々を送りだした。 「なかないと、だめなんだって。とうさまも、いっていたから」 「父さまとは、国王ですよね?泣かないと駄目だとおっしゃったんですか?」 「うん。いっしょに、いっぱいないた!」 「……」 幼い王女と一緒にひっそりと泣く国王を想像して、自分まで切なくなった。 悲しんで思い切り泣かないと、傷は癒えないのだ。悲しみで固まった膿を出さないと、いつまでもぐちぐちと痛み続けるのだ。 それにしても、さきほどの広間で盛大に催されていた宴に、この王女は見かけなかった。王妃の子供は紹介されていた。王子が三人と王女が一人。第三王子は自分と同世代だった。妾妃の王女も並んでいた。 この王女の母親は亡くなったという。つまり後ろ盾のない妾妃の子供ということだろう。 母親のいない幼い王女が王宮で生きていくのは難しい。王妃、妾妃がいる王宮は陰謀が渦巻いているのが常だから。少女の置かれてる状況を思うと決して楽観視できないだろう。 「いっしょにないてあげるから、そんなかおしないで……」 少女がそっと己の頬に指を伸ばして撫でた。 そんな顔とは何だろう。自分ではどんな顔をしているかわからないけれど。きっと酷く苦い顔をしているのだろう。この少女の前では自分を取り繕うことができない。 「ありがとうございます」 お礼を言った自分の頭を少女がよしよしと撫でてくれる。誰かに頭を撫でられるなど、どれだけぶりだろう。 小さい手。でも暖かかった。 「あのね、わたし、おかあさまが好き。だから、胡弓をひくの。おかあさまが、いっしょにいてくれるきもちになるから。あなたも、おかあさまをわすれなくていいよ。おぼえていてね。ときどきおもいだして。けど、かなしいなっておもったらなかなくちゃだめ!にんげんはひとりではきていけないってとうさまもいうから」 「はい」 さすがに涙は出ないが、心が癒される。 誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。自分を知らないひとに。飾らない心の奥を。 しばらくじっとしていると、「そうだ」と少女は言ってベンチからぴょんと飛び降りた。胡弓は大事に手に持って。 「こっち」 そういって開いている片方の手で己の手をひっぱる。小さな手は大きな自分の手を握ることはできなくて、添えられているとった感じだ。 その手を離さないように、されるがまま少女について行く。少女は庭園をよく知っているようで迷うことなく小道をすたすたと歩いていく。そして、たぶん、庭園の端に到着した。 「これは……」 眼下に広がるのは、城下町だろう。夜の帳が降りた闇の中、家々の明かりが見える。まるで星のようだ。それも暖かい体温を感じる星。 「とうさまが、見ていうの。これを見るとかなしんでいてばかりはいられないって。やらなくてはならないことがたくさんあるんだって」 「本当ですね。守らなければならないもの。やらなければならないもの。それは忘れてはならない。義務ではない。そんなふうに思ってはできないことだ」 きっと国王もこの少女には見せているのだ。普段は王として立っていても、自分をありのままに見せられる存在がいることは、なんと幸せなことだろう。 羨ましい。強烈にそう思った。 このような存在に側にいて欲しい。 優しい心根を持ち、賢く、人の痛みがわかる。本当に薔薇の精霊のように気高く美しい。 彼女が隣にいてくれれば、これからの人生自分らしく歩いていけるだろう。 そっと伺うように見上げてくる少女に心から笑いかけた。そして、跪く。 「姫君。私と、結婚してくださいませんか?」 「……けっこん?」 少女はことりと首を傾げる。 「はい。将来、姫君が大きくなったら」 「……。それは、とうさまにきかないと、わからないわ」 確かに、その通りだった。幼いからといって簡単に頷かないことが、反対に立派な王女の資質をあらわしていた。王女の婚姻は、国と国との外交だ。 「では、国王に許しを頂けたら、結婚していただけますか?」 少女は小さく頷く。かなり強引だが、それでも十分だった。王女は父親の選んだ相手と婚姻しなければならないのが常識であるから、国王の許しがあったなら、少女に拒否権はない。 「嬉しいです。約束ですよ」 少女の細く小さな手を取り、白い甲にキスを落とす。 「私は、……カイトといいます。忘れないでくださいね」 小さく頷く少女に笑みを深めた。必ず、この約定は果たして見せよう。少女が次に逢う時にたとえ忘れていも。必ず。 |