「Today and Tomorrow」1



 月夜の晩の奇跡。
 それは月の女神が気まぐれに魔法をかけるからなのか。
 満月の光は神秘的な銀の矢となって地球に降り注ぐ。その矢を受ける者は女神に選ばれた者なのか?女神に愛された者なのか?
 その意志を伺うことは何の力もない人間にはできないが、時として信じられない奇跡を起こす。
 それは、感謝するべきことだろうか?
 それとも、女神の悪戯に翻弄されるのだろうか?
 いずれにしても、奇跡に遭遇した者しか結果は知り得ない。

 その晩起こった奇跡は、どちらであったのだろうか?





 
 月の輝く夜に現れる白い装束に身を包んだ怪盗。
 自由に夜空を飛んで、予告通り宝石を盗み警察を翻弄して消える怪盗は、必ずすることがある。どこと決まった場所はないが、大概逃走途中のビルの屋上で盗んだ宝石を月にかざす。まるでそれが儀式のように片手で宝石を摘んで月の光を当てるように、中を覗き込む。そして、決まって小さくため息を付くのだ。
 カタリと強風に煽られているビルの屋上に靴音が響いた。怪盗はわかっていたかのように、靴音の主に視線を向けた。

 「KID?」

 近付いた人物は怪盗の名を呼ぶ。

 「こんばんは、名探偵」

 怪盗は優美に一礼して、自身が認める唯一の探偵である人間にお決まりの挨拶をする。蒼い瞳の麗人。国際的犯罪者である怪盗KIDとは正反対に位置する日本警察の救世主と呼ばれる探偵である。その瞳は嘘偽りを見抜き、謎を解き明かし真実を見つめる。彼が関わった事件は迷宮なしと言われている、おそらく日本中で知らない人間などいないであろう、美貌と頭脳を併せ持つ「名探偵」だ。

 「もう用は済んだだろ、宝石返しておいてやるよ」

 探偵は怪盗の側まで歩いてくると、ほんの少しの距離をおいて立ち止まる。

 「いつもすみませんね」
 「言葉だけだな………」

 殊勝な態度に見えなくもない怪盗の言葉に、探偵は肩をすくめる。

 「どうせ、やめないんだから謝るな」
 「そうはいっても、貴方に宅配のようなまねごとをさせているのですから」
 「………で、謝るのか?」

 探偵は片眉を上げて怪盗をついと見上げる。その探偵の真意を読みとり、怪盗は深く会釈する。

 「ありがとうございます、名探偵」

 すみませんと、謝るのではなく、どうせならありがとうと感謝しておけ、と瞳が語る。その方が言われた方も気分がいいものだ。
 探偵は、怪盗の感謝にふんと鼻をならす。その方がいい、と風に飛ばされそうな程小さく呟く。もちろん怪盗には聞こえていた。

 「それでは、よろしくお願いします」
 「ああ」

 怪盗は探偵に一歩近づき差し出された手のひらに、ふわりと今夜の獲物であるビックジュエルを落とした。月光に輝く宝石は探偵の手の中に収まり、彼はそれを一度確認するように摘んで目の高さまでもってくる。

 「早く見つかるといいな」

 視線は宝石に向けて、ぽつりと漏らす。

 「………」

 怪盗は探偵の言葉を無言で受け取り不可思議な微笑を口元に浮かべる。シルクハットを目深く被り直し、探偵から音も立てずに離れた。
 怪盗の目的。
 ビックジュエルだけを狙い、何かを確認して持ち主に返す。
 導かれた答えは簡単で、怪盗はビックジュエルを探している。どんなものかはわからないが、それを見つけるまで彼はその衣装を纏ったままなのだろう。
 探偵は時間があれば、こうして怪盗の所に赴き宝石の返却に手を貸す。
 いつも月に宝石を翳して、決まって吐息を付く怪盗を見る。その度に、早く見つければいいと思う。そう自身が思うこと自体探偵としては失格なのかもしれないが、苦しそうな怪盗を見ると思わずにはいられない。決して見せないようにしているけれど、苦悩や悲哀が雰囲気となって漂ってくるのだ。それを探偵は無視することができない。流れ込んでくる感情が探偵を揺さぶるのだ。
 それを怪盗に気付かせないように探偵はいつも隠している。
 彼と対する時は、対等で。
 互いに干渉はしないで。
 告げたことはないがそれがルールのようなもの。
 そうでなければ、ここにいられないと思う。ここに来れない。

 「それでは、失礼します」

 怪盗は一礼してフェンスの上に重力を感じさせないで飛び乗った。そして、白い翼を広げ夜空に飛び立つのを探偵は見送る。月が輝く闇を自由に飛んでいる鳥をしばらく見つめて、無事にどこかに消えていくのを確認して吐息を付く。
 
 預かった宝石をポケットに忍ばせて、探偵はビルの屋上を後にした。
 




 KIDから預かった宝石を新一は一度警視庁まで戻り中森警部に返した。無事に戻ってきた宝石に美術館の館長はほっと安堵して、新一の手を握り涙を流しながら感謝していた。KIDは宝石を返すことで有名だが、盗まれた側にしてみれば絶対という保証はどこにもないのだ。いくら警察に警備してもらっても不安は消せず………例外をのぞきKIDが盗めなかった試しはない………案の定まんまと盗まれて逃げられて、どうしたらいいのかと不安に暮れていたら、新一が宝石をもって現れたのだ。
 感激しない訳がない。

 「ありがとう、本当にありがとう!」
 「いいえ」

 その手柄を驕ることなく謙虚な新一の態度に、館長はしみじみと思った。
 さすが、日本警察の救世主、と。
 工藤新一の名前を知らない人間を日本で探すことは難しいだろう。それくらい名探偵として有名であり、その容姿は見惚れるほどに美しかった。
 世界中に推理小説家として名をはせている工藤優作の頭脳とかの大女優、藤峰有希子の美貌を受け継いだサラブレット。本人自身が七光りなど必用ない程の光を放つ宝石であれば、誰もが好意をもたずにはいられない。

 「工藤君、いつもすまないね」

 中森警部からも声がかかる。
 探偵に現場を荒らされることはまっぴらの中森は探偵嫌いであるが、新一は別だった。現場に来ることは滅多になく、助言をしても慎ましやかだ。探偵と警察の差を弁えて行動する姿は中森から見ても好ましい。
 そして、宝石をKIDから受け取り………取り返すというのは語弊があると中森も知っている。なぜだが、新一にKIDが宝石を渡すのだ。KIDが新一を認めていることは存外明らかなことであるから、中森もそんなものだろうと思っている………その手柄を決して公にはしないのだ。

 「これくらしかできませんから」

 新一は申し訳なさそうに微笑む。

 「十分だよ」

 中森が新一の肩にぽんと手を乗せて、遅くなったから送らせようかと聞いた。

 「大丈夫ですよ、まだ電車ありますから」

 しかし新一は中森の申し出を断った。確かに遅いが、電車がない訳ではない。ぎりぎり最終があるだろう。

 「それでは、失礼します」

 新一は警視庁を後にした。
 
 

 新一は工藤邸まで月を眺めながら歩いている。
 深夜に差し掛かろうかという時刻は静寂が満ちていた。工藤邸は高級住宅街にあるため世間の喧噪とは縁遠かった。若者が騒ぐことなどないし、深夜に騒がしい店もない。
 自分の立てる靴音だけが住宅街に、道路に響いているのを新一は聞いていた。
 カツン、カツンと響く音が、まるで世界に自分一人だけ取り残されたような気にさせる。両親と離れて一人で住んで慣れているつもりでも、ふとした瞬間孤独を感じる。
 誰かがいないと駄目だなんて、思っていない。
 一人暮らしには慣れているし一人の方が気楽だ。
 それなのに、まるで自分の知らない心の透き間に入り込むのだ。
 するりと知らないうちに近付いている黒猫みたいなものだろうか。人なつこいようでいて、気まぐれで、災いを呼ぶと言われているのに、安堵感があり、存在がどこか優しいのだ。寄り添うように、ある影。
 新一は首をふってその影を振り払うようにして再び頭上を見上げた。
 銀色の月は、どこにも欠けたところがない。

 今宵は満月。
 神秘的な光を放つ月は彼を守護するもの。
 月の女神に守護されている彼が、早くその姿から解放されるようにと祈る。
 新一はそう密やかに祈ることしかできないのだ。自分と彼との距離はあまりに遠いから。その差が縮まることは決してない。そう知っている。
 自分が戦いを終えたからそう思う訳ではない。厳密に言えば新一はまだ戦いを終えていない。それでも組織を壊滅に一度は追い込んでいる。残党がいるかもしれないし、自分達の秘密を知るものに狙われる可能性だってある。安全とはいいがたい。
 それでも、新一は元の身体に戻ることができた。
 ある事件に首を突っ込み見つかって毒を飲まされ、身体が幼児化するという信じられない現象を体験した。その毒薬の開発に携わった科学者である宮野志保に出会い、彼女も幼児化していたのだが、共に組織を潰して元に戻った。
 夢のような薬を服用して若返り、元に戻る体験をした自分達は貴重な研究材料だろう。世の中にはそれを手に入れたいと思う酔狂な人間が、研究者が、亡者がいる。新一も志保もそれを踏まえて生活している。
 同じように戦っているKIDに、だから親近感が沸いたのだろうか。
 ただその苦しみから、彼が解き放たれることを望む。
 誰かが苦悩している姿は見ているのが辛いから。
 
 新一は大きく吐息を付いて、眼前にそびえる自宅を見た。
 鬱蒼と茂る木々に囲まれた館は夜中見ると、かなり幽霊屋敷らしく見える。昼間ならそうでもないのにな、と新一は苦笑して門扉を開けて敷地内に入った。
 それなりのセキュリティに保たれているのだが、この屋敷を管理するには軽すぎるだろう、とは隣の博士と志保の言葉である。それでも新一が気にしたことはない。とはいえ、危険性があるため、一応は博士と志保の言うとおり準じているのだが………。
 
 ドドーン、ガシャン、バターン………。
 
 耳に届いた、破戒音。

 (………何が落ちたんだ?)

 新一は落下音らしきものがした方向に走っていった。庭の奥に、何か固まりがうずくまっている。
 白い物体。
 近付いて新一が見たものは、純白の衣装を纏った見慣れた鳥だった。先ほど別れたばかりのはずの白い鳥。目をこらすと肩の当たりから朱色が滲んでいるのがわかる。

 「………KID?」

 新一は呟いた。
 
 「KID!!!」

 そして新一は驚愕で一瞬瞳を見開くが、我に返りすぐに駆け寄った。
 
 (………どうして?あの後何かあったのか?無事に帰ったんじゃなかったのか?)

 新一は動揺を抑えながらKIDを抱き起こす。
 肩を押さえながら苦痛に顔をゆがめているが、意識がないのか目は閉じていて新一の呼び声に反応がない。シルクハットは側に転げ落ち、長いマントも裾が破けている上、血が付いている。顔をゆっくりと上向かせて、頭を膝の上に乗せる。
 
 (………!)

 片眼鏡に隠された顔は月の光で白く照らされている。それだけでも端正な青年の顔であるとわかった。
 青白い顔が痛々しくて、新一は眉を寄せながら肩以外に怪我がないかざっと見た。かすり傷は多々あるが出血しているのは一カ所だけのようだ。鍛えているのか筋肉が均等に付いていて、細身なのに逞しい。ついでに肩幅まであって自分よりずっと男らしい大人の身体に少しだけ腹立たしい。それでも怪盗など身体が資本であるから、鍛えていなくてはできないとわかっているが………。
 そして、肩の怪我はどう見ても銃創のようである。
 新一は急いでポケットから携帯を取り出すと隣に電話をかけた。自身の主治医である志保なら、この傷も見てもらえる。病院へ連れていく訳にはいかないし………。

 「あ、志保?悪いんだが、見て欲しい怪我人がいるんだ………、ごめん、ああ、うん、頼む。それと博士いるか?
………ああ、俺一人じゃ運べないから………じゃあな」

 深夜だというのに、電話一本で新一の頼みを聞いてくれる志保に感謝しながら、目の前に横たわるKIDを見つめた。


 「工藤君?」
 「新一?」

 しばらくすると志保と阿笠博士が現れた。

 「ああ、こっちだ!」

 二人を呼んで手招きする。夜中で尚かつ庭の奥なのでわかりにくいはずだ。

 「ごめん、まず中に運んでもいいか?博士手伝ってくれ」
 「ああ、わかった」

 それぞれが片方の肩を抱いて持ち上げる。そして、引きずるように屋敷に運び入れた。その後ろ姿を見て取った志保は玄関を開けたり閉めたりと補助をしながら、先に上がって手当の準備をする。客間のベットに寝かせて、てきぱきと志保は診察して治療する。
 さすがに治療のために服は脱がせて包帯を巻き、優作のシャツを着せて、少し考えたが邪魔であるから片眼鏡も外してある。

 「もう、いいわよ。しばらく安静にね。それに痛み止めと化膿止めの薬をまた明日もってくるから。今夜一晩はぐっすりと眠っていると思うわ」

 注射針を腕から外して、捲ったシャツを元に戻しながら志保は新一に向き直った。

 「ありがとう」

 新一は志保に心からお礼を言う。

 「別にこのくらい訳ないわ。………ところで工藤君、この人は誰?」

 志保は意味深に目を細め首を傾げながら新一を見上げた。それを新一は真っ直ぐに受け取って、

 「さあな」

 読めない瞳で薄く笑う。

 「工藤君………!」
 「見たままじゃないのか?」
 「こんな世の中に白いスーツに白いマント、シルクハットと片眼鏡を付ける酔狂な人間なんて一人しか知らないわ」
 「だったら、そうなんだろ?」
 「………そう?」

 志保は真意を探るように新一の瞳を見つめた。

 「ああ………」
 「わかったわ。まあ、事情は明日でいいでしょう」

 新一のきっぱりした態度に志保は肩をすくめてみせて、妥協した。

 「それから、貴方この人に付いてるつもりなの?」
 「一応、そのつもりだけど?」
 「………貴方も疲れているんだから、ちゃんと寝なさい。そうでないなら私が泊まり込むわよ?」

 脅しのような台詞に新一は苦笑する。

 「わかった。ちゃんと自分の部屋で寝るから。薬が効いてぐっすりなら、朝早くまた様子見に来る、それでいいだろ?」
 「いいわ」

 両手を上げて、降参というポーズを取る新一に志保は頷いた。

 「じゃあ、また明日ね」
 「それじゃあな、無理するんじゃないぞ?」
 「ああ、ありがとう」

 志保と博士が立ち上がり部屋から出ていこうとするので、新一も一緒に付いていく。玄関で二人を見送ってもう一度新一は男が眠る部屋まで戻ってくる。
 瞼を閉じている白い顔。出血のせいだろうか、生気が薄いような気がする。それでも儚そうには見えないのは力強い生命力のせいだろうか。
 新一はそっとかすり傷が残る頬に手を伸ばす。
 端正な大人の顔。
 自分とは全く違う鍛えられた肉体。

 (果たして助けて良かったのか………。それはこの男の望むことだったのか?)

 静かに男を見つめて、新一は布団を首まで引っ張り上げる。そして、部屋を後にした。





 「あ、目が覚めたか?」

 新一はベットの中で身じろぎして、ぼんやりと覚醒し瞳を開けた青年の顔を覗き込んだ。

 「え?………俺どうしたんだ?」

 男は頭が回っていないようで、置かれた状況がわかっていないようだった。

 「倒れていたのは覚えているか?」
 「………倒れて?」

 ふと考えるように天井を見上げるが、思い出したのか顔を横に向けて新一を見つめた。

 「助けてくれたのか?」
 「ああ、うちの庭に落ちていたからな」
 「庭に?」
 「そう………怪我してて意識もなかったから。一応手当はしてあるけど、調子はどうだ?」
 「いい、と思う」

 男は布団の中でちょっと手足を動かしてみて大丈夫そうだと結論付けると、よっとかけ声をかけて起きあがった。その拍子に肩が痛むが、我慢できない程ではなかった。

 「喉乾いてるんじゃないか?水飲むか?」
 「ああ、もらっていいか?」

 新一は頷いて、テーブルに置いてあった水差しからコップに水を注いで男に渡す。それを男は受けってごくごくの飲み干した。一晩寝ていて汗もかいただろうし、銃創は熱を発しやすいから身体が水分を欲しがっているはずだ。新一は男のコップに2杯目の水を注いだ。それを同じように飲み干して男は、ありがとうとコップを返した。

 「なあ、なんで助けてくれたんだ?警察に突き出さないのか?」

 コップをテーブルに置いて水差しの蓋を閉めている新一に男は不思議そうに聞いてきた。

 「別に………大した理由はない。怪我している人間を放っておけなかっただけだし。ああ、衣装はそこにかけてあるし、片眼鏡はテーブルの上。そのままって訳にはいかなかったから………」

 新一はきっと男が気になっているだろう白い衣装と片眼鏡の在処を指差す。

 「ありがとう………」

 男は心からの感謝を込めてお礼を言った。
 犯罪者を助けて治療してくれて、警察に通報をせず自分を労ってくれる優しい人間に今まで出逢ったことはない。

 「でも迷惑じゃないか?俺を匿っていると知れたら………」
 「………KIDを?」

 新一は男を真っ直ぐにその蒼い瞳で見つめた。

 「そう、KIDを」

 対する男は、きっぱりと言う。しかし、新一はうっすらと微笑する。

 「気のするようなことじゃない。誰もここにKIDがいるなんて思わないさ」
 「そうか?」
 「ああ」

 新一は断言する。探偵の家に誰が犯罪者がいると思うのか。警察の人間は全くわからないだろう。

 「それでも迷惑に変わりないから、すぐに出ていくよ」
 「お前さえよければ、怪我が治るまでくらい家にいてもいいけど?まあ、強制はできないけどな」
 「いいのか?」

 男は少し驚いた表情を浮かべて新一を見る。

 「構わないさ」
 「………」
 「何だ?」

 黙った男に新一は首を傾げる。

 「どうしてって聞いていいか?それじゃあ、優し過ぎるだろ」
 「気まぐれ………かな?」
 「気まぐれ?お人好しにも程があるだろ?それじゃあ」
 「別にいいじゃないか、誰にも迷惑なんてかけてない」

 男が呆れているので新一は言い返すが、ふと志保や博士の顔が思い浮かんだ。
 迷惑は毎回毎回かけている。心配もたくさん。新一が頭が上がらない二人からすれば、どこが迷惑をかけてないのか?と言われそうだ。ついでに、お人好しという言葉にも同意するだろう。過去に言われ慣れていた。

 「迷惑って………。面白いなあ、お前」

 男はあははと声を立てて笑う。段々お腹までかかえて笑うので傷に響いたらしく、顔をしかめた。

 「放っておけ」

 新一は、ふっと横を向いた。

 「ごめん、ごめん、悪かった」

 ご機嫌を斜めにした新一に男は機嫌を取るように謝る。そして、表情を改めて、新一を真摯に見つめた。

 「なあ、名前教えて?」
 「………」

 新一はほんの少しだけ動きを止めるが、ごく自然に男に視線を向けた。

 「新一。工藤新一」
 「………新一?新一君?」

 男はその名前を口の中で転がす。
 この見惚れる程に綺麗な人には似合っていると思う。

 「君はいらない。新一でいい」
 「じゃあ、新一。本当、ありがとう」

 新一に了解を得たので名前をよんで、真っ直ぐに見つめる。どこか不可思議に微笑みを浮かべる新一を、眩しいものを見る思いで………。

 ピピピ………。
 突如携帯の音が鳴り響いた。新一は急いでポケットから取り出して通話ボタンを押す。

 「もしもし?」
 『おはよう、工藤君』
 「志保?おはよう。………ひょっとして気にしてたのか?ちゃんと寝てたぞ」
 『それならいいけど。それで彼は目覚めたの?』
 「ああ。起きた。大丈夫そうだ」
 『そう。じゃあこれからそっちに行くから』
 「わかった。朝からすまないな」
 『気にしないで。ついでだから。博士、朝早くから出かけたのよ』
 「サンキュー」

 新一は通話を終えて携帯をポケットに仕舞った。そして、とても不思議そうに見ている男と目があう。

 「どうした?」
 「今のは電話なのか?」
 「そうだけど?」
 「コードが繋がってないのに?あんな玩具みたいに小さくて?」
 「今時の携帯なら普通だと思うけど………」

 男の反応に新一は嫌な予感を覚える。
 まるで携帯電話を知らないかのような様子なのだ。

 「あれは何だ?」

 男はテーブルに置いてある新一のパソコンを指差して尋ねた。男が目覚めるまで横で作業していたのだ。

 「パソコンだけど?俺のはバイオ」
 「………コンピュータなんだよな?バイオって何だ?それにものすごく薄くないか、あれで動くのか?」

 男は首を大きく傾げ腕を組んで頭を悩ませた。自分の前にある見たこともない文明はどうしたことだろうか………。知らない物がたくさんある。ひょっとしてここは、自分が知らない技術の先端を開発しているのだろうか?彼はあらゆる可能性をぐるぐると考える。
 新一はそんな男の顔を見て、内心ため息を付いた。
 あまり確認したくないのだが、やはり聞かねばならないのだろうか?

 「今は西暦何年だ?」

 新一は慎重に聞いた。

 「は?80年だけど?」

 何て基本的なことを聞くのだろうかと男は思いながらそれでも答えた。
 新一は頭を押さえた。
 そう、ほんの少しだけ嫌な予感があったのだが、まさか当たるだなんて誰が思うものか。自分はそんな非科学的なこと信じない、と言いたい。が、自身が非科学的な体験をしたため一概に否定できないのが、辛い。
 それに新一は自分が観察した材料と彼が嘘を言っていないだろうことは信じられた。

 「驚かずに聞けよ、今は2002年だ」
 「………はあ?何それ、嘘だろ?」
 「嘘じゃない。こんな嘘付きたくもない。見ろ、これを」

 新一は卓上カレンダーを取って、男に見せた。男は信じられないように、それを手にして見つめている。

 「………本当に?嘘じゃないのか?」

 男は呆然と呟く。

 「本当だ。俺だって信じたくない」

 新一も男に同意したいところである。
 信じたくない。これが夢ならどれだけいいかしれない。それなのに、事実で現実だとはっきり認めるしかない。

 「「………」」

 部屋に何とも言えない沈黙が降りた。

 「工藤君?入るわよ」

 そこへ何も知らない志保が入ってくる。

 「志保………」

 新一ははっと我に返って志保に振り向いた。珍しくも新一の瞳がどこか縋るような色を見せている。志保は何事だろうかと疑問に思う。

 「どうしたの?」
 「………」
 「何があったの?」

 志保はまず困ったような新一を見て、次いでベットに腰掛けて同じく困ったように眉を寄せている男を見た。
 
 (どうしたのだろう………。さっき電話した時は普通だったのに、その短い間に何があったというのかしら?)

 新一は意を決したように、その現実離れした事実を殊更厳かに告げた。

 「こいつは、20年以上前の世界から来たらしい………」
 「はあ………???」

 志保は彼女にしては大層珍しくあんぐりと口を開けて新一を見つめた。
 新一がそんな馬鹿馬鹿しい冗談を言うとも思えないが、簡単に信じられることでもない。それでも新一の言うことなら志保はどんなことで信じるだろうが………。

 「まず、携帯もパソコンも今の時代の分明の利器を知らない。それは何だという顔をして見て俺に質問してきた。それで本人に聞いてみたら彼にとっての時間は1980年みたいなんだ………」 
 「それで信じたの?普通なら頭を打っておかしくなったと思うでしょ?」
 「それと、俺がそうかもしれないと思うことは彼の靴だ。靴のロゴが現在はすでになくなっている老舗メーカーの名前が入っていた。ここはオーダーメードで有名だったが、名工が亡くなって15年以上前にメーカー自体が消滅した。それなのに、新品ばりに綺麗なんだよ」
 「………」
 「だから、何か違和感はあったんだ。それがはっきりした」
 「そう」

 志保は新一の冷静な判断を受け入れた。
 普通なら頭を打っていないか調べてみるべきなのだ。
 過去から来たなどそうそう受け入れられることではない。しかし、新一の真実を見抜く探偵の瞳には、そう映ったのだ。志保はそれに否定を見つけられる訳がない。
 もっとも、落ちて頭を打っている可能性はあるから脳波に異常がないか一度調べてみた方がいい。それは事故にあった時の最低限の調査だ。

 「それに、彼は本物のKIDだと思う」
 「どうして、そう思うの?」
 「雰囲気っていうか、何て言うかとても偽物とは思えない。KIDの誇りもあるし。まあ、俺に名前教えて?って聞いたけどな」

 新一はそう言いながら苦笑する。
 彼は新一の知っている現在のKIDではない。
 それは初めからわかっていた。
 ただ、まさか過去から本物が来たとは思っていなかっただけだ。ひょっとしたら、KIDに近しい人間なのか、身代わりで行動したのか、様々な事を考えて仮説は立てていた。
 新一に名前を聞いたことで、益々疑惑を深めてはいた。
 KID関係者なら自分のことは知っている可能性が高いからだ。警察に協力する、KIDの警備や暗号解読に参加した探偵をチェックして用心しない訳がない。それくらいの下準備、情報収集がなければいつ掴まってもおかしくない。

 「わかったわ」

 志保は肩をすくめてみせ、仕方がなさそうに微笑んだ。
 結局志保は新一の選択した道にどこまでも付いていく覚悟をしていたし、どこまでも、何をしても、フォローすると決めていた。

 「まず、診察しましょうか」

 志保はベットの横まで来て男を見上げた。

 「怪盗さん、傷を消毒するからシャツを脱いでちょうだい」
 「こいつは医者だから保証する。昨日も治療してくれたんだ」

 新一は志保の横で彼女は心配する必用はなく安心していいんだ、と男に表情を和らげて補足する。
 男は二人の話を黙って聞いていたが、新一が穏やかに微笑するので志保を信用することにしたらしい。ここで何かされるなら、とうの昔に警察行きだし治療などもしてくれるはずがない。シャツのボタンに指をかけて外し肩から落とす。包帯の巻かれた肩を志保に向けて、志保が包帯を取ろうとするのを自身も腕を動かして手伝う。
 志保は現れた怪我に消毒やら薬を塗って再び包帯をてきぱきと巻く。そしてもってきた大き目の鞄から注射器を取り出し針を付け、ゴムチューブで圧迫しておき男の腕を取りゆっくり血管に刺す。そこを管に繋いで点滴をフックにかけて落ちる速度を調節する。手際の良さに男は内心驚愕していた。
 見た目はとても若い。経験などなさそうに見えるのに慣れた処置をする、まるで医者のような少女。

 「これでいいわ。しばらく安静にしていてね」
 「ああ………ありがとう」
 「いいえ、どういたしまして」

 志保は男の礼を軽く受け流す。そんな志保の態度に目を細めながら、男は新一に向き直った。

 「なあ、さっきの話だけど。俺は未来に来たってことになるんだよな。今は2002年。それは信じられないけど、信じる。それよりも聞きたいのは、KIDはこの時代にもいる?本物のKIDだと思うっておまえは言った。KIDを知っている?」

 男は新一から目を逸らさずに、返事を待つ。

 「………今の時代にKIDはいる。それについて詳しく話していいものか迷う。俺が知っていることはたかが知れているが、それでもお前は自分の未来を知ってもいいのか?」
 「………俺の未来か。KIDはいるんだな、この20年以上も過ぎた未来でも………」

 男が複雑そうな表情を浮かべる。新一は何も言えない。
 どのような理由があるのか定かではないが、現在のKIDは別人だ。この目の前の男ではない。そして、この男こそ、初代KID………。
 彼が現在の未来において、どうなったのかはわからない。
 ただ、新一は現代のKIDが決死の覚悟をもってその衣装を纏っていることを知っている。なんとなく初代はすでにいないのではないか、と思っていた。そうでなければ、彼があんな悲壮な顔をする訳がなかったから。怪盗KIDが再び活動するまで何年ものブランクがあった。つまり、それが謎を解く鍵だ。現代と初代とKIDは別人だと。

 「どうする?」

 新一は聞く。

 「未来は知らない方がいい、そうだろ?」

 男はにやりと笑った。
 自分の未来。知りたくない人間はいない。そして、知るのが怖いものでもある。

 「そうだな………」

 新一は目を伏せながら頷いた。

 「ねえ、それはいいとして。どうするの?」

 志保は成り行きを見守っていたが、問題を口にした。

 「何が?」
 「この怪盗さんは未来へ来たのよ。過去に戻らなければならないわ。その方法よ」
 「………方法」
 「………わかったらノーベル賞ものだな。世紀の大発見だ」

 3人は顔を見合わせる。
 いくら志保が優れた科学者でも、わかる訳がない。
 当事者の男にしても、新一にしても途方に暮れるしかない。

 「一応、ここの庭に落ちるまでで覚えていることはないの?」
 「KIDとしてちょっと仕事してて、襲われた。銃弾を避けながら飛んでたが肩に一発くらってバランスを失ってそれでも飛んでいたが、強風に煽られて失速した。その後は落ちる、このままだと死ぬなと思って意識がない………」
 「………こういう場合お約束として時空でも飛んだのかしら?」

 志保ははあ、とため息を付く。

 「………管轄外の分野だな」

 新一も深く吐息を付く。全くお手上げである。

 「俺もわからない………。何の間違いなんだろ。命があっただけ良しとすればいいのか?」
 「そうじゃないか。………まあ、しばらくここで静養すればいい。方法はこれから考えればいいさ」

 新一は今悩んでもしかたないと割り切って男に安心させるように笑顔を向けた。

 「サンキュー、助かる」

 男も自分ではどうしようもないことと、この世界には自分が帰る場所もないことを知り素直に新一の申し出を受けることにした。

 「どこまでも付き合うわよ、工藤君」

 志保も苦笑しながらそう言い足す。

 「ありがとう、志保」

 志保にも笑顔を向けて新一は感謝する。いつも巻き込んでしまうのに、結局付きあってくれる志保だ。

 「今更だけど、志保っていうのか?」

 男は聞き辛らそうに志保を見る。

 「ええ。宮野志保、お隣に住んでるわ。これからしばらくの付き合いね」

 志保は男に自己紹介をする。これっきりなら兎も角、新一はとことん面倒を見るつもりなのだから。

 「そうか、よろしく志保。そして新一」

 男は二人を名前でよんだ。

 「俺は、盗一。黒羽盗一。これでもマジシャンだよ」

 にっこりと男は名前を告げた。それは男にとっては当然の誠意だった。




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