砂海に浮かぶ月 1




 東から吹いてくる風に、砂塵が舞う。
 遮る雲もなく容赦なく照りつける太陽の光線は人が昼間出歩くには強すぎる。
 その街は城塞のような作りで、中心に聳える程の城が建ち城壁が囲みその周りを円を描くようにして街が形成されている。
 街はどこを見渡しても、白い壁だ。
 緑は街のどこにも見えない。
 緑豊かで水が豊富の楽園だと異国で噂されているのは、中央に座する城の存在故だ。街のどこからも見上げれば視線に入る城はいくつもの円柱をした塔が建っている。空に向かって聳える塔の先端にはこの街を納める王が住んでいる。
 王が守る井戸は地下用水を流れ街の家々に流れて来る。その水があるから民は生きてゆける。繁栄できるのだ。
 砂海に面した街、小国ディアーバルが栄えているのは代々の王が水に愛されているため、城にある井戸が枯れないからだという。
 
 
 
 


 人影が全く見あたらない白い壁に囲まれた道を少女が走っていた。
 朱色の巻きスカートにズボン、砂塵と日光を避けるため頭から白い布を被っている。口元も布で覆っているため僅かに蒼い瞳が見えるだけだ。
 身につけているものは、白い布も巻きスカートも金糸で縁取りがされている事から裕福な家の娘であろうと想像できる。が、そんな少女が真っ昼間に町中を走っているのは明らかにおかしい。
 この街の活動時間は夜だ。
 その夜でさえも、裕福な家の娘が一人で出歩くことはない。
 流浪の民や旅人が訪れる街は、少女が一人歩くには治安が良くない。危険と言う程ではないが、極力控えるべきだと街の人間は知っていた。
 少女は衣を翻して一心に走っている。
「いたぞっ!」
「追え!」
 後方から追手の声と足音がする。
 少女は後ろも振り向かずに、ひたすら走った。
 直射日光の中、全速力で走るのは自殺行為だ。この街の人間はそんな無茶を誰もしない。
 汗が額から流れて落ちる。
 被っている金の縁取りがある白い布がずれて、少女の黒髪がこぼれ落ちる。

(……随分早くに見つかってしまったな)

 少女が目指す先は、まだ遠い。
 もっと遠方まで逃げるつもりだったのに、追手が来るのが早い。
 このまま街を囲む城壁を越えるつもりだったのに、このままだとそれも難しい。
「……お待ち下さいっ」
 自分を遮る声は、聞き覚えのあるものだ。
 前方にいる老人は見慣れた顔。息を乱して両手を広げて自分に止まれと言っている。
 しかし、それは聞けない話だ。
 老人に恨みも何もありはしないが、ここで足を止めるつもりなら最初から逃げてなどいない。

(どうするか?)

 少女は細い横道に入った。街の道は詳しくないが、それでもあそこで掴まるよりましだ。
 息が切れる。
 喉が乾く。
 ふらつく身体に霞む視線。
 それでも、走る。走る。
 自分は、戻るつもりはないのだから。
「どうしました?お嬢さん」
 少女が頭上からか聞こえた声の主を捜すと、塀の上に一人の青年が立っていた。
 白い上衣に黒いズボン、短めの白い布を被っている。
「……魔法使い?」
 少女は目を見開いて青年を見上げた。
 青年の瞳の色が暗い紫色をしている。紫の瞳は、畏怖の証。
 魔法使いとは、俗名だ。正しくは砂海に愛された者、羅針盤だ。

(こんな場所で、魔法使いに逢うなんて……)

 少女は自分の強運を感謝した。
 なぜ、魔法使いがここにいるのかなど、どうでもいい事だ。
 自分に声を掛けてきた理由さえも、深く意味など構っていられない。
「契約を」
 少女は懐から小さな袋を取り出して、紐を掴み解き中身を撒き散らした。東からの強風で金砂が舞い散る。
 きらきらと細かな金の粒が一帯に広がり、少女も塀の上の青年をも包んだ。
 祝福の金風。
 略式だが、風使いへの正式な依頼。
「いいでしょう。望みを」
 青年は楽しげに口の端を上げて笑むと、ふわりと少女の前に降り立った。
「西へ。砂海を越えたセレンテスまで。風使いを請う」
 真摯な声が響くと、青年は少女の手を取り甲に口付ける。すると手の甲にうっすらと青く古い文字印が浮かび上がった。
 それが契約の証だ。
「巫女様っ」
 全力で追い付いてきた老人が後方に迫っている。そして悲壮な声で少女を呼ぶ。
「追われていますね、巻きますか?」
 契約した青年は少女を主のように、伺う。少女は頷いた。
 失礼と断り青年は少女を抱き上げた。そして、塀の上へ身軽に飛び上がる。
「お待ち下さいっ」
 少女は哀れに老人を見下ろすと、己の左耳に下がる石をつかみ老人に投げた。放物線を描き老人の手の中に落ちてきたものは、月長石だ。乳光に輝く半透明の石。
「それを、井戸へ。しばらくはもつ」
「巫女様」
 老人と追ってきた男達を尻目に青年と少女の姿はあっという間に消えた。
 
 
 
 身軽に城壁を飛び越えて行く青年は、まるで風のようだ。
 その腕に掴まりながら、少女は、ふと間近にある青年の顔を見つめる。
「ところで、俺はお嬢さんじゃない」
 青年に抱えられながら、少女、ではなく少年はそう訂正した。

 
 
 
 



 砂海。

 この大陸の4割を占める砂の大河だ。
 そこに生きるものといえば、堅い鱗で覆われた蛇や魚だけだ。他に生物はいないはずだが、陸から離れた大海で化け物に船を襲われた者もいるという。巨大で長い身体は鱗に覆われ嵐の砂海に現れ暴れ回る危険な怪物らしい。
 一方、恵みの雨が降る一時だけ砂海上に楽園が現れるという伝説もあるが、それを見た事がるのは余程稀な旅人だけで、未だに噂の域を越えていない。
 砂海にはありえない、泉と緑と花々が幻のように現れるのだという。
 どちらにしても、砂海は予想も付かない場所だ。無知な人間が船で漕ぎ出せばたちまち飲み込まれ死に絶える。だから、砂海を渡る人間……旅人や商人は砂海に慣れた船乗りを雇うのが普通だ。
 
 
 


「主よ」
「何だ、風使い」
 追手を振り切った二人は夜になるまで街の片隅に隠れていた。
 青年に連れて来られた少年に現在の詳細な場所はわからないが、小さな家が連なり重なったこの街でも貧しい地域に属するところだった。
 日中にも関わらず、影になる場所で仕事をしている人々がいる。
 もちろん、夜が活動の中心とはいえ室内では人は起きて日々の暮らしをしているのだけれど。
「その衣装は主の趣味か?」
 少年が着ている服はどこからどう見ても女性の衣装だ。
 砂塵が入り込まないように裾が詰まった朱色のズボンに、同色の巻き付けたスカート。スカートには細かな刺繍がされ金色の縁取りが付いている。被っている布で見えないが多分上衣も同じようなものだろう。直射日光から肌を守るため、袖の詰まった長袖で首元も立襟がこの地域では普通だ。身につけている上質な衣服から一見裕福な家の娘に見える。
「……そんな事ある訳ないだろ?」
 少年は、嫌そうに眉を寄せる。
 誰が好きこのんで女性の衣装を着るんだと目が訴えていた。
「では、着替えるか?」
「今は、いい。……これはこれで必用だから」
 追われている身からすれば、男性の衣装に着替えた方が人混みに紛れ込めると思うのだが、少年には事情があるようだった。
 少年が少女に扮している、という事実は何か複雑な事情があるのだろう。
 出逢ったばかりの二人は、まだ互いの事をほとんど知らなかった。
「主よ、夜になるまで休んだ方がいい。それに、水を飲まないと倒れる」
 先ほどまで直射日光の降り注ぐ中を走っていた少年は、絶対的に水分不足だ。ここでそのような事をするのは自殺行為に違いなく、回復するには水分と休養が必用だった。
 幸い、小さいが公共の泉の側にいるから水は容易に手に入る上、今は周りに誰もいない。
「そうだな」
 自覚があるのか、少年は億劫そうに立ち上がると怠い身体で泉に近付く。そして、水を飲むために被っていた白い布を頭から落とした。
 途端、漆黒の長い髪がこぼれる。
 日に焼けた事がないだろう白い肌は、東の国から持ち込まれる高価な白磁の壷のようだ。
 綺麗としか言いようがない容姿で一番印象的な夜空の星のような蒼い瞳が煌めき、赤い果実のような唇が色を添える。
 誰が見ても、極上の美少女にしか見えなかった。否、美姫だ。
 追手から、巫女様と呼ばれていた事実、風使いと契約する度胸と知識。それらから、ただのお嬢さんではないと推測できてはいても、王族だとは普通思わないだろう。
 そう、少年は、王族か王族に準じる身分だ。
 あまりに世俗からかけ離れた容姿は、それだけで身分が知れる。
 そもそも、どの国の王族も美形ばかりだ。王族の婚姻は国の国交や利益のために結ばれる事がほとんどだが、異国から迎え入れる花嫁は美姫ばかりである。互いの国々で婚姻を結ぶため、血は薄く成り過ぎる事もない。白い肌や整った容姿や恵まれた肢体や優秀な頭脳という特性は、血が薄まることなく子孫に引き継がれる。
 そして、一般の民からは想像もできない美貌の主ばかりが生まれるのだ。
 少年は、両手を泉に沈め水をすくい飲み干す。身体に染み渡らせるように何度か繰り返し満足行くまで水分を取り入れる。
 その勢いで、少年は顔を洗う。髪を掻き上げて頭を振ると黒髪が背中に流れ雫が飛び散る。弾けた水滴に片方だけになった耳飾りがきらりと反射した。
「お前はいいのか?」
 少年は青年を振り返って首を傾げた。
「ああ」
 一瞬少年に見惚れていた青年は、頷くと自分も泉に近づき水を飲む。青年も少年同様に白い布を頭から下げているから癖のある黒髪や精悍な顔付きがよくわかる。
 風使いの証である紫暗の瞳と少年の蒼い瞳が出逢うと、少年はくすりと笑いを漏らした。
「綺麗な紫色だな」
 瞳を和らげて見つめる少年に、青年は不思議に思う。
 紫の瞳は、畏怖される。少年のように綺麗だなんて言う人間は滅多にいない。
「主は変わっているな。怖くないのか?」
「まさか。滅多にない綺麗な色だと思うぞ?……それに、一度見た事があるしな」
 少しだけ懐かしさを滲ませて少年は笑みを浮かべた。
 青年は、内心驚きを隠せない。
 紫の瞳を持つ人間に出逢う確率は極端に低い。砂海に愛される羅針盤たる者は滅多に生まれないからこそ、稀少価値があるのだ。同時に畏怖の対象となるのは、契約を交わすことが少ないからだ。風使いが契約する条件に身分は関係がない。風使いが気に入るか入らないか、それだけだ。風使いに恨まれると砂海で生きて帰れないという。羅針盤たる彼が船の航路を狂わせるというのだ。
 その真偽も、噂の域を越えない。
「見たことがある?本当に?」
「小さな頃に一度な」
 青年の問いに少年はさらりと答えた。
 
 
 
 
 
 夜の帳が降りると、街には明かりが灯る。昼間は白いだけの壁に囲まれた街が一変して鮮やかな色を灯すのだ。上質な蝋燭が使われた角燈が至るところに置かれ道と闇を照らす。魚油や豆油を材料とする蝋は悪臭が付き物だが、ここで使われる蝋は木蝋である。木蝋の原料となる黄紅樹という高木はこの国で多く栽培されていて、その実から上質な蝋が取れるのだ。この木蝋は風に強く消えにくい上、匂いもわずかだから各国へ船で送られる。花の良い匂いを付ける技術もあるから、そういったものを香蝋燭といい高値で取引される。また、一般的なものを白蝋燭、船旅で使う朱色のものを朱蝋燭、お祝い事で使うものは金蝋燭というのが決まりだ。
 それから、木蝋の種子や根皮には止血や解毒の効用があるため、万薬木とも呼ばれて広く薬として使われている。
 
 そんな国の財源である角燈の下、軒に露店が出て人々が道に溢れている。様々な物が売られ買われている様子は昼間とは全く異なり、活気がある。
 穀物、野菜に果物、香辛料や大鳥の肉や羽禽の卵等の食料品や染めた布や細工物、異国からの壷や飾り石とあらゆる物が売られている。
 契約をした少年と青年は人混みに紛れ歩いていた。
 砂海を越えて旅をするには、必用最低限の物資を買わなくてはならない。
「主よ、絶対に離れてはいけない。わかるな?」
「ああ」
 ここではぐれたら、取り返しが付かない。
 追っ手がひょっとしたら、この人混みを探しているかもしれない。夜に紛れているつもりでも、少年は目立つのだ。
「そして、絶対に顔を見られてはいけない」
 青年は少年が被っている白い布をきっちりと乱れないように直した。
 もし、少年の顔を見られたら誰もがその身分に気付くだろう。一目見ればわかってしまうというのは、逃げる場合不便だ。
「わかってる」
 少年は頷いた。少年だとて顔を見られてはいけない事くらいわかっているのだ。
 青年は、少年に堅く注意し道を歩きながら、露天商と交渉して食料品を買い込み厚い布袋に入れる。
 保存できる木の実や干した果物、焼くと繊維が柔らかくなり食料になる芋、水といった食料品に布や蝋燭等と様々な品を選んだ。
「あ、あれ」
 青年の後ろに付いて歩きながら、少年は一つの露店に目を留めて青年の服を引っ張った。指差した先にあるものは、大きな果物らしきものだ。
「何だ?」
 不思議そうに問いかける少年に、青年は苦笑した。
 まるで、初めて市場に来た子供のようだ。
 そして、多分少年がこういう場所に足を踏み入れた事がないのだろうと青年は気付く。
「それはこの国よりずっと南にある国の果物だ。外見は黄色いが、中身は真っ赤で大きな種が真ん中に入っている。皮も厚いし食べられる部分は見た目より少ないが、甘くて美味しい。水分も多いから、重宝する」
「へえ」
 両手で抱える程の楕円形をした果物は、虹鳥の羽根のような艶のある黄色だ。
 しげしげと少年は興味深く見つめる。
「それを切ってくれ」
 青年は店の男に銅華を渡して果物を示す。願えば、露店ではその場で食べることもできるし、他にも客の要望に応えるのが常だ。
 この国では水辺に咲く大輪の美しい華の形を模し中央に穴の開いた銅、銀、金の硬貨が流通している。市場で使う硬貨は精々銅華が主だ。銅華も大中小と3種類あり、小が5つで中1つ、中が2つで大1つの価値に相当する。この法則は銀、金も同じだ。
 ちなみに、少年が旅に使って欲しいと差し出したのは場違いな金華だった。青年は、それを一瞬見つめ、しばらく持っていろと言い置いた。
 露天の男は太い刃物で果物を4等分に切り中心の種を取り除き食べやすい大きさにする。そして、大きな葉に乗せ青年に渡した。
 青年は少年に視線を向けて小さな横道を示して歩く。人がわざわざ来ない場所まで来て初めて青年は少年に、ほらと切った果物を差し出す。
 少年は頷いて一欠片手にする。食べるためには頭から布を落とさなければならないから、通りに背中を向けて少年は口を付けた。
 物珍しそうに少年は赤い果実を食べる。
「……甘い」
 にこりと頬を緩めて笑う少年から嬉しさがにじみ出ている。それに青年は小さく笑みを乗せて、好きなだけ食べればいいと勧めた。
 瓜や果物は水分もそうだが、糖分も取れるからこういった場所では重宝するのだ。露天でも小振りなものから両手に余る大きさまで品数多く売られているのもそのためだ。
 少年が美味しそうに食べる姿を見守りながら青年はこれからの予定を切り出した。
「荷物は揃った。これから船着き場へ行くが、主はいいか?必用なものはないか?」
「ああ、ない」
 少年はこくりと頷く。
「では、見つからない内に行こう。船も探さなければならないしな」
 船着き場にはこの街を訪れている異国の船や、これから異国へ積み荷を届ける船などがある。そのどれかに便乗させてもらい、港事に乗り換え目的地まで行くのが普通の旅人の姿だ。
 ただ、風使いは歓迎される場合もあれば、嫌がられる場合もある。
 目的地に早く安全に着く祝福された航海を得られるか、船が難破する不幸を被るのか船乗りはわからないからだ。もし、機嫌を損ねでもしたら、どうなるのだろうと恐怖が先に立つ。普通の臆病な人間はそう考える。
 それ故、風使いと契約した人間は船と船乗りを借りる場合が多くなる、とは滅多にいないが契約した主だけが知る事実だ。
 船着き場近辺には、それを生業にする商人や仲介人が存在する。自分で交渉しなくてもお金を払えば、要望を叶えてくれるのだ。その代わり、手間賃は少々高い。
 どこの国も港は、栄える。国交の場所でもある砂海の玄関口は賑わうのが常だ。





 



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