「大恋愛のススメ」3





 深夜の高級住宅街は静寂に満ちている。
 夜でも煩い若者や酔っぱらいなど存在しない場所。喧噪とは無縁だ。
 だから、僅かの物音でさえ響く。
 コツン、という人口物の音は風や木々の自然な音の中浮くものだ。
 そんな深夜、白い鳥が舞い降りようとも僅かな囀りを奏でようとも、全く気づく者はいなかった。

 「こんばんは、名探偵」
 「………またお前か」

 名探偵こと工藤新一は、軽くため息を付く。
 毎度毎度夜中に探偵である工藤邸を訪れる犯罪者に呆れる思いだ。
 KIDは優雅に一礼してベランダから室内に入る。開けられた窓から冷たい夜風が入り込みカーテンを揺らす。その冷たい夜の空気を纏ったKIDは後ろ手に窓を閉めた。

 「今宵は月が綺麗ですよ?名探偵」

 KIDは新一の歓迎していない態度などものともせず、口元に笑みを浮かべる。

 「………で?」
 「偶には月見してみるのも悪くないですか?」
 「月見ねえ………」

 KIDの背後には丸い月が銀色の光を放っているのが見える。普段は意識なんてする事がない月は黒色と濃紺を9対1で混ぜたような暗闇にぼんやりと発光しているように浮かんでいる。
 興味ないなと、新一は視線をKIDから外して室内へ移し窓際から移動する。その後をKIDは当然のように付いて行く。
 新一の嫌そうな対応はいつもの事なのでKIDは問題にしていなかった。これくらいでへこたれていたら、新一と親しく話など全くできないだろう。怪盗の自分が探偵の新一と世間話のような他愛ない話をする機会は、こうした工藤邸への突撃訪問でしかありえなかった。
 それに新一はKIDを追い返したりしない。
 どんなに呆れた顔をしても口では酷い言葉を言っても、KIDの存在を拒んだ事はなかった。人間として存在を認められていると、その度にKIDは嬉しくなる。

 「………わざわざ月見しなくても、お前が月みたいなもんだろ」

 新一は振り返って小さく微笑む。
 月下の奇術師の異名を取る男は、夜中に現れるせいか存在が稀薄なせいかまるで月の使者のようだ。存在感は怜悧で触れればきっと冷たいのではないかと思わせる。もちろん人間であると知っているから、そんなものは幻想だとわかっているが、全身を覆う純白の衣装がよりそう見せるのだろう。

 「私が?」
 「ああ。そんなもんだろ」

 新一自身は特別なことなど言った気は更々なかったが、KIDにしてみればとても嬉しい言葉だった。
 月が自分だと彼は思っている。
 自分がいれば月見代わりになると言う。
 少なくとも彼の中で月である自分に悪感情はなく、どちらかというとそれと正反対の感情があるということに繋がる。

 「ではこれからも名探偵に月見代わりに来させて頂きます」
 「別に来いとは行ってないんだけどな、………まあ、勝手にしろ」

 どうせ言っても聞かないしと新一はこぼした。

 「はい」

 KIDはにこりと笑う。
 来訪を認められたのだ。今までは暗黙の了解のようなもので押し掛けていたのだが、これからは一応の了解をもってKIDは訪れることができる。客扱いはされなくとも招かざる客ではなくなる。KIDは浮き足立つ内心の感情を抑えながら紳士らしくポーカーフェイスを保つ。

 「………読書されていたのですか?」

 ベッドの枕元に転がっている本を見つけて、読書の邪魔をしてしまったことを知る。読書を邪魔されることを最も嫌う新一であるから、そんな時は大抵は不機嫌であるのだが、少なくとも先ほどまでの対応は普通であったし、いつもよりいい程だ。つまり、彼の大好きな推理小説ではないのか、はたまたは期待外れであったのかと思考を巡らせた。

 「それか」

 新一は本に視線を向けて、少しばかり疲れたようにため息を付いた。らしくない態度にKIDは不思議そうに首を傾げた。

 「………好きで読んでいる訳じゃない。蘭に、幼なじみに押しつけられた………」
 「………『大恋愛のススメ』?」

 よくよく見た本のタイトルは、KIDが知るものだった。

 「それで、読まれたのですか?」
 「仕方なくな」

 その疲れたような表情から彼がこれを読むのに苦痛を強いられた事を物語っていた。

 「名探偵には思考があわなかったでしょう?」
 「………お前、読んだのか?」

 その断定的な言葉からKIDがこの本を読んだことがわかった。
 新一も驚いた。
 まさか、KIDがこんな本を読んでいるなんて思わなかった。
 確かにKIDの衣装を脱げば普通の人間なのだから読んでもおかしくはないが、なんとなくKIDの趣味ではないような気がしたのだ。

 「………私も知人に勧められましてね」

 KIDは苦笑する。
 新一が瞳を見開いてKIDを見ているのだ。

 「そうか、お前もか………」
 「ええ」

 なんとなく沈黙が下りた。
 被害者同士の憂いというか、なんというか微妙な空気がその場に立ちこめた。

 「それで、名探偵は読んでどう思いましたか?」
 「俺か?………わかんねえなあ」
 「わかりませんか?」
 「ああ」

 新一はこくりと素直に頷く。
 恋愛事には興味の欠片もなさそうな、人からの好意に感心するほど鈍感な新一である。探偵をしていれば、人の愛憎を目にする事など日常茶飯事であろう。殺人を犯す理由は数あれど金と怨恨と愛憎が大半を占めるのだから。そういった場面では人の感情の機微に鋭いくせに自分に関してだけ無防備にも程があるくらい鈍感だった。
 冷静な判断を保つため、ある意味自分には必要ないと思っているのかもしれない。わざと排除しているのか無意識に遠ざかっているのか、それはKIDには判断が付かない。

 「どこか印象に残った部分や納得行く文章はありませんでしたか?」
 「……そうだな、運命の相手を提唱しているのに赤い糸を否定している事とか?それってどっちもどっちじゃねえ?赤い糸で生まれた時から決まっているなんてある訳ない。だから否定するのは頷ける。恋愛のエッセイにしてはロマンチックだけじゃない思考はいいだろう。でも、結局運命の相手を見つけるって眉唾じゃないかって思うな。世界で5人くらいってのは笑ったけどさ、かなりアバウトじゃねえ?」

 新一は面白そうにKIDを見上げた。

 「そうですね、なかなかアバウトというか適当に言っているのではないかと思う部分もありますね。それでも他人の主張ですから、何でもありでしょう」
 「それはそうだ」
 「そもそも『運命の相手』という定義が一番重要で問題だと思います。大恋愛をするためには運命の相手を捜せという意見は興味深いですね」
 「そうやって煽って、意地でも恋愛をさせようとしているな。筆者は恋愛の回し者かっ」
 「回し者?そうかもしれませんね」
 「回し者じゃなくて、何だよ。そこまで言うなら恋愛がちったあ社会に貢献するのか?景気に役立つのか?……記念日に贈り物を渡しあい、どこか出かけて美味しいもの食べて散財すれば消費には一役買うか?」
 「……恋愛は消費に役立ち景気回復に繋がるですか、いい理論かもしれませんね。とても、名探偵らしい」

 恋愛さえ理路整然と思考してみせる新一がKIDには愛おしいと思う。

 「いい理論だろ?……でもな、運命の相手とかは所詮思いこみだと思うぞ。っていうか、恋自体が思いこみと勘違いだろ。どんな恋も最初はひょっとして恋ではないだろうかと疑う所からして思いこみだろう。相手に対して好きだと思う気持ちさえ事実なのか勘違いなのかわかったものじゃない」
 「……それでも、思い込みでも勘違いでも恋してしまえばお終いでしょう。恋とはそういったものだと思いますよ。してしまうと抗うことができない厄介な代物だ」
 「随分実感がこもってるな」

 KIDの真摯な言葉に新一は感心するが、KIDは意味深な笑みを浮かべだけだ。本当に実感が伴っているのかいないのか、それは新一にはわからない。

 「なあ、この本かなり売れてるんだろ?流行ってるんだろ?そのうちこいつ、メディアに持ち上げられて恋愛の伝道師とか言い出したら、どうする?」
 「伝道師、伝道師ですか……?」
 「そう、恋愛の伝道師!本だけじゃなくて、恋に効く、運命の相手に出会えるお守りと出したりして!」

 キッドは新一の言いように、くすくすと笑いを漏らす。

 「笑うなよ、おかしいか?」
 「十分におかしいですよ、名探偵」
 「何で」

 憮然と新一は問い返した。

 「名探偵が真面目にそんな事を考えたのかと思うと、笑えますよ」

 ちゃんと隅々まで読まれて、いろいろ考えられたんですねとKIDは口元を押さえた。
 新一はむっとして唇を尖らした。

 「どんな本だって、読めば考えるだろ?いろんな可能性とかさ。お前はどうなんだよ?」
 「失礼」

 KIDは手を挙げて軽く謝罪を示し、完璧に笑いを納める。

 「私も考えますよ。どんな本を読んでも自分の場合に照らし合わせたり、意見というか考察を知らない間にしています。あらゆる可能性を導き出してそれにあわせた対応策を練るのは、職業病というものでしょうが……何分失敗は許されませんからね、命取りです」
 「……そうだろうな。で、この本を読んで何か考えたのか?共感でもしたか?」

 若干自嘲気味なKIDに新一は話の続きを促した。

 「……そうですね、『恋愛体質』も面白かったです」

 その部分を読みながらKIDは名探偵を思い出したのだから。
 本人には恋愛に全く興味がないのに、実は思い切り恋愛体質だとしみじと納得したのだ。周りが放っておかない人物。そう、本人が好むと好まざると人を惹き寄せて恋に落とす。

 「恋愛体質ね、お前には情熱も持続力もありそうだな。宝石を盗む姿は巡り会えない女神に恋しているみたいだぞ?」

 茶目っ気たっぷりに新一は片目を閉じた。その気障な言葉は新一らしくて新一らしくないが、KIDに与えた影響力は大きかった。
 巡り会えない女神、正しくその通りなのだ。禍を冠する女神がKIDが探す宝石の名前。知る由もない新一がそんな言葉を紡ぐのにKIDは内心の動揺を押さえる。新一はただ単に本に書かれた文章を気障に表現したに過ぎないのだから。

 「女神のような宝石は私の恋人ですから、そう見えても仕方ありませんね。なかなか手に入り難い、誰もが美しいと賞賛する宝石に焦がれているのです。この身が焼けるように恋い焦がれて狂いそうです。心の奥底から切望します。純度が高く、硬度はダイヤモンドよりも上の、地球よりずっとずっと綺麗な宝石を」

 焦がれているのだ、名探偵を。
 歌うように切々と語るKIDに新一は目を見張る。そこにはKIDの想いが透けて見えた。

 「……まるで本当に恋してるみたいだな」
 「ええ、至上の宝石に」

 KIDは至福の笑みを浮かべた。

 「だから盗むのか?」

 怪盗であるKID。盗むのが仕事だ。

 「さあ、そうとも言えますが、そうでないとも言えますね。何分宝石とはデリケートなものですから。宝石箱の中で大切に大切に守られているのですよ」
 「へえ。でも、お前は盗むんだろう?今まで予告した宝石は盗んで来たじゃないか。神出鬼没で捕獲不可能の世界的泥棒なんだろ?国際犯罪者は伊達じゃないだろう?」

 どこか面白がるような新一の声音にKIDは口元に笑みを浮かべた。
 自分が何を煽っているかまるでわかっていない、鈍感で無自覚な至上の宝石。

 「もちろんです。必ず、怪盗KIDの名に賭けて」

 不敵にマントを翻しながら、誓いを立てるように胸に手を当てる。その仕草は殊更紳士然としていて、全国にいる彼のファンが見たら黄色い悲鳴を上げるだろう洗練された動作だった。

 「俺が言うのも変だけど、がんばってみれば」

 新一はそう言って小さく微笑んだ。
 探偵である自分が泥棒を応援するような台詞を口にするのは間違っていると新一もわかっているが、KIDとの会話は不愉快なものではなく小気味いいため伝えたくなり素直に言葉にした。

 「ありがとうございます」

 KIDは嬉しそうに珍しく破顔した。
 
 
 『実は、貴方の隣にいる人物が運命の相手かもしれない。
 交差点で横切って通り過ぎた人物かもしれない。気付かないだけで、身近に存在するかもしれない。
 それとも、どこか遠い空の下で生きているかもしれない。まだ、生まれていないかもしれない。

 さあ、しっかりと目を開いて見て欲しい。
 見つけたら、掴んで引き留めて欲しい。それが「大恋愛」への第一歩だ。』

 
 
 知らずに許可を出した名探偵。
 だから、KIDは諦めない。
 遠慮はなしで、実行あるのみ。
 

 KIDは素知らぬ顔でこの恋を必ず実らせてみせると心中誓った。
 
 

                                             END



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