「紅薔薇と楽園」1



 「よう、阿笠博士」
 「おお、新一。また来ておったぞ」
 「サンキュー。これ、待ってたんだよ………」
 コナンは博士から嬉しそうに本を受け取った。


 コナンは週に一度は阿笠邸を訪れる。
 それは組織の調査のためであったり、工藤邸に届く郵便物が阿笠邸に転送されてくるためその確認だったりと様々な理由があった。都合があわなければ学校の帰り道に寄ることもあるし、週末に泊まることもあった。
 組織についての進展はあまりない。

 これ、といった情報や事件でもない限り有力なものは掴めなかった。
 それでもネットで最近起きた事件ファイルを確認したり、裏の情報サイトを探ったり、警察関係(実は警視庁)のファイルに忍び込んだり、と地道に活動している。哀は組織が絡んでいそうな製薬会社や政治家、企業などを調べるという方法で、二人の得意分野からその作業に当たっている。

 現在は最近仕入れた情報を徹底的に調べている最中である。
 組織に繋がっているかもしれない。いないかもしれない。
 不安と期待とを持ちながら、捜査している………。
 それは底のない沼に落ちた自分たちを支える希望の光であるかもしれなかった。

 郵便物は、1週間もあると大量に溜まる。
 工藤優作宛のファンレター、アメリカに直接送る者いるだろうが大概は出版社宛になる。それなのに、工藤邸の住所を調べて舞い込む手紙は後を絶たない。さすがに世界規模で著名なミステリ作家である。

 有希子宛のファンレターも今なお、なくならないのは不思議である。
 随分昔に女優業を引退したというのに、熱烈なファンとは恐ろしい。

 もっとも、彼女は今でも時々工藤優作の妻として公の場に姿を現すから、忘れられないのかもしれなかった。17歳の息子がいるとは思えないほどの若さと美貌。息子である自分にはよくわからないが、世界中の男性を虜にした魅力は現在も健在らしい。その母に似ている、と言われることが何より新一の頭を痛めていた………。

 それは幼少の頃に、思い出したくもない苦い思い出がある。
 可愛いと言われ、それはそれはとんでもない有希子の気まぐれに付き合わされた。
 それでも成長する段階で、そんなこともなくなったが、別の意味で頭の痛いことがあった。

 最近逢うこともない二人宛の様々な物は時々まとめてアメリカに送ることにしている。
 いつまでも、阿笠邸に置いて置くわけにもいかない。まして、現在工藤邸には出入りできなかった。それはあらゆる危険性を秘めていた。よほどのことがない限り、近付かないようにしている。どうしても必要な書類、本、調べ事がある時のみ、ひっそりと、極力目立たぬように入り込んでいる。

 そして、自分宛の手紙。
 工藤新一宛のものは現在姿を隠し公からは離れているというのに、ファンレターらい物も届く。それ以外でも事件の依頼や、学校からの手紙、新一宛で要請してある書類などこれまた様々な物が届くため、いちいちチャックする。

 阿笠邸で行わなければならない様々なことの中で、コナンが楽しみにしていることが一つあった。
 それは本。

 小学生低学年が本屋で購入するにしては、怪しすぎる書籍をネットの通販で購入し、阿笠邸宛にしておくのだ。ミステリの新刊や必要書類、洋書などここで受け取り、毛利探偵事務所にもって行ける文庫などは持ち帰るがそれ以外のものはここで読書に励む。
 新一が読むミステリは国内の物であっても様々であるし、洋書など小学生が購入していたら怪しいことこの上ない。





 コナンは嬉しそうにミステリの新刊を手に取る。
 海外のミステリは日本語訳になるまで時間がかかるため、洋書で輸入しても読みたいものだったのだ。父親が時々自分の著書と向こうのミステリなど送ってくれるが、それでも時差があるし、全て同じ趣味でもない。
 ペラペラとめくって、その紙の感触を楽しむ。

 「はい、どうぞ江戸川くん」

 哀が珈琲を入れてくる。
 目の前に渡されたマグカップを受け取って、サンキューと礼を言う。
 コナンの好みを熟知している哀は珈琲を濃いめに入れるし、何も入れない。
 まるでお気に入りの玩具を手に入れた子供のような姿に哀は口角を上げる。
 見かけが小学生であるためか、瞳をきらきらさせて本を読む姿は大変可愛らしい。ただし、手にしているのが絵本や漫画ではなく、洋書、それも難解なミステリでなければの話であるが………。

 コナンは自分専用のマグカップから珈琲を飲んで満足そうに頷いた。
 どうやら、濃い味がお気に召したらしい。
 毛利探偵事務所では当然子供扱いされミルクやジュース、珈琲でもミルクも砂糖も入ったまるで珈琲牛乳のような代物しか飲めないためだ。

 「貴方、本当に珈琲中毒よね。それに活字中毒まであるし………」

 哀の少々呆れた、面白がる声にコナンは眉を寄せた。

 「しょうがねえだろ。中身は高校生なんだから………」
 「そうね。でも、普通の高校生はそこまで読書馬鹿でミステリマニアかしら?」
 「俺くらいの読書家なんて腐るほどいるし、ミステリマニアはもっといるぞ。あれこそ奧深い………。世界中にミステリファンってのはいるからな。コナン・ドイルだけとっても熱狂的ファンがいるし、アガサ・クリスティだって、そうだ。研究書やファンサイトなんて数限りなくあるし………」
 「はいはい、わかったわ」

 哀は延々続きそうなミステリフリークの言葉を遮った。
 聞いていられないとは、このことである。哀はコナンに甘いと自覚があるが、ミステリの話に付き合わされるのだけはご免被りたかった。それでも、聞いて上げている方であると我ながらに思う、哀は少々健気であった。
 哀のまた始まったか、という態度にコナンはふてくされる。

 「どうせな………。放っておいてくれ。これが今のところ唯一の楽しみなんだから!」

 それこそ、年相応の唇を突き出した仕草に哀は笑いを堪えた。
 可愛いわね、江戸川君と言いたいが、言ったら絶対に機嫌を損ねるに違いない。
 それでも、哀は一向に気にしないが、今後のこともあるので我慢した。
 そして、一言付け加えた。

 「帰りまでには、いつもの健康診断していってね。読書に勤しむのもいいけれど、先に済ませた方がいいんじゃないかしら?貴方読書に入ると、時間忘れてしまうでしょう?」

 にっこりと微笑む。

 「………わかった」

 コナンは渋々頷いた。





 夕日が長い影を作る。
 建物に当たる黄昏色は、どこか哀愁を感じさせるのはなぜだろう?
 この微妙な赤い色がもの悲しくさせる原因であるのか?
 眼に差し込む光は思うより眩しくて目を細める。
 どの人も行き急ぐ、帰途の時間だ。
 誰のことも気にしない、そんなぽっかりと空いた時間には公園の付近に誰もいなくなる。

 コナンの手には新刊のミステリの文庫本があった。
 この文庫本なら蘭の前で読んでいてもどうにか言い逃れができそうだなと思う。
 今日のわずかな時間だけでは折角の本が読める訳がなかったから、またすぐにでも博士の家に行かなければ、と内心にんまりする。それが楽しみなんだから、しょうがないと我ながらに思う。哀にどんなに馬鹿にされようとも、止められないのだ。

 身体も異常がないと診断されたし、これでいいだろうと思ったら、「あまり調子に乗らないでちょうだい」とこぼされた。やはり、新刊を手に入れた自分が夜更かし、更には徹夜をすることがばれているためだろうか?
 絶対的に、哀には適わないコナンである。
 それは彼女に勝とうという気そのものが無駄であろう事実である。
 

 コナンは左手に通り過ぎた公園を何気なく見つめ、さて急いで帰ろうかと思った時、1台の車が急停車し横付すると、黒づくめの男達が降り立った。

 そして、コナンを取り囲むと抗う間もなく口を塞がれて何か薬品を嗅がされる。

 クロロホルムか?
 わずかに残る意識の隅でそう思う。
 黒づくめの男達………。
 組織の連中か?

 もし、そうなら拉致などせず、いきなり殺すはずだけれど………。
 それに気配があった。あいつらだったら、気配などなく、痕跡さえもないはずだ………。


 コナンは意識を失った。



 車はすぐにどこかに走り去り、残された道路にはコナンの持っていた文庫本だけが落ちていた。





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