〜第1話〜 工藤優作、彼が現在のような世界屈指の推理小説になる少し前のこと。 彼の書いた『ナイトバロン』シリーズが日本だけでなく世界中に発売され、その名を広め作家として順風満帆の頃のことである。 彼の一日は珈琲を飲み朝食を取りながら新聞を読むことから始まる。 「おはよう」 「おはよう、優作」 妻の有希子が笑顔で朝の挨拶をしてくると優作は頬にキスを贈る。 それが夫婦の毎朝の日課である。 そして、もう一つ。 「おはよう、パパ」 「おはよう、新一」 一人息子が愛らしい顔で元気に朝の挨拶をすると優作は彼を抱き上げ、柔らかな頬にキスを贈る。くすぐったそうに目を閉じてそれを受けると新一も「パパにもお返し」とばかりにちゅんとキスを返してくれる。それに優作は相好を崩す。 これが彼の欠かさない日課である。 誰になんと言われようと、彼の一日はこうして始まるのだ。 優作の職業は作家であるから、出かける用事のない限りは書斎で執筆に勤しむ。 部屋にはたくさんの蔵書や資料が溢れている。 大きな机の上にも資料を広げてかりかりと原稿を埋めていく。(数年後にはワープロ、そのまた数年後にはパソコンに切り替わるが、まだ自筆で原稿用紙を書いていた) そんな時間を過ごしどれほど経っただうか? 「パパ………」 可愛い声がして、ひょこっりと新一が顔を覗かせた。その顔は入ってもいい?と無言で聞いていた。新一は幼いながらも聡明で、決して無断で書斎には入ってこない。父親が仕事をしているとちゃんと知っているのだ。 「入っておいで」 優作は手を広げて向かい入れた。 「うん」 ぽてぽてと書斎に入ると優作まで真っ直ぐに歩いてきて、持ってきた絵本を差し出す。 「読んで」 にっこりと天使の笑顔でおねだりする。 それを拒否するなど優作にはできなかった。 瞳をきらきらさせて優作を見上げる様はまるで背中に真っ白い羽がある生き物のようだ。 優作は作家ながらその形容に、なんて貧困な想像力だろうと思う。この生き物を称えるにはどれだけ言葉を駆使しても追い付かない。それでも自分の手の中にあるのだから、満足であるが………。 明後日が締め切りの原稿を放って、こちらが断然優先とばかりにソファに座り新一を抱き上げて膝に乗せた。 新一は優作に本を読んでもらう事が大好きである。 優作の穏やかで優しい声音でたくさんのお話や見たことも聞いたこともない知識を語ってもらう、それだけで幸せだった。 優作はさらさらの漆黒の髪を撫でて絵本を広げて読み聞かせる。 新一は優作の膝の上で、うんうんとそれに聞き入る。 絵本を二冊程読むと新一から力が抜けて優作のもたれかかった。 どうやら眠ってしまったようだ。 (昼寝の時間かな?) 優作はそっと抱き上げて書斎から出ると新一の部屋に向かった。 新一はまだ3歳であるがちゃんと専用の部屋があった。子供部屋というには大変広い、何でもそろった部屋が………。 優作はその大きなベットに新一寝かせて、布団をかけてやる。 少し長めの髪が瞳にかかるため、さらりとかき上げて露になった白い額に口付けた。 「おやすみ」 ぱたんと扉を閉める。 (さて、仕事をしようか………) 大切な新一と過ごすためには原稿を仕上げないと、有希子に怒られる。 お仕事しないと駄目よ、といって新一を独占して優作に近づけさせないようにする妻に頭が上がらない夫だった。 が、決して編集者には申し訳ないとは思わない所が妻と息子しか大切でない、目に入っていない工藤優作であった。 〜第2話〜 今日も今日とて新一は優作の書斎にいた。 けれど、本を読んでもらってる訳ではない。 優作は執筆に勤しみ、その側で新一は一人本を読んでいた。 3歳児と侮る事なかれ。 彼はすでにひらがなを読むことができた。 通常3歳児くらいは集中力がほとんどなく、一つのことが続かない。 けれど、新一は本を読むことが大好きである。それを与えれていえば、ものすごい集中力でもって読み続ける。 だから、煩くすることもなく執筆する優作の側にいることができるのだ。 もっとも、優作がどんなことがあっても新一を邪魔にすることなどありえなかったが………。 「パパ」 「何だい、新一?」 可愛らしい声で呼ばれて優作は原稿用紙から顔を上げて新一に振り向いた。 「あのね、パパとホームズとどっちがえらいの?」 「………はい?」 「ホームズはどんなじけんもなぞもとくたんていだよね。でも、パパもめぐれけいぶにたのまれてたんていをしてるでしょう。すごいよね〜。だから、どっちがすごいのかなっておもったの」 新一はにこにこしながら優作に聞いた。 (どっちって言われても、ホームズは空想上の人物だと言ってわかるだろうか?) 優作は悩んだ。 新一に読み聞かせた本の中にはホームズシリーズも当然あった。それは優作の趣味と言われれば否定できないが、新一も大好きになり、お話聞かせてねとお願いされることもしばしばだ。 「ホームズみたいになりたいな」と言う言葉も聞いたこともある。 時々優作は目暮警部に依頼されて事件現場に行くことがあるが、新一も伴うこともある。現場を見ることもいい経験になるかと思うことと、新一とただ一緒に居たいがためでもある。そんな折り、謎を解く姿を目の当たりにして「パパってすごい」と瞳をきらきらさせて言ってくれた日は嬉しくて顔が崩れそうになるのを堪えるのが大変であった。 だから、新一が素朴にホームズと優作を比べてしまってもしかたなかった。 「パパはホームズと対決したことはないから、どちらがすごいはわからないな」 優作は新一の瞳を見つめながら真剣に伝えた。 「そうなの?パパはホームズにあったことないの?」 新一は小首を傾げる。 「そうなんだよ。でも、将来新一がすごい探偵になれば、パパとだって対決できるよ?」 「ほんとうに?ぼくパパとたいけつできるの?」 「ああ。もちろんだよ」 優作は新一を抱き上げた。 「だから、名探偵におなり。パパは新一が大きくなるまで、いつまでも待っているから」 「うん。ぜったいだよ」 「ああ」 「やくそく……!!」 新一は小さな小指を優作に差し出した。それに優作も小指を絡めて「指切り」をする。 優作は指切りだけではなく約束の印に新一の頬にキスも贈る。 新一もいつものように優作の頬に桜色の唇をちゅんと落とした。 〜第3話〜 今日は夫婦同伴は当たり前、もちろん子供も一緒のパーティである。 優作は親しい人間に招待されたため、工藤家全員で出席していた。親しくない場合や義務のない場合、優作は出席しない。それゆえ妻の有希子と子供の新一を見る機会は珍しかった。 ところが、今日の新一の装いは女の子であった。 有希子の趣味で、可愛らしいドレスを着せることが稀にある。 折角私に似て可愛らしく美人なんだから楽しまないなんて勿体ないというのが彼女の意見であり、それに優作が反論することなどある訳がなかった。 その新一は……。 漆黒の髪は短いが、これが長ければさぞかし美しいだろうと思わせるその髪をピンで留めて、まとめた先に純白の薔薇が飾られている。 雪のような、しみ一つない太陽で焼いたことなどないだろう肌。 長い睫毛に彩られたサファイアのような至宝の瞳に、小さな鼻梁、艶めいた小さな唇。それが小さな顔に絶妙に配置されている。 瞳にあわせたスカイブルーのドレスは、シフォン素材を何枚も重ねたスカートがふんわりとしたシルエットを作り動く度に軽やかに揺れて、大層愛らしい。 「可愛いお嬢さんですね」 「そうですか?ありがとうございます」 当然ながら、新一は注目を浴びていた。 工藤優作と有希子だけで大層注目を浴びて誰もがお近づきになりたいと群がるというのに、そこに天使のような可愛らしい子供がいれば、より目立った。 それは一種、宗教画のような威力を持っていた。 母親の有希子も同じスカイブルーのドレスを着ていて………こちらは肢体にぴったりとそったラインの優美な大人のドレス………、親子で並べば「美貌の一対」「奇跡の光景」「神からこの世に賜れた天使」である。 優作と有希子は新一を伴い、いろいろな人と逢う。 そんな間に同じくらいの子連れの人物もいたようで、新一はその男の子と自然と話すようになった………。 「こんにちは。ぼくはしんごっていうんだ」 「こんにちは」 新一はにっこりと微笑む。 「えっと、なまえはなんていうの?」 「しんいち」 「しんいち?かわったなまえだね………」 真吾と名乗った少年は新一を女の子だと思っているため、女の子にしては変わった名前だと思ったようだ。名前が男の子みたいでも、まさかこんなに可愛らしい少女が男の子だとは思わなかった。 「ぼくは4さい。きみは?」 「3さいだよ」 「そっか、ぼくのほうがおにいさんだね。なにかのむ?」 テーブルの上には大人の飲み物もあるが子供向けのジュースやお茶などもたくさん置いてあった。 「ううん、いらない」 新一は首を振る。 こういう場所の飲み物はあまり好きではなかったのだ。どうせ飲むなら母親のいれる紅茶か父親のいれる珈琲が(ミルクと砂糖たくさん)いいと新一は常々思っていた。 「そう。えっとじゃあ、なにかたべる?おなかすいてない?」 「あんまりすいてない」 新一は小食である。 真吾は新一の可愛らしさに頬を染めながら自分に関心を持って欲しくて、親しくなりたくて、果敢に、一生懸命に話しかける。 そして、子供は時に正直過ぎた。 欲望に忠実、思ったことはすぐに口に出す。子供の典型的行動である。 「ぼく、きみのことがすきになったんだ………」 「すき………?」 突然告白する。 「あのね、だからけっこんして?」 「けっこん?」 真吾はいきなりプロポーズした。 新一は「それって何?」と首を傾げる。結婚の意味が理解できていないのだ。いくら聡明でも、3歳で結婚を正しく理解はできていない。 その光景と会話を聞いていた優作は、内心激しく嘆いていた。 (こんな子供の時代からプロポーズなんてされて………。お父さんはどうしたらいいんだ?) 父親とはいつか子供のその手を離さないといけない運命にある。 けれど、誰にもやりたくないと思う。 優作には息子なのだから普通可愛いお嫁さんをもらう、という観念が抜け落ちていた。 しかし、その間違った認識はあながち外れてはいなかった。 将来、彼は新一の相手と最初に逢った時(それを認めた時)、憮然とした複雑な表情で相対することになる。が、それはまた別の話である。 優作は「結婚」が理解できない新一のために説明する。 「結婚っていうのは、大好きな人とするんだよ?ずっと一緒にいようって約束するんだ」 優作は膝を折り新一に視線をあわせ、わかりやすく砕いて言う。 「だいすきなひととなの?」 「そうだよ」 優作は頷く。 新一は真剣に優作を見上げる。 「ずっといっしょなの?」 「うん、ずっと一緒にいる約束だ………」 新一は納得したような満足げな顔になりにっこりと微笑んだ。 「うんとね、ぼくはずっとパパといっしょにいたいんだ。だからパパとけっこんするの」 その台詞は父親が小さな娘に言われて大変、非常に嬉しい言葉ランキング1位であろう殺し文句であった。 まさか息子に言われることになろうとは優作も思いもしなかったに違いない。驚愕のため、間抜けにもぽかんと口を開けたままだ。 が、彼は普通とは違った。 嬉しくて、嬉しくてここがパーティ会場でなかったら踊りだしたくなる程であったのだ。 正しく、心の中は、 (新一〜〜〜!!!!!なんて可愛いんだ。絶対、嫁になんてやらないぞ。誰がどこの馬の骨にやれるか。ずっと父さんと一緒にいような………) と煩悩が渦巻いていた。 かなり、親馬鹿を通りこして危ない人である。 常々、「新一は私の天使なんだ………」と言い続けているような人間であるから、今更であるが………。 この日、優作のご機嫌は最高潮だった。 普段ならサインを求められてもやんわりと断るのだが、今日はどれだけ書いても指が止まることはない。 正しく、人生最良の日。(←有希子との結婚、新一誕生と等しい) これがあの、「工藤優作」であるなんて誰が思うだろう。 それを知っているのは不幸な編集者だけである。 |