「同情なんていらない。もう、迷惑なんてかけないって言っただろ?なんで、こんな事するんだよ?」 離せよ、と言いながら探偵は怪盗の胸を叩く。が、怪盗は探偵の抵抗など全く歯牙にもかけない。 「同情などでは、ありません。聞いて下さい、名探偵」 「返って残酷だよ、優しくするなよ」 「名探偵!」 落ち着かせるように、真摯な声音で怪盗は言い募る。 「自分の気持ちがわからないのです。貴方に好かれていると思いもしなかったのです。私はこれでも混乱している、とても……。貴方を好きかと聞かれれば嫌いであるはずがありません。貴方は私が認めた唯一の名探偵だ。その貴方と二度と逢うことができないなんて、耐えられないのです。もう、私の前に現れてくれないと思うと、この手を離すことが怖くてできない。……わかりますか?」 「……」 嫌悪されていない。 軽蔑もされない。 まして、手を離すことができないと言ってくれる。 また、逢いたいのだと望んでくれる。 これ以上の返事があるだろうか。自分の方が想像もしなかった。 蔑まれることしか、考えなかった。優しい怪盗だから無理して笑ってくれるかもとは少し思った。 でも、さ。 嬉しい。本当に、嬉しい。 それなのに、心は痛いんだな。 元から実らない恋いだった。彼に逢えなくなったら辛いだろうと思った。テレビで活躍くらい見守ろうと決めていた。それくらいなら、許されるだろうと。 ただ、自分は、それで満足できるのだろうか。 望むつもりなんてなかったから、期待なんてなかった。 けれど、逢うことが叶えば。自分は普通に相対することができるだろうか? 彼に不愉快な思いをさせないだろうか。 さすがに、自信がない。 「名探偵、どうか、お願いですから。これからも、暗号を解いていらして下さい」 彼の優しさは、残酷だ。 心が軋む音が聞こえる。 叶わぬ恋をしている相手との、二人だけの逢瀬。 きっと自分は心を隠せない。彼のようにポーカーフェイスは得意だけれど、恋情ばかりは感情を表に出さないという自信が欠片もない。 そして、また。自分は繰り返すのか? それは、きっと、耐えられない。 「できない……」 「なぜ?」 「俺は。そんなに出来た人間じゃないから」 探偵は苦しげに声を絞り出す。顔を苦渋という色に染めて。 「おまえより自分の方がきっと大事なんだ。おまえの意向に沿うようにしたい。こんな俺に対しても誠実でいてくれる。嬉しいし、ありがたいよ。でも、でもな。好きって気持ちは果てがない。おまえを不愉快な思いになんてさせたくない。させたら、自分が許せない。おまえと逢うのに、嫌な思いをさせない自信なんてないんだ」 ごめん、と探偵は謝った。そして、俯き唇を噛む。 「なぜ、不愉快だと嫌な思いをさせると決めつけるのですか?私はこれっぽちもそんなもの感じていませんし、感じる予定もありませんよ」 「だって、俺はおまえが好きなんだぞ?」 「はい。お聞きしました」 即答する怪盗に探偵は微苦笑する。 なぜ、伝わらないのだろうか。この真意が。 探偵は、内心のおかしさを堪えながら怪盗に問う。 「……おまえ、好きな人いないのか?」 「え?」 「だから、好きな人だよ。今いなくても、好きな人くらいいただろ?片思いは辛くないか?絶対振り向いてくれない相手を目の前で見続け、好きで居続けるのは心が痛くないか?……それとも、片思いなんてしたことないか」 「……そうですね、今片思いしている人はいませんが。辛いと思います。振り向いてくれない人を求め続けるのは、酷く辛い」 「俺も同じだよ。片思いは、心が痛む。おまえを見ていれば嬉しい反面苦しいんだ」 「……」 「わかっただろ?だから、できないんだ。悪いけど、ここが壊れるからさ」 探偵は自分の胸を指さして自嘲気味に苦笑した。 憂いを含んだ横顔は、目を引くほど綺麗だった。 「すみません。……無神経なことを言いましたか。一方的に押しつけていいことではありませんね。……ただですね、名探偵。私も、はいそうですかと言って納得できないんです、申し訳ないんですが。……貴方がいないのは、私の死活問題なんですよ」 「は?……死活問題?」 理解できない言葉に探偵は首を傾げた。 「はい。貴方がいないと私は孤独なんです。私を見透かす貴方の瞳がなくなるなど、堪えられないのですよ。虚無の中に生きている私にとって、名探偵はたった一つの碇のようなものでしょうか」 「俺が?」 「ええ」 怪盗は探偵の手を恭しく頂き、ウインクと共ににこりと優雅な笑みを浮かべた。 「……っ」 探偵は、間近に見る怪盗の瞳と捕まれた手から伝わる手袋越しの体温に心臓がどくどくと高鳴る。 「貴方にとっては、勝手な言い分でしょうが、私にも都合というものがあるのです。貴方は自分の方が多分大事だとおっしゃった。普通、人間は自分が一番など当たり前のことですよ。ですから私も己を優先させて頂きたい」 「……」 「逃げないで下さい。逃げても、もう待ってはいられませんから、追いかけますよ?覚悟しておいて下さい」 心臓が、悲鳴を上げている。 きりきりと締め付けられて、雁字搦めだ。 それでも、好きな相手にこれだけ言われて絆されない人間なんていない。 苦しくて後悔するかもしれなくても、うんと頷いてしまいたくなる。 同じ好きでなくても、執着されているという思いは優越感を生み出す。鈍い毒のように身体中をゆっくりと周り、致死量に達した時は手遅れだ。 自分は馬鹿なのだろう。 賢くなんて、生きられない。選べない。 今更だけれど、どうしてこんなに好きなのだろう。理由なんてあるようでいて、ない。 いつの間にか好きになってしまっていた。気がつかない内に。 恋は、症状が風邪に似ている。 潜伏期間があって、気が付けば引いている。熱に浮かされ、喉が痛み、身体が怠く、身動きできない。麻痺した頭ではろくな考えが浮かばない。 すっきりと治ればいいが、ずるずると長引く厄介な風邪もある。 「名探偵?」 己をこんな状況に追い込んだ元凶は、わかっていない顔で笑う。 「卑怯だ」 小さく囁くように漏れた声は、怪盗にも届いた。 「卑怯でも結構です」 怪盗の言いように、探偵は顔を上げた。 なんだか、いつもの怪盗とは違う紳士らしくない物言いだ。 それが、おかしくて、探偵は小さく笑う。そして、わかったと頷いた。 これ以上、自分ではどうしようもない。 どうなろうとも、仕方がない。そう、思った。 怪盗は探偵の答えに満足そうに口元に笑みを浮かべた。これで、一段落と思ったのもつかの間、怪盗は名案だとでも言わんばかりに、あまりにも突飛な驚愕の台詞を吐き出した。 「……キスしていいですか?」 「はあ?」 あまりの驚きに探偵は間抜けな声を上げた。 「約束の証にですよ」 「ちょっと、待て。そんなのする必要ないだろ?何で?」 探偵は大いに混乱した。 何で、キス。よりにもよて、キス? 俺にして、どうするんだ? そういうものは、好きな人にしろ。 約束の証なんかで、俺とするな。 「待ちません」 「やめろっ。嫌だっ!」 首を振って拒絶する探偵に、怪盗は突然不機嫌になる。探偵の身体を片手で易々と拘束しもう片方の手で首の後ろを添わせ顔を近づける。 「戯れにキスなんてするな。俺なんかとするんじゃなくて、恋人としろ!」 探偵は大声で叫んだ。 怪盗は片眉をびくりと上げ、読めない顔で断言する。 「戯れではありません。恋人もいません。それなら問題ないでしょう?」 「大ありだっ!」 即刻切り返す探偵に、怪盗は不愉快そうに眉間にしわを寄せた。 「私にないんだから、いいのです」 「どうしてわからないんだ?キスってのは好きな人とするもんなんだ。恋人がいないからって、誰とでもしていい訳ないだろ?第一、俺としても気分が悪くなるだけだろ!」 どう言っても伝わらない状況に、探偵は絶叫したい気分だった。 「気分なんて悪くなりませんよ。どうして名探偵にそんな事がわかります?」 「なるだろ?普通、好きでもない男とキスなんてしたらっ。俺は絶対無理だし」 「……」 「わかったか?……離せよ」 探偵は怪盗の手を振り払う。 「……だったら。実際にしてみれば、わかるでしょう」 「は?」 納得したのではなかったのか。 「ちょっ、待て……」 しかし、怪盗は有無を言わさず身体ごと強い力で引き寄せると、唇をあわせた。 「……っ」 柔らかな唇が己に触れている。 探偵は目一杯瞳を開いて怪盗を凝視した。身体があまりの事態に麻痺して動かないのだ。視線で、その驚きを表している探偵を見て怪盗は小さく喉の奥で笑いを堪え、何度か口づけを繰り返した。 そっと、離すと探偵は瞬きを何度かして状況を認識しようとしている。 「名探偵?」 そして、唇を片手でしばらく逡巡するように触れると、一気に頬から耳、首筋までも朱色に染めた。 「……二度と、俺に触るな」 そして、恨めしげに探偵は怪盗を見上げ、告げた。 「どうしてですか?私は気持ち悪そうに見えますか?見えないでしょう?」 「おまえ、これ以上俺にどうしろっていうんだ?残酷過ぎるだろ……。がんばって諦めるから、何でもないくらいに忘れるから。それまで待ってくれ。逢いたくないんだ、今は。二度と逢わないなんて言わないから、約束は守るから。……だから、お願いだから、もう俺に構わないでくれ」 懇願するように、奥歯を噛みしめるように切々と訴えられる。 自分の何が駄目なのか、わからない。 どんどん探偵を追いつめているようなのだ。 己の願望は、それ程難しいのだろうか。 それとも、キスした事が間違いだったのだろうか。 元々発端である、探偵の「キスして欲しい」とう言葉があったのだ。その探偵にキスしてこれ程、嫌がられるのが理解できない。 自分は、残酷だという。 諦めて忘れるから、それまで逢いたくないという。二度と逢わないとは言わず、約束を守るという。それなら、次に逢えるのはいつなのだ?その保証はあるのか?第一、諦めて忘れられたら、彼はもう己のことなどどうでも良くなってしまうのではないか? こんな風に真剣に、綺麗な瞳で自分を見てくれない。己を見透かすような慧眼が、自分は気に入っているのだ。それがなくなるなんて、考えるだけで腹立たしい。 己を忘れ、この蒼い瞳が他の誰かを見るようになるなんて未来、許したくない。 とんだ、独占欲だ。 自分は、この探偵を誰かに渡したくないのだ。 傲慢な、子供みたいな執着。自分の物でもないのに、なんて狭量なんだろう。 キスして、気持ち悪いなんて思わなかった。 触れてみて、とても柔らかな感触に驚き、もう一度したくなった程だ。 この腕の中から離したくない。 こんな感情は、初めてだ。 わかったような、気がする。さすがに、ここまで来ると自分の気持ちとやらに真っ向から向き合わなければならない。認めなけらばならない。なぜなら、ここで気持ちを少しでも否定し道を誤れば、多分、恐らく、彼は二度と戻らない。自分の横で笑ってくれることもない。 逃走経路の屋上で度々見た、彼の年相応の顔。 自分の無事を安心してくれるような、微笑。暗号について話す時の楽しげで子供っぽい顔。真摯で透明な色を浮かべた探偵の顔。 すべて、捨てることになるだろう。 それは、できない。死活問題なのだ。紛れもない、本心からの、願い。 「キスして欲しいんです。貴方にして欲しいんです」 「……え?」 「わかりますか?貴方と同じです。キスして欲しい、キスしたい。キスは好きな人とするものなのでしょう?」 「……そうだけど」 探偵は、困ったように眉眼を寄せた。怪盗の言葉が理解できないような、信じられないような、戸惑う風情で怪盗を縋るように見上げた。 「私も、貴方が好きですよ。……聞いてます?これは、返事になりますか?」 「好き?俺を、好き?……だって、そんなことあるはずない。おまえ、困っていたじゃないか。俺が好きって言ったら、無言で」 「すみません、それは謝ります。動転していたのですよ、私も。……けれど、貴方が好きなのは本当ですよ。嘘であるはずありません。やっと、気がついたのです、遅いでしょうか?貴方と二度と逢えないなんて私に堪えれない。あなたの瞳が私を見ないなんて、許せない。他の誰かに渡すことなどできない。この腕の中から離したくない。とんだ、独占欲でしょ?」 怪盗は、苦笑する。 「……本当に?」 「はい」 「俺は、おまえを諦めなくていい?忘れなくていい?」 「して下さったら、困ります」 怪盗はぎゅっと探偵を抱きしめた。怪盗の背に腕を回し身体を預ける探偵に、怪盗は嬉しくてより一層力を込めて抱き寄せた。 言葉で伝えなければ、伝えわらない。 言葉で伝えても、伝わらないことがある。 キスして欲しい。その返事はキスしたい。 だったら、キスして伝えて。好きなのだと、伝えて。心を込めて伝えて。 それが、貴方からのコトノハ。 END |