「百年の孤独」1



 思いの外強い風がひっそりとしたビルの屋上を吹き抜ける。
 周りの夜景の光と月の光でしか照らさない暗闇。
 誰もいない深夜という時刻。


 いくら不夜城都市とはいえ、通常であるならば静寂に満ちているはずである。
 しかし、今日は違った。
 どこからか、パトカーのサイレンが聞こえる。
 眼下を巡らせば、闇夜を赤いランプが騒々しく輝いているのが見えるはずである。



 ふと、風の向きが変わった。 
 白い闇。
 純白に染めあげたスーツに翻るマント、シルクハットの不審者。
 世間を騒がす怪盗KIDである。
 片眼鏡が月の光にきらりと反射する、その素顔は誰も知らない。

 今日の獲物は大きな美術館で特別公開されている紅玉。
 その紅色は鳩の血の色をした最高級品「ピジョン・ブラッド」。6〜7カラットを越えるものは珍しいと言われる中で、8カラットの大きさを誇り、素晴らしい輝きと透明感から『星炎』と呼ばれているビックジュエル。

 彼は紳士然とした仕草で上着の内ポケットから宝石を摘むと、月に翳した。
 今宵は満月。
 まるで月に加護された人物であるかのように、皓々とした光は彼の純白を照らす。
 やがて、彼はふうっと小さな吐息を付いて、宝石を持った腕を下げた。

 その時、ガタン、とそう大きくはないが静寂には響く鈍い音がした。
 彼は音のした方向を振り向いた。
 ビルから屋上に続く扉が小さく開いた。
 中からは、この場にそぐわない小柄な少年が現れる。

 「よう」

 子供は怪盗を見ても驚くことなく、至極当然のこととして声をかけた。
 子供特有の高い声だというのに、素っ気ないほどのぶっきらぼうな言葉だ。

 「これはお久しぶりです、名探偵」

 怪盗は珍しい、という気持ちを声に滲ませた。
 ゆっくりと自分に近付く子供に怪盗は腰を折り、優雅に礼をする。名探偵、として敬意を示して。

 「また、捜し物ではなかったのか?」
 「………」
 「違ったなら、早く返しておけよ」
 「承知しておりますよ。それにしても、今日はなぜいらして下さったんですか?」
 「たまたまだ」
 「………たまたまですか?いつもいらして下されば私も張り合いがありますものを」
 「張り合いで、盗むな………」

 怪盗の考えることはわからない、と子供は大人の仕草で肩をすくめた。

 「中森警部も熱意はあるのですが、如何せん、最後のつめが甘い。ダミーに騙されているようでは、私を捕まえることはできませんよ。その点名探偵はここまでいらして下さる」

 嬉しそうに語る怪盗に子供は、今、話題に出された警部に同情を覚えた。
 あんなに目の前の怪盗に固執しているというのに、可哀想に………。

 「追ってくれるだけ、ありがたくもらっとけ」

 疲れたように、子供はため息を付いた。

 「貴方がいらして下さるのが一番なのですが、それは望めないのですか?」
 「ああ?そんな事望むな。第一俺がこんな夜中に出歩ける訳ないだろうが。予告状だって、新聞社に公に出される以外はおっちゃんに話が舞い込まない限り、俺が知る術はない。俺だって、暇じゃねえんだよ」

 「それでは、予告状をお届けすればよろしいのですか?」
 「だから、暗号解読しても、こんな時間には普通来れねえって………。今日は本当に、たまたま蘭が合宿でいなかったから、泊まりに行くっていってあるんだよ」

 怪盗に名探偵と呼ばれる子供は江戸川コナンという小学1年生である。
 毛利探偵事務所に預けられている彼は、今回名探偵と評判の毛利小五郎に怪盗KIDの暗号解読の依頼があったため、予告状を見る機会があった。そして、彼の世話を焼き、保護者であろうとする毛利蘭が一緒にいては出歩くことは難しい。が、その彼女が所属する空手部の合宿で不在のため、彼はこの場にいることが可能となったのだ。

 そうでなければ、こんな夜中に出歩けるはずはなかった。出歩けたとしても補導される可能性が高い上に、外見は可愛らしい子供であるので誘拐されるかもしれなかった。もちろん本人は誘拐されるような玉ではないが………。

 「ううむ………、しかし、予告時間を真っ昼間にする訳にも参りませんし」
 「そんなこと、悩むな」

 腕を組んで首を傾げるKIDにコナンは言う。
 二人の間はわずかに2メートルほどしかない。その間は怪盗と探偵の距離にちょうど良いのかもしれなかった。怪盗の顔がしっかりとは見えなくて、でも顔に現れる感情はわかる距離。隔てるものもない、どこか穏やかな空気が流れる。
 遠くに消えてなくなるサイレンの音。
 眼下の赤い光は見えなくなった。それを一瞬KIDは見下ろして、コナンと向かい合う。

 「名探偵、ルビーは情熱の石。魔除けの石。そして愛の願いを叶える石だそうですね。古代では指輪やブローチなどの装飾品として身体の右側に付けるのが常識だったそうですよ。例え小さくとも、身につけていれば効果があるのでしょうか?」

 コナンは形の良い眉をわずかに歪める。

 「古代インドでは『ラトラナジュ(宝石の王者)』と呼ばれ戦士が身につけると無敵と言われ、、粉末にしたものを秘薬として飲んだとされる。シェイクスピアは『妖精の贈り物』と書き印した。宝石はそれだけ伝承や逸話に彩られるが、全て人間の考えた希望だ。思いこめば叶う可能性もあるが、所詮気休めだろう」

 さらりとルビーに関しての知識を述べると、一度コナンは言葉を切る。

 「お前は何を望んでいるんだ?宝石に何を期待したい?怪盗KID」

 真っ直ぐに見つめる瞳が月光に煌めく。
 大きな不釣り合いの眼鏡越し。
 鋭くて、真実を見抜く瞳は心地よいけれど、時々ひどく息苦しい。

 「名探偵………、貴方はどこまで『探偵』なのでしょうね?」

 自分のささいな言葉。
 今日のルビーもパンドラではなかった事から、発した言葉。
 そこから、少々沈んだ気持ちさえもくみ取ってしまう名探偵。
 「稀代なる怪盗」、「月下の奇術師」、「世紀末の魔術師」と呼ばれる自分が唯一認める探偵は「江戸川コナン」と名乗る小学生だけだ。世の中には探偵を名乗る人間は数限りなく、自分を捕まえようと躍起になる探偵も多い。が、「名探偵」は一人だけ。

 「………俺はただの探偵だ。それだけだ」

 静かな言葉。
 決して、驕ることなどない魂。

 「そうですね。貴方にはルビーよりもサファイアの方が相応しい。あらゆる蒼の中でも最も完璧なる蒼、聖なるサファイア。不誠実な人間や好色な人間が持つと色が濁ると言われるけれど、貴方ならいつまでも澄んだ色をしているでしょう。その瞳には真実が映し出されるのだから。古代ペルシャでは大地を支える石、空の蒼は最も神に近い石だそうです」
 「………それもお前の希望か?」
 「本当に、手厳しい」

 ただ見つめ合う存在。
 目の前にあるだけが事実。

 何だ?

 どこからか、殺気を感じる。

 二人とも同時に気付くが一歩KIDの方が早かった。
 一瞬のうちにコナンの側まで寄ると、腕を掴み引き寄せ銃弾を避ける。
 が、二人で会話して油断していたせいか、反応が遅れた分避けきれなかった。
 銃弾はKIDの脇腹をかすめ、コナンの腕をすり抜ける。

 「失礼。名探偵」

 一言断り、KIDはコナンを庇うように抱き込むと、そのまま貯水棟の影に転がり込む。

 「おい!大丈夫か?」

 コナンは白い衣装に血が染まる様を見て、目を見張る。

 「名探偵こそ、腕どうですか?」

 コナンの腕を掠めた銃弾は上着を引き裂いて血を滲ませている。

 「これくらい、大したことない。お前こそ、かなり出血してるぞ」

 流れる血の赤と鼻に付く鉄の香り。

 「俺なんて庇うから」

 コナンは目を細めてKIDの傷口を見る。
 自分を庇わなければ、彼の反射神経をもってすれば十分防げたはずである。
 こんな危険な時に俺なんて庇ってる場合じゃねえだろっ。コナンは心の中で毒づく。

 痛みを無表情の仮面の下に隠しKIDはコナンを抱きしめたまま、どこからか襲ってくる狙撃の動向を探ることに神経を費やす。
 角度的に向かいのビルの屋上だろうか?
 この場まで暗殺者が現れない限り、再び銃弾を受けることはないが、このままでは不味い。
 KIDはそう判断した。名探偵も傷を追っているし、自分もやられている。
 どうする?

 「KID、お前麻酔は効かないか?」

 するとコナンは突然聞いてきた。

 「あまり効く方ではありませんね」
 「そうか」

 徐にコナンは時計に仕込んだ麻酔針でKIDの腕に指した。

 「え?名探偵………」
 「これで少しは増しだろう。痛みはなくならないだろうが、少しは楽なはずだ」

 なんというか、つくづく小学生と思えない機転の効かせ方である。

 「扉の中まで走れますか?」

 目線は周りに配ったままKIDは聞いた。

 「ああ」

 コナンは頷いた。

 「GO!」

 一気に下のビルから屋上に続く階段がある、コナンがさっき開けた扉まで走った。

 シュッ………!!!

 耳に届く銃弾の鋭い音。サイレンサーのため、音はしないが、空気を振るわす振動を感じる。コンクリートにめり込む音。
 どん、と扉を開き駆け込む。
 KIDが思い切り扉を開けてコナンがその隙間に先に入った。
 え?コナンは崩れ落ちるように自分の横に倒れたKIDに驚愕する。

 「お前!!!!」

 腕から血を流している。増えている傷。
 彼はきっとコナンを庇ったのだ………。無事にここまで入れるように。

 「馬鹿やろ」

 ちっと舌打ちをしてコナンは携帯を取り出した。

 「もしもし?俺だ。………ああ、今○○ビルの屋上だ。怪我人がいる。銃で打たれた………ああ、俺もちょっとドジった。………すまねえ、ああ………」

 コナンはKIDを支えると、小さな手ではかなり重い上に自分も怪我をしていたから辛いが、柱にもたれるような姿勢にさせた。

 「待ってろよ」

 待つ時間がとても長く感じる瞬間だ。
 救援を頼んだが、それまでに暗殺者が来てしまえば、終わりだ。
 これで、逃げたと諦めてくれればいいが、と思わずにはいられなかった。

 1分、1秒が惜しい。

 早く……!そう普段祈らない神に願った。




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