「5 この手の中から、二度と滑り落ちることはない」 「おかえりなさい、工藤くん」 新一が帰宅し、玄関からリビングに入るとソファに座っていた少女から声をかけられた。 「ああ」 新一は、ただいまと言いながら鞄を床に置いてジャケットを脱いで椅子にかけると少女の向かいに座った。 「随分嬉しそうだわ、上手くいったみたいね?」 「………そうだな」 新一は極上の微笑みで少女に頷いた。 その満足そうな、幸せそうな笑顔から少女には簡単に推測できてしまう。 「おめでとう、と言っておこうかしら?10年振りですものねえ」 「………志保、からかうなよ」 新一は恥ずかしそうに頬を染めた。 宮野志保とは10年前からの付き合いだ。 新一が江戸川コナンの姿の時、出逢った組織の一員。新一の身体を縮ませることになった毒薬の研究者。組織から追われて逃げて阿笠博士に拾われてからの付き合いになる。その当時は灰原哀と名乗っていた………。 日本で情報収集をしながら組織の実態を捜していたけれど、そうそうしっぽを掴ませる相手ではなく、反対に自分たちの正体がばれかけた。大切な人間を危険に晒すわけにはいかなかったから、自分のつまらないプライドなど取るに足らないものだとわかっていたから、両親の住むアメリカにやってきた。 自分だけでなく、志保の身の安全も計るためには、ここが一番都合がいい。 アメリカに来て、志保は解毒剤の研究をしていたけれど、最終的に安全性のある完璧な薬は完成しなかった。パイカルの成分で作られた試作品では結局5日がいいとこなのだ。実験をする事事態危ういのに、もし服用し続ける……大きくなったり小さくなったりの状態を繰り返したら、身体中の細胞がが破戒されてしまう。 だから二人ともそのまま成長に任せることにした。 それでも、正常に成長を迎えることでさえ望めるか賭だった。そんな不安を余所に一応現状として成長はしている。若干二人とも速度は遅れてはいるけれど、背も伸び身体も大きくなった。 10年の年月は長い。 その間できる限りの努力をした。 組織滅亡のための活動。 身を守るために更なる鍛錬をして武術を身につけた。 知識や技術を向上させるため、大学関係にも参加して学位も取った。 「可愛いわね、工藤くん」 志保はころころと声を立てて笑う。 10年の月日は志保と新一をまるで姉弟のように、家族のように変えた。以前はまるで共犯者のような、運命共同体のような意味合いが強かったのだ。もちろんそれがなくなった訳ではないのだが、より一緒にいることが普通になった、というべきか。 「志保………」 新一は姉のような志保には口で適わない。完璧にいい負かされる。 拗ねるように上目使いで見つめられて志保はもっと笑えてくる。 「そんな顔しても駄目よ。私にはわかっているんですからね?工藤くんが、ずっとずっとKIDと別れてから心配していたこと。その正体なんてすぐに探り当てて、これまた健気に様子を影から見ていたじゃない。………影からっていい表現ね、その姿で絶対にばれないように変装してショーを見に行けばいいのに、それさえもしないで。ただただ、内緒でショーの後援したり、ビデオ見たりしてるんですもの。私だって呆れるわよ。全く、どこの片思いの少女かと思うような尽くし振り」 志保がすらすらと口にする言葉に、新一はぐうの音も出ないほど落ち込んだ。 まさか、全てばれているとは。 薄々感づかれているとは思っていた。 それとなく、協力をしてもらったこともあるし。が、しかし。どうして、自分の行動が筒抜けなのだろう?これでも注意していたのに………。志保にはそれさえも通じないのか? 「工藤くん。あれで、ばれないと思う方がおかしいわよ?あからさま過ぎだわ。まあ、私以外だと。ご両親くらいしかわからないでしょうけどね?」 「………両親って、まさか……?」 「知ってるに決まっているでしょう?」 新一の驚愕に志保は何を今更と首を傾げる。 「………」 「貴方の両親なのよ?ものすごく鋭いのよ?貴方のことなら何でもお見通しよ?」 「………」 二の句が継げない新一に志保はにっこりと微笑んだ。 「きっと、おめでとうって言いにいらっしゃるわよ?良かったわね」 「全然、良くない」 (そんな恥ずかしいこと、ご免だ………) 新一は俯いて何とか逃れる術はないものか、と思案する。 「無理よ」 しかし、そんな心の内を読んで志保ははっきりと断言する。 「志保!」 「あきらめなさい。貴方の10年越しの想いが叶ったんですもの、お祝いくらいさせてあげなさい。とても、心配してらしたのよ?」 「そうなのか?」 「ええ。普通の幸せが手に入れ難いだろうって。その両親から受け継いだ美貌も才能も真実を映す瞳も探偵としての気質も、謎を追ってしまう困った性格も。その全てが、ただ好きな人と共にいることを難しくする。損な人生だからって」 「別に損なんて思ったことないぞ。………これでも感謝してる」 「そう」 志保は慈愛のこもった瞳で新一を見る。 そして、優しげな声で弟の存在の恋の成就を聞いた。 「ちゃんと好きだって言えたの?」 「………言えた。………愛してるって言ってくれた」 小さくなる声だが、はっきりと新一は言い切った。羞恥を刺激するが、事実は決して恥ずかしいことではないのだから。 「良かったわね」 志保のそれこそ本当に心からの祝福の言葉に新一も頷く。 「それで、今度はいつ逢うの?」 当然約束してきたのだろうと予測する。折角逢えたのだ。普通はそうするだろう。 「さあ………。今度はお前が俺を捜せって言っちまったし。………3日後かな?」 「捜せって言ったの?………それで3日後だっていうの?」 「そんなもんだろ。あいつのことだから、さっさと見つけていると思う。ヒントは十分にあるわけだし」 「………いいんだけどね?全くらしいっていうか、なんていうか………。ところで、どの姿で逢うの? 「は?別にどの姿もないだろ?」 志保の言っている意味が新一には理解できない。 再び逢う時におしゃれしたいという、それはささやかな女心とでもいおうか。新一が理解できなくても、おかしくはない。 「だって、有希の姿で逢ったんでしょう?」 「………それが、関係あるのか?」 新一はちんぷんかんぷんである。志保はそんな新一に、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。 「工藤くんは、何も心配しなくてもいいわよ。私に任せておきなさい」 瞳はきらきらと楽しそうに輝いている。そんな志保に新一は嫌な予感を覚えた。 こういう時はろくな事を考えていない………。 経験上、逃げた方が絶対に、いい。 「志保………、何、企んでる?」 「企むなんて人聞きが悪いわね。協力してあげようと思ってるだけよ?感動の再会に手を貸してあげる」 「別に、感動の再会はもういらないんだけど………」 小さな声で抗議する。 「駄目よ。私が見てないんだから!」 「し、志保???」 ああ、楽しみねと微笑んで志保はもう新一の抗議など受け付けない。 何されるんだろう?と新一は3日後を心配するしかなかった。 「いらっしゃい、黒羽さん」 「こんにちは、宮野さん」 玄関先で二人は極一般的な挨拶を交わした。広い玄関スペースはモダンな作りで吹き抜けの天井は高い。 握手はしないが、一応微笑を称えて表面だけのことでも、いい大人であるからそれくらいの挨拶はするのが常識であろう。片方の外見年齢が少女であろうと精神年齢は青年と同じであるのだから………。 「どうぞ」 快斗は手みやげであるケーキの箱を志保に差し出した。 「あら、ありがとう」 志保もリボンのかかった美味しいと評判のケーキ屋の箱を受け取る。そして「どうぞ」と促して廊下を歩く。失礼しますと断って快斗も志保の後を付いていく。 「待っていたのよ、貴方のこと」 「それはそれは、光栄ですね」 志保の言葉に快斗はにこやかに微笑む。しかし目は笑っていなかった。 相手が相手なだけに、言葉を素直に受け取ることなどできなかった。 第一、玄関で迎えるのは絶対に新一本人であると信じていたのに、志保が出てきたのだ。新一の性格からして、自分で迎えようとする。人に、まして志保に任せることなど考えもしないだろう。何かあるのだろうか?と思っても不思議ではない。 「………そんなに警戒しないでちょうだい。私本当に首を長くして貴方が来るのを待っていたのよ?」 志保は艶やかに微笑む。 「………?」 「貴方は私のことをそれほど知らないかもしれないけれど、私は知ってるんだから」 「私のことをご存じで?」 「ええ。若手実力派マジシャン。黒羽快斗、有名でしょう?」 「ありがとうございます」 快斗は優雅に一礼した。 「でも、そんな通り一遍の評価ではないわ。私の情報は彼のせい………」 彼が誰を指すかなど聞かなくてもわかることだ。 「新一のせい?」 首を傾げる快斗に志保は楽しそうな瞳でええと、頷く。 「あまり話すと工藤くんに怒られちゃうわね」 くすくすと志保は声を立てて笑う。 快斗は全く納得がいかないが、志保に悪意がないことだけは理解できた。 廊下を歩いて階段を上って、また廊下を少し行った先の角の部屋の前まで来ると、志保はどうぞ、と快斗を先に促した。 「はい」と言いながら、ここで新一が待っているのだろうか?と考えつつ部屋に入る。 すると、そこには………。 両開きの日差しを取り入れた窓側に大きめなベットがあった。真っ白のシーツがかかった上質で清潔なファブリック。そのベットの上に新一が目を伏せて寝ていた。 純白の裾がレースになった清楚なドレスを着て………。 漆黒の黒髪がシーツの上に広がって、抜けるような白い肌が目に焼き付く。 紅色に輝く唇は薄く開かれていて、吐息が漏れている。 「………」 「どうかしら?」 絶句していた快斗は慌てて志保を振り返った。 「………これは、どうしたんですか?」 「見ての通りだけど、気に入らない?」 志保は完璧に面白がる雰囲気を漂わせ、快斗を見上げた。 「何をしたのですか?」 「ちょっと眠っているだけよ?睡眠は浅いし、ぼんやりとは覚醒しているもの」 「どうしてこんなことをしたのですか?」 さっぱり志保の意図が快斗には読めない。何を思ってこんなことをするのか? 「感動の再会のお手伝いよ。私見てないんだから!」 「はあ………?」 あまりの突飛な言葉に、快斗は間抜けな声を出す。女性の考えることは時々理解不能である。 「だいだい、眠り姫の起こし方なんて子供でも知ってるでしょう?わからない訳?」 ………眠り姫の起こし方、それは王子様の口付け。 「何、できないとでも言うの?」 無言の快斗に志保は意地悪く聞く。 そういったことは人に見せることではないのでは?と快斗は思ったが、彼女に逆らうと恐ろしいだろうと想像が付いた。 新一が、言っていたではないか。決して母親と志保には逆らえないと………。 「一応お聞きしますが、本人の意思は?了解は必用かと思うのですが?」 「何言ってるのよ、両思いなんでしょう?恋人じゃない訳?」 何を馬鹿なことを聞いているのか、と志保は肩をすくめてみせる。 一度大きくため息を付いて、快斗はわかりました、と言う。 その瞳には諦めと決心が宿っていた。 快斗がベットに近付いて、新一にかがみ込みそっと顔を寄せるのを志保は満足そうに見つめていた。 頬に手を添えて、そっと顔を近づける。快斗だということがわかったのか、目の前にある唇は微かに、「かいと」と動いた。それに快斗は少しだけ安堵して唇を降ろす。 触れるだけの、羽根のような口付け。 「ん………」 新一の睫毛がふるえて、ゆっくりと蒼い瞳が開かれる。真っ直ぐに見つめる天球の蒼い瞳が快斗を認めてふんわりと微笑んだ。 「快斗」 そして、快斗へ手を伸ばす。快斗はその手を奪うようにして抱きしめた。 大切な新一を、離さないように抱きしめる。新一も快斗の背中に抱きついて、胸に顔を預けて微笑む。 「新一、大丈夫?」 「え………?あ、そうか。志保に眠らされたんだった………」 一体どんな睡眠薬を使ったのか、と疑問に思いながら志保がいるだろう後ろを振り返るが誰もいなかった。気を使ったのか、いつの間にかいなくなったらしい。 「何だ、これは」 新一はふと自分を見直して、純白のドレス姿であることに気付いて目を丸くする。 「………着せられたの?」 「多分………」 完全に玩具にされている。 が、悪意がないのが唯一の救いであろうか?二人の幸せを願っていることだけは真実なのだ。そこに多少の悪戯をしても許されると思っているのが困りものなだけで………。 「まあ、いい。………こうして快斗と逢えたし。もう一度逢う時、どんな顔していいかわからなかったし………」 再び逢うとき、何だか照れくさくてどう話せばいいのか、迷っていたのだ。 自分が捜せと言った手前、見つけてくれるのを待ってることしかできないし。 「新一………」 快斗が耳もとで囁くように名前を呼んだ。呼び声に新一は快斗を見上げる。 「離さないから。この手の中から絶対に逃がさない………」 (もう、二度と迷わない………) 真摯な瞳で快斗は告げる。 「馬鹿。俺は離れやしないって。もうその必用はないだろう?快斗が何を手放しても、俺は最後まで残っている。快斗以外の場所に行くことなんてないんだ。だから、安心しとけ」 新一はまるで大輪の花が咲き誇るような極上の微笑みを見せる。 その微笑みに誘われるように、快斗は再び新一に顔を寄せた。唇が重なる瞬間、吐息のような声が聞こえた。愛している………と。 この手の中に残るもの。 それは、何よりも愛する者。 手放せない、離せない、大切な存在。 互いにずっと掴んで離さなければ、二度と滑り落ちることはない。 END |