「この手の中に残るもの」1





 両手ですくい上げても手から砂がさらさらとこぼれ落ちちるように。
 水をすくい上げても指の隙間からやがては落ちていくような。
 大切なものを両手で掴んでいるつもりでも、ふとした瞬間に滑り落ちる。
 それが、他に代え難い宝石だったら尚更に、
 誰かに奪われてしまう危険性がある上に、
 自分のものではなかったら、
 離さないように、腕に閉じこめることも、
 その権利も義務もなく、
 何もできはしない。


 「0. 手から滑り落ちたもの」



 今でも時々夢に見ることがある。
 大切なものが消えた日のことを………。
 自分の前から姿を忽然と消してしまう数日前、確かに彼は存在した。

 月が暗闇に浮かぶ深夜。
 夜の住人がいつものように仕事を終えてやってきた雑居ビルの屋上。

 白い魔術師は長いマントを風にたなびかせて警察からまんまと盗んだ宝石を片手に掴み月に翳した。月光にきらりと宝石が煌めいた瞬間それを見つめていた怪盗は視線を逸らし小さくため息を付く。
 その一連の仕草さえ絵になる月下の奇術師、人は彼を「怪盗KID」と呼ぶ。
 KIDは月を見上げながら落胆の表情をわずかに浮かべたが、コツン、コツンと彼の耳に届く小さな足音を聞きつけると、表情を和らげた。
 やがて、ギイと重い扉を開ける音が響くと小さな姿が現れた。

 「よう」

 小学生低学年にしか見えない小さな子供が、その幼い顔に大人びた表情をのせて、KIDに片手を上げる。

 「これはこれは名探偵、ご機嫌麗しく」

 KIDは少年を認めると、まるで賓客を迎えるかのように優雅に礼をして微笑んだ。

 「今日も上手くいったみたいだな?」
 「ええ。誰も私を止めることなどできませんよ」
 「日本警察も、舐められたものだな………」
 「舐めてはいませんが、骨のある方もいらっしゃいませんね」

 検挙率世界ナンバー1を誇る日本警察を十分に舐めた発言である。2課にいる彼専属の中森警部がKIDを捕まえることを生き甲斐にしているというのに。その、愛称KIDの名前の通り、遊び足りない子供のような言動に少年は警部に同情しながら見せつけるように肩をすくめてみせた。

 「つまらないって顔だな?遊び足りないか、KID」
 「貴方が参加して下さらないから、全くつまらないですよ」

 全く、に力を込めてKIDはぼやく。

 「泥棒は管轄外だ」
 「本当に、つれないですね」

 きっぱりとした少年の返答にKIDは恨めしそうだ。こんなに貴方を待っているのに、とぶつぶつ言いながら、いつも素っ気ない態度の少年にKIDは鷹揚にため息を付いてみせた。

 「いつも私は振られてばかりですね、どこがいけないんでしょう。私は貴方の好みではないのでしょうか?」
 「お前の暗号は好みだけどな」
 「暗号だけですか?」
 「その馬鹿げた衣装はどうかと思うぞ。あと、慇懃無礼な態度も頂けないな………」
 「私は貴方にそんな態度を取ったことはありませんよ。いつも誠心誠意を込めて相対していますのに、通じていないのですか?」
 「誠心誠意?あれが………?」
 「何か不満でも?」
 「………気障過ぎる」

 少年は呆れた声を覗かせる。

 「名探偵、それはあまりな言葉ではありませんか?私が気障でなくて、どうするのです」
 「開き直るなよ。馬鹿KID」
 「馬鹿でも構いませんけれどね………名探偵」

 KIDは馬鹿と言われたのに、怒ることなく微笑んで何もないところから白い薔薇を取り出した。そしてどうぞ、と少年に差し出す。
 少年は、またかという表情を浮かべて、それでも受け取った。受け取らないと、次々に何本も出すのだ。過去に花束のようになったことがある。

 「あのなあ、別に俺に拘らなくても、世界にはもっと有能な探偵がいるかもしれないぞ?」

 KIDがどれだけ探偵に逢ったことがあるのか少年にはわからないが、世界には多くの優秀な探偵がいる。

 「私が認める名探偵は貴方だけですよ」
 「………」

 なぜKIDが自分にこれほど拘るのだろう。日本では相手になる人間がいないからなのか?少年は不思議に思う。

 「………KID」
 「何でしょう」

 少年の呼ぶ声にKIDは、はいと答える。少年が自分の名を呼ぶ度にKIDの心は躍る。例え偽りの名でも彼に呼ばれるだけで自然顔がほころぶ。その嬉しそうな声と雰囲気を少年は察したのか、憮然とする。

 「………」

 嬉しそうにされても少年には困るのだ。
 期待感を込めて見つめられても少年はKIDの現場に行くことはできない。関わることも本当は良くないと知っていた。

 「名探偵?」
 「………宝石、返しておいてやるよ」

 少年は吐息を付いてKIDに向かって小さな手のひらを出した。

 「名探偵にそのようなことをさせられませんよ」

 KIDは差し出された小さな手を軽く取り甲に口付けると、それでもお心使いありがとうございますと感謝を述べる。
 少年はその流れるような一連の気障な仕草に毒気を抜かれて瞳を見開く。そして、もう何も言うまいと心に決めたようだ。
 KIDから受け取った一輪の薔薇だけを持ち、怪盗に背を向けた。
 入ってきた同じ非常階段のドアに手をかけて、優しげに見送るKIDに一度振り向く。

 「じゃあ、また、な」

 手を上げてうっすらと笑むと扉の先に消えた。
 いつもは「また」などと言わない小さな名探偵であるのに………。
 時間があえばこうして来てくれるから、また、と言わなくてもKIDにとって逢うことが約束のようなものだった。
 「また」と言ってくれたことが素直に嬉しかった。
 まさか、それが最後になるなど思いもしなかったのだ。


 その数日後、小さな名探偵は姿を消した。
 もともと親と離れてある探偵事務所に預けられていた子供である。親が迎えに来たためそこから去るのは当然だろう。
 例え、その存在がどこにも存在していなくても。
 彼が名乗っていた「江戸川コナン」という名が過去も未来も日本の戸籍のどこにもなく、痕跡が跡形もなく抹消されていたとしても。

 最初から、知っていたことだった。
 不可思議で幻みたいな子供。
 その小さな身体に秘密を抱えていた。
 ただ、自分も偽りの姿であったからそれを問うこともなく時間が過ぎていたのだ。
 そして、幻は消えた。
 少年は懇意にしていた同じ年の少女と共にKIDの前からいなくなった。

 どれほど探しても見つからない。
 もう、この国にいないかもしれれないと、出国記録を見ても名前もない。
 もともと彼の名前さえ本物ではなかっただろうから、わかる訳もなく。

 ただ、時間は過ぎる。





 少年であった自分が青年になる程の、長い時間が。
 マジック好きの高校生が、若手のマジシャンとして世間に認識されるほどに。
 10年という月日は決して短くはない。

 それでも、変わらないものがある。
 あの日から凍てついてしまった怪盗の心は今も溶けないままだ。
 誰にも心が動かない。
 何にも興味を引かれない。
 感情があの瞬間から氷に閉ざされたように、まるで暖かな春など来ないような錯覚さえ覚える程、真冬の外気に晒され続けている。
 唯一の救いは少年が「また」と最後に言い置いてくれたことであろう。
 「また」と。
 再びまみえることを約束してくれた言葉。

 それ以来、怪盗を動かしているのはパンドラを見つけるという信念だけだった。





 怪盗はパリのエッフェル塔に立っていた。
 眼下に見下ろす暖かな色を灯す夜景………。
 父である初代KIDが活躍した国。
 この夜景を彼はどのような気持ちで見下ろしたのだろうか?

 最初は美術品や絵画を盗んでいたらしい。が、それはいつからかビックジュエルと呼ばれる宝石を狙うようになった。そのビックジュエルのうちの一つにパンドラと呼ばれる奇跡の宝石がある。

 なぜ、父はそれを探していたのか?
 そのために、暗闇の組織に殺されてしまった。聡明で偉大な父は、その危険性知っていたはずであるのに。

 命をかけたパンドラ。
 永遠の命をもたらす魔法の石。
 この世にあってはならない、災厄と争いしかもたらさない宝石である「パンドラの箱」から取ったに相応しいだろう。そこから最後に飛び出すのは果たして希望であるのか、絶望であるのか、それは誰にもわからない。
 KIDが望むことは父を殺した、パンドラを狙うあらゆる組織より先に探し出し、砕くこと。もう、起こしてはならない争いの種。あれはこの世に存在させてはならないものだ。月に翳せば、中心が赤く輝くなど、それまでに流された血の結晶のようではないか。数多くの人の血を命を吸い取り、生きながらえているような錯覚さえ覚える。それほどの命や魂を飲み込んだ魔石であるなら、流す涙は人に永遠くらい与えるのかもしれない。それさえも、伝説に過ぎない。

 人を惑わす厄介な伝説だ。
 それを手に入れようと躍起になる者ほど実は表でも裏でも成功した亡者のような人間なのだ。金も名誉も全て手に入れた先には命さえも欲しくなる。
 浅ましい人間の最後の願いだ。

 KIDは真っ白の衣装を月光に染め上げながら、自分の守護者たる月の女神を見上げた。
 今宵も怪盗は月夜を翔る。
 次の獲物はパリ郊外に住む公爵の所蔵するエメラルド。
 予告状を彼が住まう城と警察へと届ける。
 それが彼にできる唯一の方法。
 そのKIDたる存在を誇示しながら、盗み続ける。
 やがて、行き着くパンドラまで………。

 彼の戦いは続く。

 孤独な魂のまま………。

 上空に吹く強風がその場にひっそりと佇むKIDのマントをはためかせる。
 しばらくその風にKIDは身を任せていたが、やがて白い翼を広げ夜空に飛び立った。



 


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