聖書の福音

バベルの塔


 「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。

彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。

主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。

さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」

(創世記11章1〜9節)

 


 バベルの塔という言葉を聞いたことのある方は多いと思います。それは聖書に書いてある歴史上の事実であり、人間の愚かな行為でありました。

 人々は自分たちの名をあげるために、言い換えれば有名になるために高くそびえる塔を建設したのです。しかし、その行いは神によってあっけなく止められました。それは人間が高慢になり、神に近づこうとしたからです。

 この世の一時的な支配者である悪魔(サタン)も、かつては神の御使いの1人でしたが、神よりも偉くなろうとして逆に天から落とされてしまいました(イザヤ書14章12〜15節)。

 私たち人間は神によって造られ、生かされている存在です。神は私たちの創造主であり、支配者である方です。ですから、その神と並ぶあるいは神を越えるという思いを持つことは大きな罪です。神はそのような思いを打ち砕かれます。

 「誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。」(詩篇5篇5節)

 彼らは言葉を混乱させられてしまいました。今日、私たちが他国の人とコミュニケーションを取ろうとするときに言葉の壁に苦労させられるのは、この時の人間の愚かな行為の結果であるのです。

 そして彼らは地の全面に散らされました。彼らが塔を建てようとしたのは「われわれが全地に散らされるといけないから」という動機からでしたが、逆にその行為によって全地に散らされる結果となってしまいました。なんという皮肉な結果でしょうか。

 人類の歴史あるいは自分自身の人生を振り返ってみると、しばしばこのような経験をしているのではないでしょうか。人間は罪の性質を持った者であり、その人間が神を無視して何かをするとき、決して良い結果にはなりません。一時的に良く見えたとしても、長い目で見れば悲惨な結果であることがわかります。それは人生の最後において最も明らかにされます。罪人は最後に神の裁きを受けなければならないのです。

 どうか、神の前にへりくだり、愚かな歩みを止め、賢く生きる方となってください。神はあふれるばかりの祝福を用意しておられます。

「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4章6節)