5月のフィレンツェへ

今から3年前のことなので、細部の記憶はかなり曖昧になっている。 メモも取っていないので、スケジュールも不確かになってしまった。 パンフレットや写真を見ながら、思い出しつつ記すことにする。

学生時代に美術史を習った、現在千葉大学教授の若桑みどり先生の著書「フィレンツェ」を読み、いても立ってもいられず、フィレンツェ行きの週末航空券を手配した。 出発まで1週間を切っていたので少し高くなったものの、通常の半額だ。 気合いを入れて空港に行くと、特にイタリア行きでよくあるフライト・キャンセルに遭遇。 あきらめず、次のピサ行きに変更。 航空会社の責任だからとねじ込んでビジネス・クラス用ラウンジに入れてもらうが、中ではイタリア人が大騒ぎ。 これなら、フロアにいた方が静かに過ごせたくらいだ。

ピサの空港からフィレンツェまでは列車で1時間弱。 飛行機の中でフランス語をイタリア語に変換する練習を重ねていたので、カタコトにトライ。 フィレンツェのサンタ・マリア駅から、最初の宿、アリゾナ・ホテルまで中心街をほぼ横断する。 ローラー付きの小さなスーツケースは石畳の道には全く不向きで往生するが、なんとか汗だくになり到着。 荷物を置いて、早速街に繰り出す。 

サンタ・クローチェ教会のチマブエ、ドナテッロ。 サンタ・マリア・デル・カルミネ教会のマザッチョ。 何と言ってもサン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコ。 そしてそして、ウフィツィ。 もうどこから手をつけていいのか、バイキング会場にたったひとり放り込まれた浮浪児のように目を回してしまう。 結局、第一日にどこを見たのか、すっかり忘れてしまった。 風邪で体調が思わしくなかったので、イタリア第一夜というのに何と夕食をパスしてホテルで休む。 翌日、体調はかなり回復。 オニサンティ通りのヨーロップ・カーでフィアット・ウノを借り、フィレンツェを後にした。

まずは高速A1を南下して、白ワインで有名なオルヴィエートまで。 ここはもう、トスカナを離れ、ウンブリア州だ。 フィレンツェとローマのちょうど真ん中あたりだ。 昼からフル・コースのイタリアンを食べる。 昨日まで体調が悪く食事も酒も控えていたので、ついはめをはずすことに。 立派なゴチック様式のファサードを持つドゥオーモを見物しながら酔いを醒まし、再び出発。 トーディという町に立ち寄る。 ここでは、スターバト・マーテルを作詞したトレチェントのフランシスコ修道士のヤコポーネ・ダ・トーディの墓を詣でる。 STABAT MATER DOLOROSA、あの歌詞と言うか、お祈りにも作者がいたのだ。 ペルゴレージ、スカルラッティ、プーランクの名曲。

その晩の宿にはあてもなかったが、フォリーニョというところにヴィラ・ロンカッリというミシュランの一つ星のホテル・レストランがあることを知り、電話をかけると空いていた。 古いリュートの曲の作曲者にロンカッリという人がいたので、なんとなく名前で選んだのだ。 値段も星付きにしては手頃だった。 ヴィラは町はずれなので見つけるのに苦労したが、なんとかたどり着いた。 そこは5月の鳥がコンサートのようにさえずる木々のに囲まれた邸宅だった。 部屋も広々としていて、温もりを感じる。 夜になり、自慢の食事をとりにレストランに下りるものの、昼のフルコースがまだ消化し切れていない。 メニューが運ばれてきた。 手書きで全くわからない。 定食はデギュスタシオンしかなかったが、もう選べないのであえて注文したが、これが地獄への道。フランスのムニュ・デギュスタシオンでは、前菜2、メイン3、デザート2とかだが、ひとつひとつは盛りが小さい。 ところがここはイタリア。 通常サイズで前菜2だか3、メイン3と出てきた。 パラリラパラリラと説明されても私の超初歩イタリア語ではよくわからない。 いったいどこからメインなのか、あと何皿出るのか、果てしない飽食地獄の中に放り込まれ、まるでヒエロニムス・ボッシュの地獄絵の中にたたき込まれたみたい。 おまけに、メインの順番を間違えたらしく、魚−鳥−羊となるはずが、フルサイズの皿で魚−羊−鳥−羊と出てきた。 その最後の羊を見たときにはめまいがして、やっとのことで「オ・マンジャート・ジャ」(こう言うのだろうか?)と一言。 とにかく通じたらしく、「あらら、間違えちゃったわ〜」と下げていった。 フランスの星レストランでこんなことになったら、怒りの炎が燃え上がるが、ここでは何故か許せてしまう。 しかし、このショックから立ち直ることは出来ず、ほうほうの体でデザートを食べ(それでも入るところが不思議)、命からがら部屋に戻った。

翌日、まだ食べ物が食道の真ん中あたりまでつまっている気がした。 チェックアウトの時に朝ご飯は食べないのと訊かれて、いや昨日食べ過ぎて・・・と答えると、思いっきり濃ゆくて苦いエスプレッソをサービスしてくれた。 それは飽食に対する贖罪の苦さだった。




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