薄ら笑いを浮かべながらその男が、汚れた紙バックからパソコン用のキーボードをテーブル上に取り出すと、今まで見て見ぬふりをしていた周囲の客たちも、ついにこらえ切れず一斉に男の方に眼を向ける。周囲の視線を一身に浴びたことがうれしいのか男は、さらにニタニタと笑いながら、次々とポータブルラジオ、電球の紙箱を2つ、よく分からない金属製の箱を並べ、そしてボードのキーをでたらめに叩き始めた。ボードのケーブルコードの先には何もついていない。彼のやっていることに意味はなかった。明らかに頭がおかしくなっているようだ。
その男は、繁華街にあるこのマクドナルドに入ると、何も買わず直接客席に来ていた。その後も買おうとする気配はなかった。客席担当の若い店員も、そのことに気付いているはずなのだが、注意しようとはしなかった。他の客たちも、そのホームレスらしい風体にちらっと眼をやったが、後はまるで彼がそこにいないかの様に無視を続けていた。私はといえば、気付かれないように横目で、汚いスニーカーと短すぎる丈のズボンとの間からのぞく素足に彼の異常性を見ていた。そんな中、気味の悪い笑顔で周りを見回し続けていた30才前後らしい男の取った行動が、キーボード叩きだった。
おそらく望んでいたであろう通り注目を集めた彼だったが、しかしすぐに周りの客たちは、再びその男のことを無視し始め、自分たちの作業、会話・もの書き・食べることにへと戻っていった。そのうち彼のとなりのテーブルに若い女性がやって来て座ると、ホームレス氏を気にとめる様子もなく居眠りを始めた。店員がすぐにやってきて、おそらく「客席で眠らないで下さい」とでも言っているのであろう、声を掛けてその娘を起こした、男の方には目も向けようとしないで。
こんなに目立っているはずなのに男は、今まるで見えない空気のような存在になっている。
香港は東京同様の、もしかするとそれ以上の都会だと思う。そしてもちろん、私もその中の一員になっている。
男はあいかわらず薄笑いを浮かべつつ、周りを見渡している。
繁華街尖沙咀・北京道にあるマクドナルド
Mac Donald's on The Peking Road (Tsim Sha Tsui, Hong Kong)