日々是好日・身辺雑記 2006年6月
(下にいくほど日付は前になります) 
     

以前の雑記を読む


「只今執筆中」

自分の腕の力が落ちてしまっているので、実現するか否かはまだ分からないの
ですが、とりあえず9月の「江戸桜・3」か(一か八かの運にかけて)冬コミ
にあわせて、「赤い花白い花」の執筆に入りました。
メールのお返事など少々遅れ気味になるかもしれませんが、お許しください。
なお、
通販は7〜9月は中止とさせていただきます。 ご了承願います。



「紫の蓮の花の人」

博識なUさまより嬉しいお便り♪

「そういえば余談ですが、「三十三間堂」の雑記拝見しました。
 ご安心(?)下さい(^^)
 「千手千眼観世音菩薩」の腕は、40本なので
 そこにある腕は39960本だけです(笑)。
 1本の腕につき、25種類の救いがおありなので♪」

あ〜よかったぁ(ホッ)って、何が・・・・・?
その間もいろいろ妄想してましたよ、「千手観音のあやとり」とか、「千手
観音の早撃ちガンマン」とか「千手観音の皿洗い」とか〜(笑)
一番すごい妄想は、ですね、貴族の御姫さまでもないただの元町人で、出家は
したものの下っぱたらきのマヤに与えられた試練、
「除夜の鐘が鳴り終わるまでにひとりでこの三十三間堂の千手観音をお掃除
なさい」と(笑)。 名門公家の姫川家から出家した亜弓尼、マヤを見守る
だけの寺侍・桜小路くん。
真の悟りを得た尼僧だけに許された、帝の前で披露される秘曲「紅天女の舞い」
の秘密とは・・・!?
そして実は都を影で操る陰陽師たちの総帥「紫の蓮の花の人」の正体とは!?
「カラスのお面・千のお面を持つ少女!」 近日上映・乞うご期待!!

・・・・・んなわきゃナイかぁ〜(笑)



「千手観音のアルバイト」

京都の東山区に「三十三間堂」という、世界で一番長っぽそいお堂がある。
南北118メートル、東西16・4メートル、ね、羊羹みたいに長いでしょ?
これは後白河上皇が平清盛に命じて千手千眼を納めるために作らせたものだ。
こんなとんでもないものを「作れ」と命じるほうも命じるほうだが
「はいはい」と建てちゃうほうも建てちゃうほうだ。 ああ平安時代・・・・

千手観音は全部で1001体ある、はずなのだが、実は一番奥に行くと、「只
今東京国立博物館に出品中」&「只今京都国立博物館に出品中」と札が置いて
あり、2体お留守で999体の千手観音が「ラッシュアワーのおひな様」みた
いにぎっしり、みっしり収まっている。 圧巻である。

ああ、ここに1000本かける999体の、え〜と、え〜と、・・・電卓ッ!
つまりここに999000本の腕があるのね。
悩める衆生の心を、ひとりも漏らすまいぞとしてくださっているのだから、
ありがたいことである。

しかし・・・・千手観音に往復ビンタはられたら、痛いだろうなあ(笑)。
もしも千手観音がアルバイトで「銭形平次」やったら、あとから銭拾うの大変
だろうなあ。 基本的に千手観音は何をやってもスゴクてコワイ。
ワールドカップのゴールキーパーとか、オリンピックの水泳「バタフライ」の
選手とか。 「そろばん」とか「百人一首」とかぜったい日本一だね。

とりあえず、今私が千手観音にお願いしたいのは「ツボ押しマッサージ」。
「お客さん、こってますねぇ。」
「ええ、パソコンカチャカチャやってますもんで。」
ああ、元凶はここにあり(笑)。



「郵便屋さん泣かせのメイル・アート」

あああ、本当に「
若さ」と「バカさ」は同義語である。
と、言い切ってしまうのは、書庫(という名の2DK)の冷蔵庫に貼っといた
一枚の絵はがきを、つい見てしまったからである。
水色のハガキ紙に独特の画風で、メガネをかけた「奈良の大仏さま」が描かれ
ている。 横に添えられた文字はクセのある達筆で「
フランク永井を抱きしめ
たい・ケンイチ・奈良にて
」。

「ケンイチ」というのは、学生時代の、ひとつ上の学年の先輩である。
当時まだ少なかった「人間関係学科」(つまりコミュニケーション学ね)の
ホープで、「ぴあ」の主催する個人制作映画賞を2年連続して受賞している。
(彼は後に映画監督兼脚本家になった。) 私たちは「ケンちゃん」「ハナ
ちゃん」それに後に雑誌の編集者になった「国文学専攻・1年上級の「安里
(あさと)くん」、で、お互いのバカっぷりを感嘆しあう、恋ではないが
不思議な「三角のスクラム」を組んで、お互いにお互いのやらかすことを
「バッカだなあ〜!(笑)」
という笑いのオブラートにくるんだ
「こいつ、タダ者じゃないなぁ。」
という胸騒ぎにゾクゾクする間柄だった。 そこに登場したのがあのハガキ、
「メイル・アート」である。

「あれー、ケンイチ先輩、もう帰るんですかぁ?」
「うん、ちょっとヤボ用。 じゃ、また明日〜。」

翌朝、といっても、日本画専攻の画学生である私の「ゼミのない日の朝」は
とんでもなく遅い。 郵便屋さんの方がよっぽど早い。
「さ〜て。ガッコ行くかぁ〜。」
と寝ぼけた私の家のポストに、いきなり「フランク永井を抱きしめたい」の
ハガキ1枚、ですぜ。
ダッシュで学校に行ったら、ケンイチ先輩はもう登校していて、「よう!」
ですって。
(奈良の郵便局最終集荷にあわせて新幹線に飛び乗って、投函し終えてから
大阪発夜行列車の最終便で帰ってきたらしい。)

こちらもいろいろやらかしましたよ、B4の封筒に一面1円切手貼って、1枚
分の真ん中のスペースに小さく宛先を書き込んで送ったり、(消印ぱかぱか、
そりゃ大変ですよね、郵便局の人)左下隅に「貼り切れない分はウラ面に」っ
て、またしても1円の「前島密」と2円の「秋田犬」びっちり(笑)。

「なるべくツボを間違えた住所の宛先」とか。
ああ、あと「宛先がクロスワードになっている」なんてやったなあ、ちゃんと
「タテのカギ」「ヨコのカギ」とそこはしっかりさせといて。
・・・まったくもうっ!と局員さんの書き込みがあって、私たちは勝った!
何に? 郵政省に? それとも自分たちの「バカさ加減」に?(笑)。



「ハトと私」

「ハトがマメ喰ったような」というたとえ言葉は、もう死語になって久しい。
浅草寺の境内にあるハトのマメ売り屋のおばちゃんから、一袋買って、どれ、
蒔いてやろうか、というようなものではない。
クァ〜とあくびしているハトの口めがけてパチンコで炒り豆を一発撃ったら、
あららストライク、小口をあけて目ン玉シロクロしているような表情のことを
「ハトがマメ喰ったような」と言うのである。

南関東で「ハト」といったら、鎌倉の老舗「豊島屋のハトサブレー」が有名。
銘菓「ひよこ」もそうなのだが、なーんせヒマでバンカラな私の女子校時代、
「ハトサブレー」を頭から食べるか、しっぽから食べるかで、友人達と大論争
したことがあった。
「あたし頭から食べる。」
「えー、そんな残酷なこと出来ない〜! 私シッポからよ。」
「いんにゃ、頭から食べてとどめを刺すのが武士の情けってもんじゃない?」
(いっとくが私たちは「武士」ではないぞ、ただのバンカラ女子校生。)
「じゃ「ひよこ饅頭』は?」
「あたしシッポ」「私頭から」「あたしゃひと口で」「バッカねあんたってば」
「じゃ、伺いますけどね、ロバ製菓の『ぽんぽこたぬき饅頭』は?」
「・・・しっぽ・・・」
「ほれみなさい!」
「だって、仕返しで化かされたらヤだもん、たぬきに。」

ああ、なんだか「ガリバー旅行記」の「小人の世界」で
「茹でたまごはてっぺんから剥くか、横から剥くか」
で戦争している「リリパット・アーミー」みたいだなあ(笑)。

で、話題は「ハト」に戻って。

駅前広場を、派手なオウム柄のアロハシャツにストローハットで歩いていた
と思いねえ。 最近はハトのフン害で、高いところにはみんな針みたいなも
んを取り付けて、ハトが止まれないようになっておるのだが。
私の着ていたオウム柄のアロハは、コンゴウインコにルリコンゴウにコバタ
ンという、まー、なんつーか、「南国着ております、鳥でございます」状態。
と。 その柄にだまされたんだか、いっきなり土バトが後ろからバササッと
左肩にお止まりあそばしたんである。
驚いた〜、横を見たら5センチ目の前にハトのお顔。 ハトはハトで
「正真正銘・ハトがマメ喰った表情」
で、私の左肩をジャンプ台にして、ンバッ、ババッ、ババババ〜ッと去って
いったのでございました(笑)。
見送る私も、もちろん「ハトがマメ喰った」ような顔でしたとさ(笑)。 



オトコの居どころ・オンナのカンどころ」

大阪で「焼き肉」といったら「鶴橋」、「鶴橋」といったら「焼き肉」である。
なんせ高架の「鶴橋・プラットフォーム」に降り立っただけで、もう焼き肉の
においモウモウ、煙モクモクなのだ。
戦後の、コリアンタウン&闇市の家並みがぎっちり詰まっていて、新宿西口の
「思い出横丁」よりスゴイ。

今では海外事業部に戻って世界中行ったり来たりなドッコイなのだが、ああ、
「湾岸戦争」のおかげで「海外事業部はさておいて、国内事業部に回りなさい」
という時期があり、「大阪帝国ホテル」っつー、「東京の帝国ホテル」とはまっ
たく別モンのビジネスホテルを常宿にしていた。
で、私は仕事の切れ目に遊びに行ったのだ、大阪へ。

鶴橋駅徒歩1分30秒の焼き肉屋。
東京のそれとは違って、肉の厚さが5ミリはあるぞ。
しかも東京の焼き肉屋とまったく違って「炭火で各自焼いてください」なん
である。 壁も柱も油煙でヌラヌラしとる。

しかしそこで、私は面白い光景に出会うのである。
はす向かいのボックス席に座って、女のほうがテキパキ肉をならべている。
向かい合って座る男の方は、サンチェに包んだ肉を、「心ここにあらず」っ
てな表情で口に運んでいる。
女の方は、藤山直美さんをもっといじって塗りたくった、絵の具箱をひっくり
返したような服、毛皮のショートコート、宝石と衣装の派手な姿で、焼き肉を
焼くたびにいっぱい付けた金色のネックレスやブレスレットがジャラジャラ音
を立てている。

2人は会話をしていなかった。 肉を焼きつつ一方的に話し続ける女。
「せやから、あんときアンタがこれをこうしてくれたらよかったんよぉ」
「あんときに、あないに上手くやってくれればえかったんや」
「あんた、これからいったいどないする気ぃ?」

突然男は立ち上がり、口も聞かずに店の入口へむかう。
女は尻が重い分「いきなり立ち」が苦手であるし、バックやらコートやら忙しい。
しかし、手使いは遅いが、口は速い。
「ちょとアンタ、なんで
肉残すのんっ!?」
男の背中に大声を投げつけて、じゃらりじゃらりと音を立てて、自分の荷物ひっ
つかんで。
「ねえ、なんで
肉残すのんッ!!」
彼女の走るにあわせて、アクセサリーの音を鳴らしつつ、化けすぎた
藤山直美さ
んのように派手な・太い・金色のジャランジャランが小走りに出て行った。

不思議な、夢のようなこの光景を、ところがドッコイはまるで見てないし、覚え
てもいないというのだ。
(
私は企業向けの隙間家具のような生活を20年続けていたので、四方八方瞬時に
アンテナを伸ばすことを心得ている。)

ああ、あんなに残されたお肉の運命やいかに?
 


6月某日「うおぉっ、椎間板〜ッ!!」

なんてこったい、昨夜から強烈な「しっぽが痛い」にみまわれている。
で、行ってきました整形外科。 レントゲンやらなんやらの結果、幸い「椎間
板ヘルニア」にまではいっていないことが判明。
現在、湿布とコルセットでなんとか押さえております。
しかしね、なんだかね、このコルセットちゅーシロモノは、すごいね、ガッチ
リと。 ああ、今なら私ポンパドール婦人のおドレスも、高見盛関がまわしを
パンパンする気持ちも、よーく分かるぞぉ〜(笑)。

腹筋と背筋をゆっくり鍛えていかにゃならんなあ、こりゃ。



六月某日「お食事中の方は・・・」

ご遠慮下さい(笑)。
父の入院した病院は大きくて、産婦人科も小児科もある。
その階に行くと、「空中庭園」とでもいうのかな、赤い煉瓦敷きで花壇なんぞ
もあって、お腹の大きい妊婦さんや頭に包帯巻いた子供なんかがいて、近くの
緑地からいい風が吹いて、なかなか楽しいのである。

父を車椅子に座らせて(これも寝たきりにならないためのリハビリである。)
なんせ口数は昔から極端に少ない男なので、すぐ黙ってベットを指さして横に
なりたがり、
「だーめ、座っているのもリハビリなのっ!」
と母と私に叱られているのである。
気分転換に外気浴でもさせようと梅雨の晴れ間に「空中庭園」へ車椅子で出か
けたのだが、あらら、このスペース、入口の角度がやたら急なスロープで
「あちゃー、こりゃ設計ミスだわねえ。」
なのであった。 なにしろ健康この上ない母と、小学校5年生位の筋力の私、
ふたりでよいせこらせと押してもあがれない。 幸い近くにいた付き添いの人
が手を貸してくれて、やっこらせっと庭園へ。 こっちは汗だくである。

「ど、どうよ
(ゼエハア)とうちゃん、外の風気持ちいいだろ?」
と聞いたら、父、たったひとこと

「・・・うんこ。」

正真正銘この
クソオヤジ〜〜〜ッッッッッッ!!!

かくして父の外気浴は「ウルトラマンのカラータイマー」より短く終わったの
であった。 やれやれ、ふぅ。



六月某日「本日感動した狂歌一首」

「世間(よのなか)に、金と女は仇(かたき)なり
            ああ、早く仇にめぐり逢いたい」


六月某日「ハカセのリツコ先輩」

いやはや脳外科というところは、いろんな理由でいろんな人が運ばれて来る。
うちの父みたいに、ほとんど人の通らない坂道でころんだ、なんて人もいるし、
交通事故、ラグビーの選手で試合中に倒れてしまった人もいる。
基本的には救急医療の病院なので、症状が良くなればリハビリ専門病院に搬送
され、ベットの回転率は目まぐるしいほどで、いろんな人がやってきては、ま
たどこかへと移ってゆくのである。

声優の塩沢兼人さんや作家の中島らもさんは、酔っぱらって自宅の階段で転倒
して亡くなられた。 うろ覚えだが「魔法使いサリー」のヒロイン・サリーちゃ
ん役の声優さんは、確か自宅で、庭の木を剪定中に足をすべらせて亡くなられ
たと思う(子供時代の新聞記事を読んだ記憶なので、ちょっと違うかもしれない)

比較的長く入院の我が父の隣のベットは、2〜3日おきにいろいろな患者さん
がくるところで、カーテン越しにとはいえ、会話は聞こえてしまうんである。

大きな商社(昔で言うところの三大財閥のうちのひとつである)の、もう五十
もつれのエリートさんで、それが帰宅途中泥酔して駅の階段から転がり落ちた、
という理由であった。 付き添っている息子さんに大声でだだをこね、もう半
分ケンカ状態、それが翌日(おそらくキャリアウーマンであろう)奥さんが来
たとたんに、シュンとなっちゃって、入院の理由もいつの間にか「酔っぱらっ
て『自宅』の階段で落ちた」に変わっていた。(多分ウソだね、世間体っての
があるからだね、エリート商社マンだもの)

酒の飲み方、自分自身の酔っぱらい具合は、高校を卒業したら我が身を持って
知るべきである。(「お酒は二十歳になってから」なのではあるが、一応・笑)
呑みで恥かいて、自分のアルコールに対する許容量をきちんと分かっていなけ
りゃ、人生モロモロである。 恥は若いウチにかいておけよ、エリートさんよ。

さてさて、タイトルの「ハカセのリツコ先輩」なのだが。
大学院がなかった我が母校、「博士」ではない「吐かせ」なのであった。

あんまりにも僻地で周囲に飲み屋もなし、大学側は貧乏な我ら学生のために、
プレハブ畳敷きガス・水道付の「集会室」なるものを建ててくれたのである。
普段は、昼間手話サークルが使ったり、討論会があったりなのだが、夕方5
時〜夜9時まではそれぞれのゼミやサークルの宴会場となって、だから通称
「コンパ室」と呼ばれていた(笑)。

9時消灯が一応きまりなのだが、守衛室にビールの2〜3本とつまみを一皿
「漫研でーす。 今夜コンパ室使いますのでよろしくお願いしまーす。」
と言って、持って行くと、全共闘時代のエリート大学生(東大とか)くずれ
だった守衛のおっちゃん2人が「あいよー。」と受け取って、消灯の見回り
が「見て見ぬふり」になって、10時〜11時くらいまでOKだったのである。

まだアルコール・ハラスメントの
「それ一気、一気〜っ!!」
なんてのもない時代で、日本酒党の先輩は隅のストーブにかけたヤカンでお
燗つけてたし、ビール党、ウィスキー党、ノンアルコール党、と自分のペー
スで呑んでいた。 学校近くのアパートに住んでいる娘(こ)なんかは、
「はい、差し入れでーす!」
と卵焼きや海苔巻き寿司作って持ってきてくれた。

しかし、やはり初コンパともなると、飲み過ぎて気分が悪くなるヤツもいる
のである。 そこで「ハカセのリツコ先輩」の出番である。

「ハイハイ、吐いたら楽になるからねー」と悪酔いした連中をトイレに連れ
ていって、「はい、かがんでー。 口開けてー。 指入れるからねー。」
と、背中さすりさすり、吐かせてしまうのである。
「よーし、一丁あがりー! 次は誰かなー?」
と、よく洗った指をフキフキしながら、ニコニコしてるんである。

ああ、本当に山賊の巣みたいな学校だったなぁ。
みんなみんな、若いウチに恥はかいとくもんである、ね(笑)。



六月某日「桑の実・2006」

と、いうわけで今年の桑の実は、ジャムに煮てK一くんのお母さんにプレゼント。
・・・・しまった
 我が家の分取っておくの忘れた!!(笑)
来年のお楽しみですなー、これは(笑)。


六月某日「え、塩?」

「貧乏フォークソング」といえば「かぐや姫の南こうせつさん」、南さんといえば
「赤ちょうちん」に「神田川」、貧乏者同士の同棲生活はままごとのようで、雨が
降れば
キャベツばかりを食べ(か、おまいらは笑)、お金もないのに24色の
クレパス買って(その分食費にまわさんか〜いっ
)あなたが描いた私の似顔絵っ
て、でもちっとも似てないねって、「自称・芸術家肌」で、でも実際には絵心無い
ヤローならいるぞ、今でも、いっくらでも。

あと「死んじゃった・フォーク」だと、グレープのさだまさしさんの「無縁坂」と
か「精霊流し」、「さよなら・フォーク」だとイルカの「なごり雪」、もう髪を切っ
てカタギにならなくちゃなぁ、の「さらば我が青春よソング」はバンバンの「いちご
白書をもういちど」(作詞作曲は荒井由美)、それぞれの境界線はグラデーション・
ゾーンを持って、微妙に重なり合いながら、湿っぽく共存していた。

あの頃の日本を覆った湿ったカンジは、今の、シンセサイザー中心のミュージック
聴くお若い人には、ああ、分かってもらえないだろうなあ。

「フォークとポップスやロックとの差は?」と聞かれたら、とりあえず
「会場が停電になっても肉声とギターとドラムスとハモニカさえあったらなんとか
演奏可能なのがフォーク、停電になったら演奏不可能なのがポップスとロック。」
と答える私である。 ま、人力と機械力との分かれ目じゃな。
それ以上の音楽上の違いは、わたしゃ分からん(笑)。

さて、横道にそれてしまったが、もっとも有名な「貧乏フォーク」といえば、そりゃ
もう「神田川」でしょう、「窓の〜外には〜神田川〜♪」
「クレパス」とか「牛乳石鹸」とか、商品名がさりげなく出ているのが、この歌の
「おいしいところ」よね。

しかし私は実際に「神田川沿いに住んでいる」人を知っていた。
貧乏ではない。 ちゃんと2階建て、敷地内に叔父さんがアパートまで持っていて
しかし当時の神田川は蛇行していて、しょっちゅう床下浸水、たまには床上浸水す
るのが悩みのタネだったそうだ。

床上浸水の日。 自衛隊が「関係者以外立ち入り禁止」と水浸しの道路をふさぎ、
さて、それからである。

一軒あたり「食用塩1キロ袋」の配給があったというのだ
「なんでですか?」
「規則ですから。」
?????????????????????????????????????
分からん。 今は江戸時代なんぞと違って、「塩さえあれば何とかなる時代」では
ないのに、だ。
こーゆーところが私たちの国なのですよ、日本、ああ「神田川」(苦笑)。



六月某日「桑の実」

Kちゃんと知り合ったのは20才のころだった、そのとき彼女の名字は「T」だった。
私たちは同じ「マンガ研究会」に所属していた。
といっても、お若い方にはピンとこないかもしれないが、コピー1枚40円の時代、
オフセット印刷なんて夢のまた夢、肉筆回覧形式のマンガ研究会もあった時代、
九州の、かなり奥地の高校生ふたりが立ち上げた「長距離走者」という漫画研究会
1・高校生以上であること。
2・少女マンガを描きたい人であること。
この2つの条件を満たせば入会OK、マンガ雑誌のファンコーナーに、その小さな記
事が載って、私たちはほとんど同じ時期に入会した。
家が近いこともあって、Kちゃんはもう一人のメンバーと共に、引っ越して一人暮ら
しを始めたばかりの私の家に泊まりがけで遊びにきたのである。

私たちは話のウマのあう友人同士、横浜生まれのハマっ子Kちゃん、でも蓮っ葉な話
し方の端々に、なんとなく
「この人相当な苦労人だなぁ・・・・」
という雰囲気があった。 私たちはお互いに「Kちゃん」「ハンナ」とあだ名で呼び
合った。 彼女はケラケラと良く笑い、自分のことはあまり語ろうとはしないままで
しばらくして、そのサークルを退会した。

しかし、何年か後、Kちゃんは「Y」という名字で再入会してきた。
「ああ、結婚して名字変わったのかぁ。」
脳天気な私は最初そのくらいしか察することが出来なかった。 彼女は私の家から歩
いて行けるほど近くに引っ越していて、でも小さな赤ちゃんがいて、小学校低学年の
お姉さんもいて、夫の勤める大きな会社の社宅団地住まいだった。
「ウチはノンキャリア組だからねー、まあまず出世は出来ないわねー。」
とKちゃんは笑った。 蓮っ葉な話し方とヘビースモーカーなところは相変わらずで、
今度はぽつりぽつり自分のことも話してくれた。

昔の横浜暮らしのこと、高卒で1日も早く家を出たくて結婚して、でもその最初の夫
は生まれたばかりの上のお姉ちゃんに暴力をふるう「とんでもない男」で速攻離婚し
たこと。
「ああ、じゃあ「T」という名字でウチに遊びに来てくれたときは、実はもう上のお
姉ちゃんを産んで、実家に帰っていて、だから名字は「T」が旧姓で「Y」に名字が変
わった後に、下の赤ちゃん(Mちゃん)が産まれて、だから上のお姉ちゃんは「お父
さんの違う娘なんだ。」とドンカンな私にもやっと分かった。

亡くなってしまったおばあさんは山形の農家の人で、野菜作りの名人だったことも、
再婚前にPOP文字の勉強をして、今は手内職で某有名スーパーのチラシを書いている
ことも、お裁縫が得意で、子供の服は全部手縫いなことも、お菓子作りの名人だとい
うことも、(私は相手が話そうとしない限り、詮索はしない主義である)分かった。

Kちゃんは広告代理店の勧めで、地元に友だち3人で小さなデザイン会社を作り、某
有名スーパーのチラシを、一手に引き受けた。 3人のうちひとりが病気で、でも
そのお母さんも病気で、結局働いていない彼女の分も含めて、Kちゃんひとりで2人
分の仕事をせねばならず、「長距離走者」サークルの後輩Sちゃんをアルバイトとし
て雇って、昼も夜も、彼女は働いていた。

しかし。 コンピュータでPOP文字や商品のイラストが全部出来るようになった時。
Kちゃんのデザイン会社は、広告代理店の一存で「計画倒産」させられてしまったの
である。(だから私は、その大元であるスーパー「いな★や」には絶対行かない。)

家賃も払えない赤字のデザイン会社、Kちゃんは雲隠れする。 後輩のSちゃんは、
お給料も支払ってもらえないまま、家主さんの「家賃まだか」攻撃にさらされる。
そこで、あれほど仲良しだったKちゃんとSちゃんとの人間関係は、火花を散らして
クラッシュしてしまう。
はたで見ていて私はハラハラした。 しかし貧乏でヒマなく自分自身の仕事をして
いる以上、私にはもう手をさしのべることは出来なかった。

ほとぼりの冷めたころ、ようやくKちゃんと私は再会する。
お裁縫が得意だった彼女は、ロックに転んだ下のお嬢さんのコンサート仲間にと、
衣装作りを良心的価格にて引き受けていた。
私がドッコイの前の恋人にプロポーズされて悩んでいた時に、相談にのってくれ、
ドッコイのおばあさんの形見の綿入れ半纏に虫がついて51カ所もの虫喰い穴が出
来てしまったとき、パッチワークふうにきちんと繕ってくれもした。

彼女の二人目の夫「TK」さんは、なんとなく、私の苦手な雰囲気の人だった。
虫喰いを繕ってもらうお願いに、と彼女の住む社宅に行ったとき。
突然「TKさん」から電話がかかってきた、
「たった今車上荒らしにあって会社の金10万円盗まれたから10万円くれ。」と
「そんなお金あるわけないでしょう、ウチに!」
声を荒げるKちゃんの背中は小刻みに震えていた。
「私、パッチワーク用の生地買ってくるから、ちょっと待っていてね。」
と私は走って商店街へ行って、かすり模様の生地を買って、そのまま銀行に直行。
私もとんでもなく貧乏だったので、おろせたお金はたったの4万円。
握りしめて彼女の社宅へ戻った。
「パッチワークの手間賃にいくらかかるか分からないから、このお金渡しておくね。
繕い終わったら精算しましょう。 連絡ちょうだい、いつでもいいから。」
言いながら私は心の中でまったく別のことを考えていた。
「TKさん、たぶん集金の『使い込み』だな、パチンコかスロットか・・・・・。」
結局後日、繕い賃は半々の2万円にしようか、ということになった。

Kちゃんの田舎・山形の思い出話は、三宅島に別荘を持ち父が農園を耕している私
と重なるところが多く、いろいろな話をした。(キュウリのもぎり食いとか・笑)
ある日、私は大発見をした。 ふたりの住まいの途中の、川沿いの遊歩道、地面
が少し湿地めいている、という理由で住宅も出来ない雑木林を奧にちょっと行った
ところに桑の木があった。 大木である。 今、たわわに実っている!

「Kちゃん、桑の実摘みにいかない!? いま『たわわ』だよ!!」
「行くっ、すぐ行くっ!!」
なんせ湿地めいた土地ゆえ、蚊がウヨウヨ。
「ひぃ〜、また刺されたあ!」
「ここで負けちゃだめよ、こずえ!
(「サインはV」か・「アタックナンバー1」か・笑)
さあ、立ち上がって! 桑の実を摘むのよっ!!」
いや〜〜〜ふたりで摘んだ摘んだ、刺された刺された(笑)

ふたりで「半分こ」した桑の実で、お菓子作りの名人Kちゃんはタルトを焼き、
私は砂糖と、レモン汁とワイン少々で、ジャムを煮た。

そのあとである、TKさんが会社を辞めた事、社宅を出て、彼の友人とふたりで会社
を立ち上げた事をKちゃんから聞いたのは。 古いアパートに引っ越ししたのは。
「学歴はないけど能力のある人なのよ。 きっと頑張ってくれると思う。」
それは、私へのメッセージではなく、Kちゃんが自分自身を奮い立たせる為の必死の
言い訳ことばに、私には聞こえた。

我が家からすぐそばの近所なもんだったので、何度か連絡して、尋ねて行って逢い
もし、彼女も我が家へ遊びに来たが、Kちゃんはいつものバカっ話にケラケラ笑いな
がらも、どこか芯がもろくなっているように見えた。

やがて電話はいつも留守電になり、手紙を送っても、「届け人不在」ではなく、確
かに「TK」さんの名字宛で向こうに届いているのに、返事も来なくなり、
「ああ、別れて、たぶん2人の娘さんとどこかへ行ってしまったのだ。」
と私は思うようになった。
最初に出会った時のご実家のアドレスを無くしてしまった自分がふがいない。

Kちゃん、もしも今、私をつかまえることができたならメールをください。

私はいつものように、風に吹かれてここに立っているのだから。



六月某日「え、カセットテープ?」

「中島みゆきはシャンソニエール(chansonniere:女性シャンソン歌手)だ!」
というのが、ドッコイと私の一致した見解なのである。
エディット・ピアフやダミアのCD聴いてみそ。 一発で分かるから。

てなわけで、私は中島みゆき好き。 昔はよく、
「あなたユーミン派? それともみゆき派?」
なんて聞かれたもんだし、聞きもしたが。
「不景気にはみゆきが流行り、景気がいいときはユーミンが流行る」
なーんて言われていたもんだが。 まあね、スキーやサーフィン、イベントや
大きな土木工事の時にはまずユーミン(「サーフ&スノウ」で、「ホリディは
アカプルコ」で「中央フリーウェイ」で、盛岡空港オープンの時にはまずお呼
びがかかるのである。
しかしね、「モリオカ」つー地名が「
ロシア語ぉ〜みたいに聴こえる〜♪」は、
聞こえないと思うぞ、絶対っ!・笑)

で、書庫を整理していたら昔懐かしカセットテープが出てきた。
しかもラベルイラスト手描き。



主線(おもせん)の細さから言って、たぶん画学生2〜3年のころだね、よく
ダビングしたテープを仲良しさんにあげる時はお互いイラストでオリジナル・
ラベル描いてたもの。

しかし、その内容は・・・・


「しょえぇ〜っっっっっっっ!!!!!!。私、オリジナル・ラベル描いちゃうくらい
聴いていたのね、ユーミンっ!」

クセ字は昔からだなあ(笑) 「NO SIDE」は良い曲だと思う。
荒井由美から松任谷由美にチェンジするあたりが好きだったみたい。
以上、「青春のバカ話」でした(笑)

 

六月某日「え、ブル?」

少女時代をすごした町に、再び引っ越してきて商店街を歩くと、
「ああ、この店はビルになったんだなあ」「あ、あの店はまだ昔のまんまだ!」
という既視感(デジャ・ヴュ)と、新発見の連続で、何とも不思議な探検をして
いるような感覚。

父が倒れる直前なのだが、商店街をそぞろ歩きしながら
「ああ、もう左手(私は左利き)が使い物にならないから、絵の世界には戻れな
いなあ・・・耳も悪いからテレフォン・オペレーターも無理だし、小学校4〜5
年生ぐらいの体力じゃ2級介護ヘルパーの資格も取れないし、杖を手放せないか
らスーパーのレジ係もダメかあ・・・・しかしなあ、生きている以上、何か働か
なくちゃ消費する一方で、精神的にも経済的にも納まりがつかんしなぁ。」
なーんてことを考えていた。

「う〜ん、座持ちのする性格だから、水商売でも・・・しかし年齢がねぇ。」
と、ふと見上げると左側の雑居ビル上の看板、
「熟女PUB・ノーブル」。

「ああ、私充分『熟女』だから、ホステスさんいいかも。」
と、今度は、はす向かいの雑居ビル見上げたら看板、
「熟女PUB・ルーブル」

・・・・・・・『熟女』って
ブルなのかぁ〜?(笑)



六月某日「え、丼?」

同時進行が得意な性格である。
(ただし「掃除」は除く。ん〜なモン修道院付属学校で一生分やったわよ・笑)
将棋や囲碁の名人は一瞬に百手くらい読むという、ま、それにはかなわないけど。
同時進行で7〜8つのこと位は出来るし、考えられるんじゃないかな。

新婚生活はむちゃくちゃ貧乏だった。(いまでも貧乏ではある、念のため。)
でもって修羅場のような台所で、2つ口のガスコンロは同じく貧乏だった友人の引っ
越し祝いに贈(や)っちゃって、鋳物のガスコンロ1つとあとは七輪のみ。
本の山を1メートル位掘ると電気式炊飯器が出てくるはずなのだが、同時に部屋中
本雪崩を起こすだろうから掘らなかった、という筋金入りなモノグサさんである。

前の晩にお米はといで水と一緒に無水鍋に仕掛けておく。
それと、みそ汁のだしは昆布と煮干し、時間があるときに切ったり頭とハラワタとっ
ておいて、これはアルミの小鍋にみそ汁椀2杯分とちょっとの水に一晩浸しておく。

さあ、ここからが本番だ。
朝5時半にベルが鳴る。 ガスコンロにマッチで火を入れ、炭火をおこして七輪へ。
ドッコイは電気カミソリに弱い肌質なので、アルマイトのまぁるいヤカンでお湯を
一杯沸かす。(温水器なんて最初からあるわきゃないボロ団地住まいだもんね。)
七輪では始めパッパで10分、チョロチョロで15分、途中でヤカンがOKになる
のでドッコイを起こして、顔を洗ってお湯でひげをあたってもらう。
コンロで昆布を一晩漬けなのでとって、(これは冷凍しといて、後日刻んで佃煮)
ガスで沸かして煮干しのアクをすくってその日の具を入れ味噌を溶いて、鍋敷きに
に置いた無水鍋の、平らな蓋の上に置いて保温&ご飯むらし。
その間にシャケを焼いたり肉を焼いたり、朝食のメインディッシュ作り。
洗顔を終えたドッコイの朝ご飯。 の、間に。
巻卵焼き焼いたり、ご飯弁当箱に詰めて窓際でさましたり、まーなんだか肉か魚の
弁当のメインディッシュ作って、野菜の添え物作って、ご飯に梅干し入れて、ごま
塩か「ゆかり」をぱらりと振って、ハイ朝ごはんとお弁当、一丁あがりッ、フ〜ウ。

てな具合である。 手際の早いのは母の遺伝である。

しかしね、どっか根本がスッポ抜けてんのよね。

父の付き添いから帰ってくると、服を脱ぎつつ、途中の買い物でもらったクーポン
券しまいつつ、暑いので顔洗いつつ、ポストの中身をチェックしつつ・・・・
・・・・・メガネがナイ。

ドアを開けてからの行動を思い出しつつ、はいリプレイ。
(これがもう近視兼乱視の私にはしょっちゅうのことで、消えたメガネを探す用の
メガネが5つあるもんね・笑)

・・・・・結論。 なぜ
台所の丼鉢の中に?


みなさまよい6月を!



            

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