日々是好日・身辺雑記 2006年3
(下にいくほど日付は前になります)

 
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三月某日「初めて自転車に乗れた日」

自転車、乗れますか? 何歳ぐらいで乗れるようになったか、覚えてますか?
私は小学校2年の、たしか冬。
そのころの私は、K介くんとK一くんとダブル婚約、まさに「両手に花」状態。
(ただし大人になってからコレやると、立派に「詐欺罪」成立しちゃうけどね・笑。)

K介くんとは秘密基地ごっこの(つーても、椿何本かの植え込みに、拾ってきた段
ボール立てかけただけ)メンバーの仲、
「オットコの中にオンナがひっとり〜♪」
なんてはやしたてられたって、だってウルトラ警備隊だってそうなんだもん、いいじゃ
ないの。近所にいくらでもあった空き地や雑木林を探検して回ったり、学校帰りに手を
つないで近所の麦畑の脇の道を歩きながら、童謡を大きな声で歌ったり。

K一くんは、新しくできた団地に、みんなより少し遅れて転校してきた。
(とにかく団地全50棟、出来るそばから人が越してくるのだ、あのころの首都圏を
ドーナツ状に取り巻く土地の新築ラッシュはすさまじいものがあった。)
彼は片足に、重たい、脚を伸ばしっきりにするステンレスのギプスをはめていた。
靴の底も、ちょっと前に流行った上げ底サンダルみたいなのがくっついていて、K一
くんが歩くとガチャン、ガチャンと金属音が校舎のリノリウムの床に響いた。

転校生のK一くんと私とはすぐに仲良くなった。
図絵工作の授業で出された画題「サーカスの象」の出来が良かったらしく、市の美術
展に私たち2人は担任の若い先生に
「展覧会に出すのだから、もっとしっかりクレヨンで塗りなさい」と特別居残りを命
じられたのだ。 先生が席を空けたあいだに、私たちはおしゃべりをした。
「その象、かっこいいね、K一くん。」
「のんちゃん(そのころの私のあだ名)の綱渡りしてる象もおもしろいよ。」
「先生、『展覧会用にもっと色を強く塗りなさい』ったって、あきちゃったよ〜。」
「ぼくも・・・・あ、そうだ、2人で絵を取り替えっこして塗ろうか!」
「いいね♪ やろうやろう!」
先生が戻ってきて大目玉くらったが、(そんな「金賞」とか「市長特別賞」なんて狙
うもんじゃないよ、楽しく描ければそれでいいじゃんと今なら胸張って言えるけどね。)
「のんちゃん、ウチへおいでよ。 ぼくの宝物見せてあげる。」

それはみごとな鉄道模型だった。 目に入れても痛くない一人息子に、
「外で遊べないならせめて。」
と、お父さんお母さんが買ってくれたのだった。
土日に遊びに行くとご両親揃って大歓迎してくれた。
広い6畳間いっぱいにレールを広げて
「こないだ新しく切り替えポイント買ってもらったんだ」
「じゃあこっちに引き込み線作ってみない?」
「うん、じゃ今日は4両編成で走らせるね」
コントローラーを操作するのは彼の役目。 私は寝転がって視線をうんと低くして
目の前のカーブや向こうの駅舎のホームをミニチュアの電車が走っていくのを眺め
る役目。
「こんどはここのポイント切り替えるよ、電車そっちから行くからね」
「うん、あ、きたきた! ねえ、ここはどうやるの?」
「鉄橋渡ってクロスするんだ。 ほら、ね。」
「わぁ、すごいすごいよK一くん!」

今にして思えばK一くんの家は決して裕福ではなかった。
少ない家具、お父さんの吸うタバコの煙で汚れた壁、月に一度歩けない息子をおん
ぶしてお茶の水の大学病院まで通う、とても小柄なお母さん。 難病のK一くん。
でも、遊びに行けばいつも明るく歓迎してくれた。
「のんちゃん、ボクの脚、大人になったら治るんだって。 だから結婚しようよ。」
「うん、いいよ!(あ”ーダブル婚約成立の瞬間だわこりゃ)」

K一くんの家の前は公園だった。
私たちはギプスを曲げないでいい程度に外で遊んだ。シーソーや小山登りや回旋塔。
「ねえK一くん、あたし悩みあんの。」
「なに?」
「自転車片補助でしか乗れないの。 かたっぽの補助輪はとれたけどもう片方がど
うしてもとれないんだ。 片補助だとスピードでないし、遠くまでいけないの。」
「じゃ、補助なしに乗れるようにぼくが後ろを支えてあげるよ。 自転車もってき
なよ、公園で練習しよう!」
そのころの自転車の補助輪なんて今に比べたらずっとチャチイ造り、足でもって後
ろにガンッと一蹴りすればそれでよかった。
補助輪なしの自転車に私はまたがり、後ろの座席をK一くんがつかむ。
「大丈夫だよ、ぼくが支えてるから漕ぎだしてごらんよ、さあ」
「しっかり支えててねK一くん。」
「大丈夫だよ。」よろり、よろよろと走りだす自転車。
「のんちゃん、もっとスピード出せば安定するよ。」
「ちゃんと支えてくれてる?」
「支えてるよー。」
スピードを増した自転車はすいすい進み出す。
「支えてくれてる?」
「支えてるよー。」
「支えてくれてる?」
「支えてるよー。」
     
振り向いたら何十メートルも後ろでK一くんは笑いながら手を振っていた。
考えてみたら、私に「自転車の乗り方」を教えてしまえば、私の機動力はずっと増
して、ギプスをしたK一くんと家の中で遊ぶ機会は減ってしまうんである。
それを承知で、
「自転車に乗れてよかったね!」
と、にこにこ笑って手を振ったのだ、K一くんは。  

中学の時から私は超遠距離通学朝5時起きになり、彼は電車好きが嵩じ
て工業高校へ
進み、2人の間は疎遠になった。
昨年彼のお父さんが亡くなって、斎場で私たちは再会した。
とっくにギプスははずれ、大手鉄道会社に勤め、結婚して2児の父、家を建てて千葉に
暮らしているという。 ああ、私は男を見る目があったなぁ、だってあそこまでペ・ヨン
ジュンそっくりになっているんだもん(笑)。

私は「男の子」というものを知っている、大切な人の背中を一歩前に押し出してくれる
温かさと勇気を。 笑顔のK一くんが、私の思い出の中で手を振っている。 

 

「三月某日「おおきなまくらさん」

真宮寺まくらさまのとこで、特大まくらにつまずきました(笑)
題して「漢字バトン!」
ふだん私はまくらを2つ、ひとつは「抱き枕」にして、ほっぺた
すりすりして眠るたちです。 ここはひとつ盛大にいきましょう!(ぉ〜

1.バトンを回してくれた人に対して持つイメージの漢字は?
回ってきたのではなく勝手に拾ってきたのですが、まくらさんの
イメージは「お茶目な紳士(ジェントルマン)です」。

2.前の人から回ってきた漢字に対して自分が持つイメージは?
(回ってきたのではなく「勝手にひろってきた」のですが〜)
領:泣く子とご領主さまにゃ勝てませんがな。
収:収納家具を買ったはいいけど収納しきれない我が部屋。(あぁぁ)
書:書くことは大好きです。

3.自分が大切にしたい漢字を3つ
愛:愛は心の仕事です。
温:穏やかなあたたかさは大切にしたいもの。
樹:「となりのトトロ」で樹がどんどん伸びるシーンを見ては、毎回泣きます。

4.漢字のことをどう思う?
奇跡の言語文字。
象形文字と象意文字があわさって、右脳左脳両方が両方とも発達するそうな。

5.最後にあなたの好きな四字熟語を3つ教えてください
整理整頓(できるもんならしてみやがれッ!の我が家です・笑)
七転八倒(実はひっくり返すと単に自分の名前だったりする)
深酒厳禁(ったくもう・・・!)

6.次の人に回す漢字を3つ
清 正 美(って、まんま宝塚やんか〜!)

7.バトンを回す人、その人をイメージする漢字を
興味を持たれた方はどうぞご自由に! ジャンジャカやって下さい!!


三月某日「最近感動した言葉」

「子供の体の70%は水です。水に『勉強しろ』ったってむだです。」


三月某日「越境おでん屋台」

おでんの屋台のおじちゃんは、いったい何年前からそこに居たのだろうか。
少なくともJR古淵駅が出来る頃(つまり「国鉄最後の日」には、そこにいたはなぁ・・・。)
スーパーの建物のかげで、寒風よけのビニールシート張って。
小型の発電機で灯る白熱球、ベンチ、椅子代わりのビール箱をひっくり返したの。
「おじちゃん、がんもとこんにゃく。」
「あいよー。」
ウトウトしていたおじちゃんはおでん鍋に玉杓子をつっこむ。
「あ、おれも昆布と玉子ね。」
「あいあい。」
誰も酒を注文しない。 酒瓶は重いからね、持ってきてないの(ただでさえ汁ものたっぷんたっ
ぷんのおでんの屋台だもの。
すぐそこに橋がある。 橋をわたれば神奈川県。 コンビニが橋のすぐ横にある、お酒コーナー
で客は自分で酒を買ってくるのだ、こんな小さな屋台でも、おっちゃんがどんなに居眠りしてい
ても、タダ喰い逃げはなかったようだ。

いっぺんだけおじちゃんの屋台をよそで見かけたことがあった。
急坂の上の木造モルタル2階建てアパート前に据えてあった。 こんな急な坂をおじちゃんは
下ってくるのか。 こんな古びたアパートの台所で、下ごしらえしてくるのか。
ああ、とにかく、人間生きていかにゃならんと、私はちょっとだけガッツポーズ決めてみたりする。

私は越境通学で、明治生まれの「先生&シスター」だらけな学校で育った。
今年創立106年だってね、ふうん、そんなに長く、よくもったもんだは。
明治生まれの先生&シスターと沢山言葉を交わした、それは私の財産である。
たとえ中辞典4冊&教科書・ノートが鞄にどっしり入っていての越境通学でも。

居眠り越境おじさんのおでん屋は今日も大盛況である。
年のうん〜と違うコートの背丸めたおっちゃんと、スカジャン(横須賀の、米軍用おみやげに刺しゅ
うバチバチ指したジャンパー)羽織った兄ちゃんが、真面目に人生論なんかしてる。
世代を変えて、肩を並べる。
私たちには、たぶんきっと、それが必要なのであるからして。



三月某日「拾ったバトンで」

いますぐッなバトンをどこからともなく拾ってきました。
題して「見たらたらすぐやれバトン」
1・今どこにいる?
  ・寝室兼iBookG4専用置き場(6畳間)
2・今近くに誰がいる?
  ・(相棒こと)ドッコイが寝息を立てております。
3・今どんな服装?
  ・3足990円の黒靴下、灰色のパジャマの下(大病したとき実親が買ってきてくれたもの)
   上は20年も前の墨色に黒白霜降り柄のシャツ&ドッコイのお婆さまが縫ってくれた形見の
   綿入半纏(はんてん)紫の総絞り柄で、真綿を入れているのでとっても軽く薄くて暖かい。
   (う〜ん、我ながらおしゃれなんだか単なる「ぞろっぺい」なんだか・・・悩む。)
4・今何食べたい?
  ・花見だんご。
5・今何飲みたい?
  ・願わくは宇治茶を一杯。
6・後ろには何がある?
  ・洗いっ放しの洋服の山と本の山、その奥には1920年ごろ制作のアールデコ・デザインの
   本棚、の上になぜか置いてある金鳥蚊取渦巻きのカン。
7・周りを見まわして、目に付いた物は?
  ・本の山と画板代わりの木の浴用椅子。
8・今誰に会いたい?
  ・21才で焼身自殺しちゃった、同い年の又従姉妹・佐和子。
9・その人に伝えたい事は?
  ・「生きていれば、楽しいことだっていっぱいあるんだよ。」
10・今一番歌いたい曲は?
   ・「有楽町で会いましょう」(フランク永井)。
11・今頭の中でパッて思い浮かんだ言葉もしくは台詞は?
   ・「美少女仮面ポワトリン

12・今の体調は?
   ・薬による治療&リハビリはまだまだ続きそうですが、とりあえずは元気です。
13・今どんな気持ち?
   ・「この『コンピュータ』って、ホントに変てこりんな電気カラクリ箱だなあ」。
14・今すぐこのバトンをやってもらいたい人
   ・「まくら大戦」の、gifアニメの名手・真宮寺まくらさん(よろしくおねがいします)
  (そのほかの方も、拾うなりスルーなりご自由に)



三月某日最終列車のテールランプ」

訃報:
「久世光彦さん死去:「時間ですよ」演出・周五郎賞
テレビドラマ「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などを手がけた演出家で作
家の久世光彦(くぜ・てるひこ)さんが2日、虚血性心不全で東京都内の自
宅で死去した。70才だった」(朝日新聞2006年・3/3朝刊より)
ちょうど「寺内貫太郎一家」のDVD・BOXを買って(詳しくは当サイト20
06/2月の書き込み「ジュ、ジュリィ〜〜〜ッ!!」をご覧下さい)まるで
「下戸の晩酌」のように毎日チビリチビリと楽しみながら見ていた私は、本
当にビックリした。(4枚組のうち、ちょうど2枚目を見終わったところだっ
たので。)長い苦しみではなかったことが、せめてもの幸いだったのか。

まったくもって、久世さんという人は「脚本家・向田邦子さん」と出会うべ
くして出会った人で、名人中の名人だった。 久世さんというやじろべえの
支点がなければ、向田さんのポジションも変わっていただろう、それは間違
いのない事実だと思う。
民放出身者としては初めてNHKドラマを演出。 92年に「花迷宮」などで
芸術選奨文部大臣賞を受賞。 「蝶とヒットラー」でドゥマゴ文学賞を受賞、
作家としても活躍。 しかし「山本周五郎賞」も「泉鏡花賞」も、別に客間
に飾る盾やトロフィーじゃなかったんじゃないかな、この人にとっては。

死んでしまった恋人の遺していった着物でパッチワークを縫うみたいに、
「原作・原案:向田邦子:演出・久世光彦」で向田さんの死後スペシャル・
ドラマを創り続けた、まるで宝物のソーダガラスのビー玉を、ひとつひとつ
手にとっては、飽かずに陽にかざして見続ける少年のように。
(嬉しいことにこのドラマ25本はすべてDVD化されて、販売されている。)

「寺内貫太郎一家」のDVD・BOXに添えられた「爆笑問題」の太田光さん
の言葉。
「寺内貫太郎一家というドラマは、人間の愛情も、憎しみも、嫉妬も、優し
さも、暴力も、全てを盛り込んでお茶の間にさらけ出して見せたドラマ。
子供だった僕は、当時これを家族でゲラゲラ笑いながら観た。 今から考え
ればこれは向田さんにしか出来ない奇跡だと思う。」

久世さんは、向田さんという名の自転車の、もうひとつの車輪だった。

「テレビドラマ「寺内貫太郎一家」に出演した小林亜星さんは、「人の心の
ひだの裏側を理屈でなく分かる人だった」と悔やんだ。
(2006年・3/4朝日新聞「天声人語」)確かに人生の機微を切れのいい文
章でつづり、卓抜なテレビドラマにした。 描いたものは人々のひだであり、
時代のひだでもあった。(中略)いっときも止まらずに流れてゆく年月の中
で、記憶にある日々を形にしてとどめ、後の世代に伝えようと力を尽くした。
久世さんは、いわば昭和という名の列車にともる後尾灯だった。 一筋の光
跡を描きながら、その列車が遠ざかってゆく。」

「時間ですよ」(銭湯が舞台)の初期、室内撮影した「梅の湯」という銭湯は
ウチの近所で営業している。TBSの「緑山スタジオ」からすぐ近場でいい
銭湯だったろうからね。古い、目立たない地味な「銭湯」である。)

久世光彦さんのご冥福を心よりお祈りいたします。



三月某日「65億人目の赤ちゃんへ」

アメリカ商務省センサス局の「世界人口時計」が2006年2月25日午後7時
19分(日本時間26日午前9時19分)、65億人を突破した。(by毎日新聞)


ただし推計値のため実施機関によってばらつきがあり、「60億人突破」
の時には、アメリカの発表と国連の発表とには4ヶ月ほどズレがあった。
(米は「1999年6月1日」、国連は「1999年10月12日」だった。)
今回「65億人」の発表も、さらに差が広がるものと予想される。

人類の、「人口」なんて大つかみなもの、私たちの大好きな「サクラ大戦」
の「太正時代」、カンナやマリアが生まれた20世紀のスタートする頃には、
地球上の人間の数はたったの10億人(推定)だったのだ。
20世紀の最初の日、どれほど空は広かったかしら、どれほど海は青かった
かしら、どれほど森は緑深くしたたるものだったかったかしら。

国連の「60億人目」は1999年10月12日、ボスニア・ヘルツェゴビナに
「その日最初に生まれた赤ちゃん」だった。
1992年から1995年まで続いた「旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」
の、あの悲惨な争い「ボスニア紛争」の傷もまだ癒えぬ頃だ。
あなたはいま5才よね。 毎日幸せに、元気に楽しく暮らしているかしら?

65億人目の赤ちゃんは、この広い世界の、どの国に生まれた(あるいは生
まれる)のだろう。
(今回の誤差はおおよそ5ヶ月位、と私は踏んだけどね。)
飢えもなく戦争もなく自然による災害もなく、宗教や民族間のいさかいも
ない「やさしい国」の赤ちゃんだったらいいな、などと私は祈る、どの宗
教の神さまでもない、この「地球」という小さな星の名の神さまに、祈る。

65億人目の赤ちゃん、あなたの人生が、どうか幸せなものとなりますよう
に。 そう、私たち「人間という生き物」が存在するという、その名にお
いて。 あなたが、この星に生まれたことを誇りに思い、人間を愛し、こ
の「世界」の幸福を祈る人となってくれますように、と。




三月某日「桃の節句に生まれた人に」

1月1日に生まれた人は
「お誕生プレゼントとお年玉と兼用で渡されるので、元旦なんぞに生まれ
るもんじゃないねぇ。」と言ってた。
8月31日に生まれた人は
「(東京方面の公立校夏休み最終日にあたるので)宿題の追い込みの日に
なんて生まれちゃったから、一度も『お誕生会』ってしたことないのよ。」
とため息ついた。 クリスマスイヴ生まれの人は
「だって、お誕生ケーキとクリスマスケーキ、ふたつ一緒には食べられな
いわよ、胸やけしちゃうわ。」
とケラケラ笑った。

Y先輩は「3月3日生まれ」だ。
お父さんはビックリするほど大きな会社の社長さんで、しょっちゅう
「ああ、お前が男にさえ生まれていたらなぁ。」
とため息まじりに聞かされ続けて育ったもので、
「へえ、Yさん『おひな祭り』生まれなんですねぇ。」
と私が言うと、
「やめてよもう、嫌だったらありゃしないんだから。」
と苦笑まじりに答えた。 きっとお役所の窓口や銀行のカウンターとか
「生年月日」を訊ねられるたびに、
「おや、桃の節句のお生まれなんですか」
と言われ続けたのだろうね。

でもねYさん。」
と私。
「ばあちゃんの言うことには、本当の『ひな祭』は3月4日だったんだ
そうですよ。 3月3日は、お座敷飾に飾った人形のおひなさまにご馳
走をお捧げして、翌日3月4日が『ひなおろし』。 昨日のご馳走詰め
た重箱とゴザ持って、家族みんなで家の後ろの小高い丘に登って、ご馳
走食べたり、花を摘んだり、海を眺めたりして遊んだんですって。
もう百年近く昔のハナシなんで、いまでも『ひなおろし』の風習が残っ
ているかどうかは分かりませんけれどね。」
「へぇ〜、そうなんだ。」
Y先輩はまんざらでもない様子。
ちょこっとだけでも、「自分がこの世に生まれた日」を好きになったか
なあ、などと私は思う。
ちなみに私の誕生日は5月13日。 コメディアンの由利徹さんといっ
しょ。 なんだかちょっと嬉しかったり、する(笑)。



三月某日「屁をしても・・・

おもしろくもなし ひとりもの」というのは、私の好きな古川柳ではある。
これを尾崎放哉が詠むと「咳をしてもひとり」なんて孤独詩になるわけで、
命の淵の知れぬ深さとは、しょせん「笑い」のコインの裏側にあるものだ。
何も陰りのない人なんかいないだろうし、もしも本当にそんな人がいたな
ら、多分私はその人と仲良くはなれないだろうなぁ、などと思う。
マインド・コントロールを受けているか、ある意味ホンモノの「考えなし」
だろうからね、きっと。

そんなこんなで今回はバカバカしくも「屁(ヘ:オナラ)」のハナシ。

江戸時代は長く続いた鎖国とひきかえに平和のもたらす「ヒマ文化」なん
てものも生み出してくれた。 漫画「耳かきお蝶(湯浅ヒトシ・双葉社)」
は「耳かき屋」なんて商売を描いているし、もっとすごいのになると、何
も持たずに「え〜、ネコのノミ取り〜♪」なんて言いながら町内を流し歩
いていたってんだから楽しい。(縁側なんかに腰かけて、飼いネコ抱いて
プチプチやってたんだろうねぇ、たぶん)
医学の方も、世界初の麻酔医・華岡清州や「たーへる・あなとみあ」が出
る一方で「養生訓」の貝原益軒(これ書いたのが八十三才の時ってんだか
ら、当時としてはスゴイじいさんだねぇ)や、本のタイトルは忘れてしまっ
たが「年頃のぶらぶらやまいには核(さね)せんずりなどさするが良し」
なんて育児書が出ている。
(まあ、つまりなんだ、その、思春期の、ですね、もの想いばかりでやや
こしいお年頃にはいっそすっきりオナニーをさせなさいっちゅーこっちゃ
ね、これは。 おお、前衛的だ!

そんなおヒマな時代に「屁の音による健康判断」なんてのも出てて(これ
またタイトルは忘却の彼方さね、我ながらアホなことばっかり知ってるね)
「ブンブキュウスウピ」ちゅーんである。当て字は、えーと「文武窮芻貧」
だったかなあ、とにかく「健やかなるときは文武(ブンブ)と鳴る」って
のが、好きね、あたしゃ(笑)。
そうよ「イタチの最後っ屁」じゃないけど、すかしっ屁の「スウ」っての
はニオうものだし、「ぴい」と鳴ったら厠(かわや:トイレ)へ駆け込ん
だほうがよろしいともさ。

ドッコイも「文武派」である。 寝転がってるかたわらで私がせんないこ
とをブツクサ言ってると、くるりと反転、こちらにシリを向けて
バボン!」と一発かましあそばす。
それが答えかえ?」
と問うと
「そうじゃ。」
とぬかしよるのである、ああ、こやつめと一緒になって11年。

私たちには子がいない。 つくらなかったのではない、さずからなかった
のだ。 子供がいればまたバランスは変わってくるのかもしれないが、私
たちは、それなりに「連れ添うコツ」を掴んだパートナーではあるなあと
最近しみじみ思う。
よく聞く「2人でいると悲しみは半分、喜び2倍」なんて結婚式のスピー
チの定番だけれども、長い歳月一緒にいると、もう少し悲しみやそれぞれ
の孤独は深いものだなぁ、というのが、おばちゃんの実感である。
以前も書いたけれど、私たちは傷だらけだ、世の中のだれかに傷つけられ
たのだけじゃなくて。
「生きている」ということ自体が、たぶん傷だらけで悲しいものなのだ。

人は泣きながら生まれてくる。
笑うのだ、悲しい人はよく笑うのだ。
ぜだろう、そんな単純ことに、気づくのがこんなに遅いなんて。

男と女、男と男、女と女、夫婦でも恋人でも仲間でも友だちでも年上でも
年下でも、パートナー」というのは、明るく楽しく、そして悲しく淋し
い人間関係である。
七十年も一緒にいた養母とそのパートナーを見て育って、看取って、やっ
と、少ぅしだけ見えた気が、分かった気が、する。
遅すぎたとは、思わないけれど。

生きていくことは、逞しく強く、同時に、はかなく傷つきやすいことだ。
それでもみんな生きてゆくのだろう、笑いながらね。

淋しくせつない分だけ、明るく楽しく仲良くして、あとはそれぞれの世
にそっとしておくに限るね、でないと孤独の刃(やいば)で互いに傷つ
合ってしら。
私たちはいちゃつかない、互いに「甘え強請(ねだ)り」はい。
互いの流した血で出来たカサブタを剥がすときこそ2人分痛いだと、も
うとっくに分かっているから。

「ねえ、おならするから聴いて」
「ほいよ」
と、ドッコイは言う。 バボン!
今日も私たちはただのバカ者同士、「文武(ブンブ)両道」である。
(実はこの雑記、2月にみごとに流行りの「胃腸に来るノロウィルス風邪」
にやられて、先行して書きためておりました。 みなさまお腹を大切に。
ちなみにノロウィルスには緑茶が効きますのじゃ。)

 

三月某日「私の好きな歌手・その2・ジュリー・アンドリュース」

さてさて、二月の雑記にも書いた通り、私はジュリー・アンドリュースが、
ものすごく好きだ。彼女は歌手であり、女優でもあるので(ミュージカ
女優なのだが、ヒチコックの「引き裂かれたカーテン」や、「ハワイ」、
「卑怯者の勲章」など歌のない映画にも主演している。)単純に「歌手」
は言い切れないのだが、「奇跡の4オクターブ」は少女時代からで、ポ
リープの手術に失敗して、歌なしの「プリティ・プリンセス」の続編「プ
リティ・ プリンセス2」では、音域は限られてしまってはいるが、しっか
り歌っているんである。 「プリティ・・・」は、「2」が作られた位で
あるからして、 確かにおもしろいよ。 レンタル屋さんにあったらおすす
めである。

中学生くらいで、名画座で「サウンド・オブ・ミュージック」を観たのが最
初じゃないかな、校則で「映画館父兄同伴」なので母について来てもらって。
(笑える校則ではあったな、「撞球場・卓球場・ダンスホール・ミルク・ホ
ールへの出入り禁止」ったって、今時どこにあるさね「ミルク・ホール」?)

「サウンド・オブ・・・」での彼女は「見習い修道女」役だ。
ただでさえ、私は「修道女フェチ(オイオイ)」なんである。 中一の時の宗
の授業の恩師が(ミッション・スクールだったのです)ものすごくリベラ
で聡明な修道女だったので。 その人はいま海外、フィリピンのマウンテ
ン・チドレンたちのための施設にいる。 当時「将来は結婚」と考えてい
なかっ私は、ばーちゃんの介護が終わったら、本気で美術の教職シスター
になっ(美術って、ほら、語学が堪能じゃなくても教えられるから)フラ
ンス語のアフリカにでも行こうかと考えていたのである。
ところがどっこい、気がけば結婚11年目に突入せんとしている。
ヘンだな、今頃修道女になってカメルーンかコートジボアールあたりにいる
はずだったのが・・・
と思いつつ、ドッコイの太平楽な寝顔をながめたりする。
「しあわせ?」と尋ねたら「うん」と寝言でお答えあそばしたので、まあ良
しとしようか。
(この「まあ良しとしよう!」と「もうけたと思おう!」は私の2大人生訓
ではあるね)

いやしかし、ジュリー・アンドリュースへのボンノウは何年かに一度、しっ
かり芽をだすのだ。 まずはお小遣いを貯めて「ブロードウェイ版・マイフェ
アレディ」のLPを買った。
なにせ貧乏だったので「サウンド・オブ・ミュージック」の方は後にしようと
考えた。 CD版を買えたのはそれから10年以上後である。 〈そのうち〉な
んてそんなもんよ。

彼女の初来日は77年である。 7カ所でコンサートをやって、それがすぐLP
になった。 が、NHKのFMでも放送してくれた。 その頃の私のお小遣いは
フレンチ・ポップスのレコード買うのにいっぱいいっぱいで(自分でも信じら
れない、ABCも最後までいえない私がフランス語専攻で卒業しただなんて)コ
ンサートルバムはテープに録音してそれを宝物のように聴いていた。
LPはそのうち買える、なぜならいつもレコード屋さんにあるからと思っていた。
が。 80年代に入ってCD化が急速に進んで、結局そのLPは幻になってしまっ
た。 だーかーらーぁ、〈そのうち〉なんてそんなもんである!
古レコード屋でなんとか「暁の出撃」と「モダン・ミリー」のLPを掘り出した。
それが精一杯だった。 が。

2005年になって、ネット・オークションで私は幻の「来日記念コンサート
LP」を見つけ出し、競り落とすのである。 他にもいろいろ。  ああ電脳化。
こんなパソコンなんて「電気カラクリ箱」ワケわかんなくて、いつも大騒ぎし
いるのだが、こーゆーときにだけはしみじみ便利である。
なんとこのLP、最初に出会ってから数えて20年たっている。
(途中でテープに寿命が来て、聞けなくなってから泣いたわよ。 そうよ〈その
ち〉なんてそんなものよッ!)
ああ、いのち短し煩悩せよおとめ。 私は「12〜16才のこどものお小遣いを
割り増しせよ」という法案を作ってもいいぞ、本とCDに限っては(だって、まだ
アルバイト出来ないでしょう)。 音楽も書物も、若い頃に良いモノに出会うと
心の芯に残り、後々活きると思うからね。

今では、オークションのうちジュリーの古いLPに限っていえば、かなりの数落と
してます(って、そもそも出数が少ないのだけどね)。 四十過ぎて、やっと私
にもそれだけのゆとりが出来たってこと。 ああ、でもやっぱり、美しい歌声
聴けてしみじみ幸せである。

今では街のレコード屋さんは面積が限られていて、売り場で見つけることが
でき
のはせいぜい「サウンド・オブ・・・」と「メリー・ポピンズ」位なもんだが
さすがディズニー強し!)インターネットではいろいろ取り寄せることが出来
す、CDの数々。 ブロードウェイ版の「マイフェアレディ」をお勧めします。
(映画版のはオードリ・ヘプーン主演で歌は吹き替え)
あとやっぱり名盤なのは「サウンド・オブ・・・」だなあ、これはもう名作。
CDも映像も。

「動物モンと子役にゃ勝てない」という言葉がありますが、これは「子役ゾロゾ
ロ」なのに、しっとり大人のロマンスしてるのだからして。
これ撮影してる時、彼女はたぶん(65年公開だから)29才!?
わ、わかんない、師範学校卒業した21〜2才にしか見えない!!
ちなみに長女リーズル役のシャーミアン・カー(キラキラ光る水色の瞳が魅力)
16才役なのだが実は21才。 見、見えない〜!

欧米人女性は普通アジア人の我々にとって実年齢より年配に見えるものだがこの
2人に限っていえば、今流行りの「アンチエイジング」の先駆けですな。

音域は狭くなっても、ジュリーは私にとって「永遠の歌姫」なんである。
いや、天賦のオクターブが失われた今こそ、私はジュリーの今の歌声を聴きたい、
技を観たい。 長生きしてね、ジュリー。
(この人の夫のブレイク・エドワーズ監督や、シャドウ・シンガーの名手マーニー
ソンについては、いずれ、また。)



三月某日「説明書ォ〜!」

しかしまだまだワカンナイことだらけなのである、この「電気カラクリ箱」。
ってなわけで、お引っ越しした iBook G4 のなかで、今日も迷子しております。
いつアップできるのかね、この文章。
iMac のPage Mill とはまるで文法が違うので、今日もポチポチ打っております。
はやいとこ慣れなくちゃねぇ。

しかしなぁ、生まれて初めてパソコンちゅーヤツに触れたのは大学生の頃で、
一夏かけて三宅島の別荘でとーちゃんと「サイコロ賭博のソフトを作る」と
ゆーのをプログラミングしたのですが、そのとき思ったその1・この「パソ
コンちゅーヤツ」は将来もっといろいろなことが出来るようになるに違いな
い(なんせ液晶で二十行位しかない、今にして思えば現在のケータイなんか
よりずっとチャチいシロモノだったのだよ)というのはみごとに当たったが、
その2「今よりもっとカンタンに操作できるようになってるに違いない」
という予想はおみごとにハズレたね。  いろいろ機能が増えた分、覚えなく
ちゃならないコトも増えたわけで、しかも増えた分ちょっとしたトラブルも
増えて、その対処方法も覚えねばならず。  取り扱い説明書はどんどん分厚
くなり。

モノは違いますが、先日DVDデッキをついに買った!のですが、「取り扱い説
明書さま」 が百ページ越えていて、アタマ抱えましたね、さすがに。
未だに全然分かんないので、大好きな小林聡美さん主演の「神はサイコロを振
ない」が録画できまへん、トホホ・・・。



三月某日「木の鐘の引っ越し」
   
きょうはここでおしまい。むうう。←なんとか文字を打てましたぜ、師匠!
というのは現在Page Mill3.0からGo Liveへお引っ越しの真っ最中なのだ。
毎週来てくれるのはトト師匠である。 この方、現役の大学のセンセイである。
なんて贅沢なのだ、こんな私一人で先生ひとり占め!
というか、なんていうかな、あまりにもできの悪い生徒は、実は8月の終わり
から、毎週一日パソコンのお勉強をしております、がまだこの「電気カラクリ
箱」のこと、ちーっともわかりません!
この出来の悪い生徒さんは悲しいことに視覚と位置でしか物を覚えられず、ア
ルファベットと数字のリストがま〜るで分からない。
自分でも事故でアタマ打ったときから、識字障害があるなあとは思っていたが、
ここまでとは・・・なおバカっぷりなんである トホホのホ・・・

しかし、師匠は辛抱強くかつまた優しい性格なので、なんと毎週お昼とおやつ
まで持って、遠くから通ってくださる。

「お引っ越ししました、こちらをクリックしてください」のタートルネックを作
らないために、何というか、ものすごくめんどくさい手間作業を引き受けつつ、
方で劣等生のためにiMac から iBookG4への使い方(ああ、「ごーらいぶ」は
しいもさ!)を一生懸命教えてくれたのだ、ありがたい。
(なんせウチの iMac さまはブリザードの嵐、氷結ばかりで、もうメールもサイ
見るのも iBookG4さまがやってくれてて、 Page Mill3.0以外は使えないので
ある からして。)

フランス語で夜逃げのことを「木の鐘の引っ越し」という。
そのココロは、「音が出ません」なのだが、(「笑点」みたいだね、お〜い山田
くん一枚!)このサイト、ちゃんと「木の鐘の引っ越し」しているだろうか?


みなさまよい3月を!




            

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