日々是好日・身辺雑記 2006年2月
(下にいくほど日付は前になります)

 
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二月某日「春」

私の暮らす南関東(東京のはしっこ)では、二月の末の今日、桃の花が
ほころびはじめた。
誰が教えてくれたのだっけ、「桜は『咲く』、梅は『ほころぶ』、椿は
『ひらく』。 桜は『散る』、梅は『こぼれる』、椿は『落ちる』。」
「鐘の音(ね)は、『鳴り』『響き』『渡る』。」

バスに乗って、いつも通る道のお稲荷さんの境内の、鮮やかな桃の色を
眺めながら、咲く美しさにも散る美しさにも、きめ細やかな言葉がこめ
られているこの国に咲く花の、「幸せ」なんかを考えていた。

「耐え渡って越える」冬は終わり、さあ、春が始まる。
♪春は名のみの風の寒さよ♪って曲は「早春賦」だったかしら?
桃の木に桃の花咲く、なんの不思議もなけれども。

春である。


二月某日「ジュ、ジュリィ〜〜〜ッ!!」
   
ワハハ、2月のお楽しみは、実はこれから送られてくるDVD「寺内貫太郎
一家BOX」にもあるのであった!(下旬だね、たぶん)
         
ああ、私は小林亜星が卓袱台ひっくり返すシーンが観たいのだ、西城秀樹
の、あの「お代りごはん投げ」の名人芸が観たいのだ、「さっとこさぁ〜
ん!」と言われて、廊下パタパタ走って行く加藤治子が観たいのだ。
そして何より!
樹木希林がポスターの前で「ジュリ〜ィ!」と身もだえするあのシーンが!
       
「寺内貫太郎一家」は、考えてみたらとんでもなく贅沢な顔ぶれなのであっ
た。 脚本はあの向田邦子!プロデューサー兼演出が名人・久世光彦だし、
伴淳三郎に由利徹、左とん平、篠ひろ子、藤竜也と芸達者揃い踏みである。
なかでも「ジュリ〜ッ!」のシーンは毎回のお約束で、なんと本物のジュ
リーが出る回もある。「1」と「2」とあるから、今回観られるかはわか
んないけど。
割烹着にひっつめ髪のキンばあさん役の樹木希林さんは実は当時まだお若
くて、あの指先だけ切った「ばば手袋」は若々しい手の甲が映らないよう
にという苦肉の策だったと聞く。
お約束のホームドラマなのに、そのお約束をひっくり返したおもしろさが
あって、朝ご飯のシーンでキンばあさんは長い満員御礼の座卓の正面に向
かって
「何で朝ご飯のとき、こっちには誰も座らないんだろうねえ」
などとシレッとしてつぶやくのである。
だーかーらー、そこは1カメ前だってばっ(笑)。
    
朝食のメニューがテロップで流れたこともあった。
当時は今ほど「消え物屋さん(フード・コーディネーター)」が細かく計
算していなかった。 朝ご飯のお膳に「あればいいや」ってカンジで紅しょ
うがの丼鉢盛りが据えてあって、
「いくらなんでも朝からあんなに紅しょうがは食べません!」
と困った向田さんが、献立を指定してきて、それがあまりにもよく出来て
いたので、もったいないからテロップで流そうということになったそうだ。
「寺内家の今朝の朝食:アジの開き、里芋の煮っ転がし、佃煮、らっきょ
う、たくわん・・・・・(最後に)夕べのカレーののこり」
この「夕べのカレーののこり」が、脚本家としての向田さんの腕のすごい
ところなのだ。 テロップが流れ終ったとたん、TBS局の電話は深夜まで
「あのメニューを教えて下さい!」と鳴りっぱなしだったそうだ。
(久世さんがエッセイで書いている。 たしか「ふれもせで」収録だと思
うけど、ちがったかな?)
    
キンばあさんが叫ぶ「ジュ〜リ〜ッ!」、お若い方のために書き添えると
もとGS(ガソリン・スタンドじゃないのよ、グループ・サウンズのことよ)
「タイガース」の歌手の沢田研二さんのことさ。
もんのすごい美しくパワフルな声の持ち主で、あの作詞家の阿久悠さんを
もってして
「生涯仕事をしたいのはふたり、岩崎宏美と沢田研二です。」
と言わせしめてしまう(「A面B面」ちくま文庫)くらいの実力派、現在昔
の曲を集めたCD「ROYAL STRAIGHT FLUSH」が1〜3まで出ている。
(「1」をお勧めします。)
なんでアダ名が「ジュリー」なのかというとミュージカルを中心とした名
女優「ジュリー・アンドリュース」のファンだから、ということで、実は
こっちの「ジュリー」も私は大好きなのだ。
インターネット・オークションでついに「来日コンサートLP」競り落とし
ちゃうくらい、私はジュリー・アンドリュース好きだ!
    
あぁ、「ジュリー・沢田研二」に、「ジュリー・アンドリュース」に「寺
内貫太郎一家」にと、我が煩悩のタネは尽きない2月ではあるなぁ、我な
がら。
    
     
    

二月某日「ピノキオの人」
   
私はほんの短い期間、ある人に「漫画の画面構成法の基本」を教えていたこ
とがあった。 (お名前も、住所も失念してしまったが)
彼が「プロ志望」だったので(当時私はプロ17〜8年選手だった)かなり
いろいろ、専門的なことをアドバイスした。
だが彼は、アップ&バストショットまでは抜群でも、胸から下のデッサンが
メチャクチャ狂っており、背景処理も出来ないという決定的な欠点を持って
いた。
     
言っちゃなんだが、同人誌ではそれでもなんとでも通用はするのである。
読み手はみんなアニメやゲームや商業誌の作品を最初に頭に入れていて、そ
こからの同人作品だからね。 これは「同人作品」をけなしているのではな
く、その性質を自分なりに分析しての結論である。 同人誌の基礎は「元の
作品があってこそ」の、「オリジナルとは幾分離れた、物語性や場面構成力
をかなり割引されたスタートライン」にあるのだ。
それを良く活かす(コアな方向に持って行ったり)、あるいは、物語の内容
や画面のはしょりに使うのも、それはあくまでも描き手側の問題である。
中にはコンピュータという強力な作画機械を使いこなして、紙媒体では絶対
に不可能なすばらしい作品を創られる方もいる。
(たとえば“黒地に白抜きでキャラクターのアップ・ショットにボカシこみ
ナワガケグラデーション&白点とばし”なんて、画材の性質上、絶対紙の上
では無理だ。)
     
しかし、プロ志望のこの人の目指していた「商業誌」(しかも老舗の大手)
では、当然ながら当時このルールは通用しなかった。
言葉はきついが「自分に都合の良い甘えは許されない」のである。
    
私はその人にかなり専門的なところまで教えた。
たとえば背景の「消失点」。 「一点透視」「二点透視」「三点透視」、
「一点透視・補助消失点四点方法」なんてのまで教えた。
しかし困ったことに・・・・その人は教わるだけだった。 教わって、それ
だけで「自分のものになった」気になって、自分の頭で、手で、指で、使い
こなそうとはしなかったのである。 
彼はどんどん自分の作品の技法や構成をはしょるようになっていった。
そして、パソコンで自分が使える方法を鼻にかけるようになって、いった。
   
ついにある日、その人は私に言うのである。
   
「MO投稿はだめですかね。」(いっとくけど今よりず〜っと昔だよ)
    
一瞬言葉を失った。 投稿者はみんな同じスタートラインに立つのである。
限られた頁数、決められたサイズ、決められた書式のなかで、競うのである。
その人だけの為の特別ルールなどない。
よほどの人脈のない限り、この最低限の投稿規定を守れなければ、編集者に
読まれずに、即「没」の箱の中にポイと放り込まれるだけだ。
「ルールを守れなかった」からでなく、
「ルールすら守ろうとしなかった」ものとして。
    
しかし、商業誌でも青年誌など実験色の強い、新しいところでは「MO投稿可」
になり始めた時期で、私は彼の望む出版社の別のセクションの編集さんに(か
なり新しい、売り上げ数も大きい誌)知り合いがいたので、問い合わせては、
みた。 
答はあっさり
「ウチの編集部でもまだパソコンは1台きりです。 版下さんの方はどんどん
デジタル導入していますがその人の望む「老舗」編集部には、たぶんパソコン
ないと思いますよ。 MOで投稿しても、読める人は皆無だと思います。」
というものであった。
そんな時代だったのだ。
     
私は正直にそれを彼に伝えた。
    
「ふぅ〜ん、そうですか。」
    
それっきりである。 何様に成り上がったのか、ピノキオの鼻。
世の中にはふた通りの漫画家志望者がいる。
「漫画家になってみたい者」と「漫画を描きたい者」と。
     
最初から約束された栄光の自分の姿を思い描くことはたやすい。
しかし、はっきり言う、そんな安直な成功など、ほんの一握りの、天賦の才と
運のよさを合わせ持っている者だけに限られているし、そんなふうにして登り
つめていった者の足元すら、さらにそこから本人の人並み以上の努力が加わら
なければ、いつまでも続くトップポジションを約束してはくれないものである。
       
突然、私は演歌歌手の森昌子さんと小林幸子さんを思ったりする。
そうよね、最初から掴んだ成功なら結婚ごときでさっさと引退できるわよね。
でも「うそつき鴎」で少女歌手としてデビューしてから苦節十数年、「想い
出酒」のヒットまでの長い長い下積み時代があったら、手放すもんですか、
手放せるもんですか、「歌う」ということを。
紅白で派手な衣装で年に一度の舞台を湧かせる小林さんが、私は大好きだ。
     
ちあきなおみさんのことも、思ったりする。
4才からタップダンサーとして米軍キャンプめぐりして、13才ではジャズ
喫茶で歌って。 名曲「喝采」での栄光に至るまでの足どりがあって、でも、
でなけりゃ歌えないわ、「赤とんぼ」も「黄昏のビギン」も「星影の小径」
も。 そして、萩尾望都さんにとっての「半神」(この大傑作は、わずか
16ページである)のような、短い短い、あの「さとうきび畑」も。
     
裏打ちのない才能は、一瞬で燃え尽きてしまうはかない花火のようなものだ。
手で、体で学んだ基礎の延長線上に、最新鋭のデジタル化はある。
基礎とはなにかというと、「心と体で作品をものする」その「心」と「体」
の合致である。 自分に都合のいい、けれんみだけの技を乱発していれば、
それは見栄えがよいだろう。 ただ、大技の乱発は読者に「もっと、もっと
!」とエスカレートを要求されるし、書き手の心と合致しない時がかならず
訪れる。
    
人間とは引き出しの沢山そなわっている漢方薬屋の薬ダンスのようなものだ。
何百も、何千もの無限の可能性があり、どの引き出しとどの引き出しとを合
わせ引くかによってさらに無限の新機軸を作り出す事が出来る。
       
ただしその引き出しは、自分自身の手でしか開けることは出来ない。技術も、
物語を紡ぎ出す心も。
     
どんなに良い食材があっても、自分の手でそれに触れなければ何の料理も出
来ないのと一緒だ。
そのうえで、食前酒があり、オードブルがあり、魚料理があり白ワインがあ
り、ソルベがあり、肉料理があり、赤ワインがあり・・・・と、
コースを広げてゆくことはできる、が、自分一人の頭の中に思い描いただけ
の料理を、どうして他人に食してもらえよう?
木登り名人がスルスルと登ってゆくのを見ただけでは木に登れない。 自分
で登り、落っこちそうになって、しっかりしがみついて、ちゃんと降りてこ
なければ、それは「木登りを知っている」ことにはならない。
    
沢山の人が、沢山の引き出しを持っている。 その組み合わせは無限だ。
    
私はそれを、読ませてほしくてたまらない。
    
ピノキオのその人は、今、描いているのだろうか?
何を、描いているのだろうか?
   
   
二月某日「あしたの一文字目」
   
朝起きて、文章の最初の一文字目を書くときの逡想、この楽しさを、いった
い何にたとえればよいのだろう?
         
「雑記」というものに辿り着くまで、私は文章を書くことがあまり好きでは
なかった。 「国語」の成績は「優」だったけど、そんなのただの「優等生
ちゃん」だっただけで、面白味なんてないやっちゃって自分で分っていた。
日記を書いたら、もののみごとに3日で終った。 
「詩」は好きだったし、(近場にサトウハチローの門下生がいてくれたおか
げである)一族にモノホンの歌人、「短歌至上」の主催がいたので、一応、
「一族のたしなみ」として、短歌は詠むのである、ウチは。
父に至っては「連歌」詠んだり、する。 
しかしまずめったに外には出さないね、おのれの下手さを充分心得ているか
らね。 詠んだらさっさと忘れるに限るよ、んなもん。
単に「心を動かして文にする訓練」であるのだからして。
      
中学2年で、岩波新書の清水幾太郎「論文の書き方」読んでいたし、小論文
や読書感想文ではそれなりにいい点数をもらえた、が、創作方面はね。  
物語性のある物となるとどうしても映像とコミになってしまうので、漫画描
いたり学芸会の脚本書いたりはしていたが、純粋に文章の世界での楽しみを
教えてくれたのは田辺聖子さんのエッセイ「ラーメン煮えたもご存じない」
や小説「おせいどんアドベンチャー」あたりじゃないかな。
(どちらも傑作である。) たぶん高校2年の頃だった。
しかし同時に私は森有正氏の「バビロンのほとりにて」や「遠ざかるノート
ルダム」「木々は光を浴びて」といった哲学書にも、めちゃめちゃ傾倒して
いたし、漢文も好きだった。 まぁ、青春とは「精神的背伸び」の代名詞で
はあるな。
このような「雑記」というカタチに辿り着いたのは二十代の終り頃である。
「日記」じゃないところがミソね、「毎日きちんと起きたことをコツコツ書
く」というのは、ぞろっぺえな無精もんには不可能よ。
    
以前「今日の料理『抜刀質店の作り方』いきなりその3.8」に書いたとおり
私の文章修行(って程のもんでもないけど、ま、一応あしあと位)は新聞部
→父の校正係→セミプロ・エッセイスト→ついに「雑記書き」へとつながっ
て来た。
   
あした、私は何という「最初の一文字」を書くのかしらん?
この感覚は、そうだ、空を見上げて最初の虹を見つけたときのドキドキする
感じに似ている。
それが楽しみで、私は眠りにつくのだ、なんて嬉しいことだろう!
     
     
    

二月某日「どっこい、まだまだ」
    
どすこいタイトなスケジュール(主に親戚関係)の中、行ってきました浅草へ!
用事すませて2時40分にタクシーに飛び乗って
「浅草まで、道はどこでも結構ですからなるべく早くお願いしまっすっ!」
と運転手さんに手渡すは「イベントちらし・タイマニ2」っ。(恥も外聞もな
いし、運転手さん心得てくださってるし。 やっぱ「コミケは『稼ぎ時』とかで、
タクシー業界にも情報回っているんだそうです)
     
・・・おばちゃんんはね・・・おばちゃんはねっ!・・・・あああっっっ!!!
てなわけで、時間切れでしたが、みなさんにお待ちいただいて(すいませんっ!)
プチオフ会には参加できたのでありました。 ああ、幸せだ〜。
ありがとうございますNさんKさんTさん! 最後の数分とはいえ、ご挨拶でき
て嬉しかったですD姐さん(バレバレやんけ・笑)&Tいれるさん!(だ〜か〜
ら〜、イニシャルの意味ないってばさッ・笑)
しかも嬉しいことに「サクラ大戦10周年・江戸桜開催(9/23)」のニュー
スが!
サークル参加、しますともさ!
    
新刊は・・・「赤い花 白い花」を描ければっ・・・・!
じつはもう表紙だけはとっくの昔に刷り上がっております、あとはタイトルの箔
押しを頼むだけ。
ただ、左手の「書痙(しょけい)」の症状がおさまってくれればなぁ・・・・
薬も飲んでいて(副作用キツいのですがねえ・笑)、なんとしても描きたいので
すが、それでも左腕の力はもう鉄のペン先には耐えられず、鉛筆描き原稿でオフ
セット印刷するとどこまで線が出るのか分らず・・・・難問だらけじゃ〜(笑)。
   
と、いうわけで新刊は「一か八かのカケ!」なのですが、人生、一度くらいこん
な綱渡りがあってもいいじゃないの(笑)。
無理なら無理であきらめるしかないのですが、今さっき作ってみた「パイロット
版」では、なんとかいけるかもしれない。(確立は半々ややマイナス寄りだね)
正味半年と1ヶ月。 自分自身との「闘い」のスタートです。
多分2〜3ヶ月後には、出せるか出せないかの結論が出ると思います。
もちょっと、待ってね。
     
     
     

二月某日「ポチっとな。」
      
ぽちっと自己紹介を書き替えました。 ホントにポチっとな(笑)
      

二月某日「生きてみなけりゃ分らない」
    
私は哀しい。 私はさびしい。 私は苦しい。
    
この3点セットの感情は一朝一夕で出来上ったものではないので、「薬1錠、
はい完治」というわけにはいかないんである。
ほんとに薄紙を剥がすように、少しずつ治していくしかない。 そこんとこが、
じれったい病気である、鬱病って。
しかし現実は現実なので、今日も私は何種類もの薬を飲み、なるべくじっとし
ている。
派手に動こうと思えば、やってやれないことはないが、振り子の揺れとおんな
じで、右に大きく振れた分だけ左にも大きく振れるんである。
自分で言うのも情けないが、私は「ワレモノ注意」の貼り札つきなヤツである。
    
人に言ってもすぐに「ホント」だとは思ってもらえないね、なんせ人当たりと
座もちには定評のある、「駅前商店街」のような性格だからね・笑。
(白い三角巾して、肉屋でコロッケとかハムカツなんか揚げながら売り子のお
ばちゃんしてたらきっと似合うと思う。)
    
でも、バカだなあ、そんなの、自分で描いたもん読みゃ一発で分るじゃんか、
と、今なら言えるよ、自分自身に。
アルルカンは泣き虫なのだ、本当は。
泣いたことのない人間にはコメディーは書けない。
両面表のコインはないし、かんかん照りの昼下がりには落ちる影も深いものだ。
    
鬱病の原因は必ずしも遺伝とは限らないのであるが、私の場合、明らかに遺伝
している。 それは時代々々によって、「憑き物」「ぶらぶらやまい」「神経
衰弱」「ノイローゼ」「自律神経失調症」「老人性鬱病」などと呼ばれていた
が、私が数えてみた限りでは、6代前まで遡って、父の母方の人間はほぼ3人
にひとりの率で発症している。
最悪の症状を見せたのは、同じ年の又従姉妹、佐和子だ。
21才の2月に、北海道で焼身自殺した。
2月は私にとって、息を潜めて過ごす月だ。
      
佐和子、あなたが今生きていたなら、私はあなたと話がしたい。
たぶん私とあなたとなら、沢山話すことがあったろう、とても似ていたからね、
私たちは。
    
「人間として生きる」ということの正体は、まだ分らないが、こんなにも楽し
く、同時に、こんなにも切ない日々の連続なのだろうか?と私は思う。
    
誰もが、誰かに抱きしめられて、頭をなでられながら、頬ずりされながら、
「よしよし、よく頑張ったね。」
と言ってもらいたいのだろうか。 生きてみなけりゃ分らないよ、佐和子。
    
    
    

二月某日「本日は青天なり」
     
最近は音響設備も良くなって、めったに耳にすることもなくなってしまったが、
ある一定の世代以上の方ならきっとお耳にされたことがあると思うこのセリフ
    
「本日は晴天なーり、本日は晴天なーり、ただいまマイクのテスト中〜!」
      
始業式や運動会の始まる直前、係の先生が音響や接続の具合を確かめるために
言っていたこの言葉。 独特の節回しがあって、
「ホンジツハァ、セイテンナァ〜リッ♪」
と活動写真の弁士のように歯切れ良く、はきはきと言う。
これ、実は正しい「マイクテスト」ではない。
        
「マイク」というものが日本にやって来てどれくらいになるのだろう?
アメリカのヒューズが「マイクロフォン」を発明したのは1878年(明治11
年)のことである。
それが商品化され、日本に輸入されて、その英語の使用説明書を日本語に翻訳し
たのが、あの
「ホンジツハァ・セイテンナァ〜リ♪」なんである。
       
元の文章はこうだ。
    
「Today is fine,today is fine. This is a test of the mike.」
   
「トゥデイ」や「ファイン」「ディス」といった柔らかい、機械が拾いにくい言葉
を会場内に流し、隅々まで届いているかチェックする、そのためのテキストで、そ
れを直訳しちゃったのが、あの朗らかな「本日は晴天なーり!」である。
私たち日本人は、実に100年近くも、間違ったマイクテストをオウム返しに唱え
ていたことになる。
     
     
さてさて、以前もちょこっと書いたけれど、私は「修道院付属」のよーな女子校で
育った。 校舎は「口」型の回廊形式、建物の半分はシスター方の居住区・修道院。
んでもって、そこから細い道一本隔ててコンクリのひな壇のある運動場。
体育祭の前日の、午後だった。(午後は授業をつぶして全校生徒でひな檀とかゲー
トの準備とかをするのだ)
     
テントを張って、マイクを設置していたのは演劇部の名物顧問・物理のM尾先生。
なにせ当時ウチの学校やたら演劇部が強く、全国2位にまでいってしまったもんで、
「M尾藍水(ひろみ)」といいうリリカルなお名前と、サングラスに濃いあご髭の
硬派というみごとな調和を(というか美しいギャップを)醸し出しており、みんな
に「ヒロミちゃん」
と親しまれておったのだ。(物理の授業ではとってもおっかなかったけど)
藍水ちゃんは学校の誰ひとり知らぬものとてない有名人である。 体育祭のマイク
テストなぞしてもグラウンド整備のみんなは
「あー、またヒロミちゃんだあ。」
てな反応で、誰も気に止めない。 そこで、だ。
ひな壇を、明日用のベンチ抱えてテコテコと歩いていた私を、ヒロミちゃんは呼び
止めたんである。
「あースギウラ、いいとこに来た。 お前このマイクに向かって何かしゃべれ。」
「はぁ? 私が、ですかぁ?」
「あー、マイクテストだ。 スイッチ入れるから、何でもいいからしゃべれ。」
「はぁ・・・何でもいいんですか?」
「何でもいいぞ。」
スイッチ、カチリ。
つまりなんでしょ、グラウンド準備中の、あっち端にいる生徒とこっち端にいる
生徒とが「ん?」ってふりむきゃいいわけね。 では、コホン、
   
「日本のみなさんこんにちは、こちらは『北京放送局』です。」
     
(いや、当時、平日の夜8時から1時間、中国が日本向け国際放送をやってたのさね。)
グラウンドの全員がザッ!といっせいに振り向いて・カチリッ(スイッチ切る音)
「バカッ早く逃げろ!」
とM尾先生。
逃げろってったって、あのう〜・・・・カラカラカラ(背後で修道院の窓の開く音)
そうでした、宗教と共産主義とは相性がよろしくないのでした! ベンチ抱えて
テコテコテコと小走りに逃げ去る私。
これを「横浜某校・北京放送マイクジャック事件」と申します。(笑)
    
     
急にとんでもなく寒くなったり、ドカ雪降ったり、かと思ったらいきなり4月末
の暖かさになってみたり、また冷え込んだり、なんだかよくわかんない冬ですが、
みなさまどうぞお身体に気をつけて、よい2月を!
      




            

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