日々是好日・身辺雑記 特別番外編
     
「天の光はすべて星」
(藤井雅之さんの『風の唄 天の声』を読んで)

 
                                 以前の雑記を読む


この優れた表現者と、もっと早くになぜ出会わなかったのだろう
     
わたしはそれがくやしい。
    
藤井雅之さんとは、2004年10月24日のサクラ・オンリーイベント
「江戸桜」でお会いした。
数年ぶりのカムバックに声をかけ、イソーローさせてくれた「東々亭」さんの
隣のスペースにいらしたのだ。
私たちはあいさつを交わし、お互いの新刊を1冊贈りあった。
それが「風の唄 天の声」だった。
     
やわらかな、美しい青空を背にさらりと笑うカンナが表紙、返すと
さりげなく、ロングの髪をなびかせる若き日のあやめが、ブルーグレイの
モノクロームでバスト・ショット。 抑制のきいた色彩の采配。
A5版全20ページという、手した者の指にふわりとふれる
その軽やかさまで計算され尽くした、
「瀟洒な本」だった。
(ちなみに私の新刊はというと、事務用封筒にB5コピー用紙をバラで55枚ブチ込んだけ、
タイトルはマジックで殴り書き、というとんでもない雑な造りで・・・・・)

魅き込まれた。
    
内容は、ここには書かない。 
ヲイヲイあたりまえだ、そりゃルール違反だ(笑)
どうか手にとって読んでほしい。
藤井さんのサイトは「藤屋」http://web-box.jp/hfujiipuroである。
どうかアクセスしてほしい。     
    
      
「ファン気質」とでもいうのだろうか、カンナファンには
カラリと明るい人が多い。
その場に居合わせた4人の描き手と1人の読者は、すっかり意気投合した。
その名もとどろく不条理サークル、某「居酒屋 米田」
(全然「某」じゃないってば・・・)      
のシュールなギャグに笑いころげ、
(なにしろスペース・ブースでずらり4人
同じ表紙の本を手に肩をふるわせたのだ。 テレビでいうならスタジオの
ひな壇最前列に陣取る「仕込み」か「ゲラ(笑い屋)」だ
まったくもう・・・
ついには5人で即席オフ会にまでなだれこんだ。
大人のオンナはケラケラと、切ないまでによく笑う。
「じゃあ、さようなら」と別れれば、そこからは「家路」のスタートだ。
開けなければならない「ドア」がある、生活がある、仕事がある、孤独がある。
だからこそ、与えられた
ほんの数時間という時空間の共有を、
精一杯楽しみ合うのだ。
    
わたしはふたたび「風の唄 天の声」のページをめくった。
さらりと短いワン・エピソード、なのになんでこんなにも深いのだろう。
交わされる会話の一単語、沖縄のことを調べつくした者でなければ表現し得ない
フレーズ。 声に出してよむと即座にわかる。作者は読者の「息・呼吸」から
逆算して、台詞を創っている!
「・・・」も「 」も、その全角ひと打ちの文字空白のなかにさえも、
すべて明確な「意味」が与えられている。
フキダシもモノローグも、画面の中で、ひとつの「絵」として配置され、
的確に読者の目にむかって立ち上がるように構成されているのである。
    
「桐島カンナ」という長身のキャラクターを活かしたタテ軸、
水平線というゆるぎないヨコ軸をカメラ・ワークで微妙に調整し、
「若き日の・藤枝あやめ」にしか許されないストレートのロングヘアが
南風にふわりとたなびくことによって、やわらかな「流線型のベクトル」が
セリフと共に展開してゆく。
    
この人の作品は「マンガ」という形態をまとった「唄」なのだ。
            
わたしは「音のない唄」というものを初めて聴いた。
     
そのために、膨大な知識と、磨き抜かれた感性で言葉(ことのは)を
重ね合わせ、重ねつくしたそののちに、ぎりぎりまで「引き算」をして、
このさわやかな短編を さらりと創り出している。
    
この凄みには出会ったことがある。
カンナファンなら誰もが知っている「マサコ」さんだ。
この人たちは「作り手」にとどまらない。
「創り手」という「星」である。
(悪い意味での「スター」ではなく)
       
ふたりに共通しているのは、びっくりするほど「自分」というものを
希釈化してしまっていることである。
「星」は「作品」という名の光を放つために、自身を燃やさなければ
ならない。 わたしは個人的に「マサコ」さんのことを知っている。
彼女ほど「ねばる」人はめずらしい。
イベントでは「遅刻魔」として知られている。
(笑)
彼女は、明け方まで「手放さない」、「手放せない」のである。
      
藤井さんとお会いして、「マサコ」さんも交えておしゃべりを楽しんで、
しみじみ実感した。
おふたりとも、明るく・楽しく・さわやかな・さらりとした女性である。
おしゃべり上手で、聞き上手だ。
洗練された、大人のオンナだ。
だから「星」という自分の座標軸を静かに消して、
ただ「光」のみを「放つ」のだ。
     
光は何光年も、暗闇の中を旅する。
まだ知らない「地上」を信じて、まっすぐに闇を切り進んでゆく。
私たちという地上にその星の光が届くとき、もしかしたら「星そのもの」は
もうそこにはいないかもしれない。
なにしろわたくしめは、不肖・「帰ってきた抜刀質店」な〜のである(笑)!
そのことは身にしみてよ〜く知っている。 
    
しかし、光はたしかにそこにある。
     
照らし出す、「地上」という名の 私たちの 目 に。
     
      
            
わたしたちの地上を照らす 天の光は すべて 星である。
         
       

        
トップへ戻る