日々是好日・身辺雑記 2005年8月
(下にいくほど日付は前になります)

 
                                以前の雑記を読む



八月某日「青江三奈・ピンボール」  
     
青江三奈が好きだった。
初めて見たのは絶対「紅白歌合戦」だわ、それ以外大人の歌謡番組を見せてもらった
覚えがないから。
髪を金髪に染めて、真っ赤なルージュをひいて、青いスパンコールのタイトなロング
ドレス着て、なんかくねっとした美しい爬虫類のようなカンジ。
ハスキーボイスで、歌っていたのは「恍惚のブルース」だったか「伊勢佐木町ブルース」
だったか、とにかくブルースだった。
(大切に持っていたベストCD が引っ越しでどっかいっちゃって、残念無念である)
    
彼女からは「戦後」の匂いがした。 淡谷のり子こそ「ブルースの女王」なのだろう
けれども。 淡谷さんが戦争中どんなに国防婦人会に吊し上げくっても電気パーマも
お化粧も止めなかったといっても、でも、戦争に負けて、アメリカに占領されて、
オキュパイト・ジャパンを経験して初めて出現したのだ、青江三奈という女の人は。
     
    
20代の始め頃、徹夜明けで出版社に原稿を届けて、ピンボールを打ちに歌舞伎町に
行った。 普通1ゲーム3セットで200円のところを、中古のマシンばかりを集めて
50円で打たせてくれる、ピンボール台だけの店が、隅っこにあったのだ。
そこはゲーセン専門ビルの1フロアで、それらしい装飾もけばけばしい照明もない、
リノリウムの床のガランとした素っ気ない部屋で、ただずらっと並んだマシンに、
「絶対営業サボってる」か「仕事がないな、こいつ」
としか思えないおじさん達が黙々とフリッパーを叩いたり「ティルト」(台を揺さぶる
反則スレスレの荒技)したりしていた。
女の私はティルトは重すぎて出来ないが、フリッパー・キープ&パスが得意で、上手く
いくと六千万点台くらい叩き出せた。
   
ピンボール自体せいぜい1950年代〜70年代始めが盛りの、寿命の短いゲームだった
からかもしれないが、それはまるで「砂漠の中のジュークボックス」のように、蜃気楼
のように、そこにあった。 空気は乾いていて、真昼の歌舞伎町もまだガランとした街で
(昼間から風俗でにぎわい始めるのは、もうすこし後のことである)、ほんの少し前の
景気の悪さの匂いを、まるで残飯の残り香のように漂わせていた。   
新大久保寄りの安〜い台湾料理屋の、そのなかでも一番安い定食を食べて、
(懐が暖かいときにはも少し手前のタイ料理屋に行った。 一番安い定食を食べに。)
「さぁて、ひと打ちして帰るか〜」と徹夜明けの赤い目をこすりこすり歩いていた、
その時である。
       
「本日・青江三奈ショウ!」  
      
それは歌舞伎町のどん詰まり、雑居ビルの最上階にあるキャバレーの立て看板。
そういえば子供の頃は紅白の常連だった青江三奈は、いつのまにかテレビで見なくなって
いた。 ドサまわりしていたのか。
マジックで書いてある「ショウは3回、夜7時〜」。
貼ってある写真は赤い背景に金髪、白い肌、ルージュ、そして、ああ、やっぱり青い
スパンコールの、肩のひらいたドレス。
観たい。 聴きたい。
青江三奈の歌を。
      
10分くらいそこにつっ立っていただろうか。
徹夜明けで7時まで体が保たない。 マクドかどこかで仮眠をとろうか。
でも所持金は? 4千円ちょっとだ。
キャバレーって幾らぐらいするのだろう、少なくとも4千円じゃ無理だ。
今から上がっていって、掃除か何かの手伝いでもさせてもらったら、舞台のすそから
見せてくれないだろうか。 たぶんけんもほろろに断られるだろう。
ボサボサ髪、すっぴんにヨレヨレの服じゃ1日ホステスというわけにもいくまい。
そこまで考えに考えて、あきらめた。
キャバレーの敷居をまたげる身分じゃないのだ、私は。
    
しかし、(著作権の問題があるから書けないけれど)「恍惚のブルース」という曲は
すごい。 「ムード歌謡」、その中でも「お色気歌謡曲」なんてくくられてしまいそう
だけど、カラオケ行ったら歌詞だけでも見て下さい。
しっかり恋をして、しっかり別れた人にしか分らない境地だわー、これは。
その点わたしは、こと恋愛に関しちゃ満身創痍、もうあちこちガタガタのボロボロ
なので、泣けるね、なんの自慢にもならんけど。    
(思い出すのは『あんときゃバカだったなあ』ってことばかりで、人のお手本にもならん)
     
「惚れる」というのは「ほうける」、つまり「阿呆になる」というのが語源だとどこかで
聞いた。 せちがらいこの世の中、自分から進んで阿呆になれることなんか、いったい
幾つあるだろう。 
恋は「世間の自分」という細い釣り竿にかかった大物である。 
私たちは、恋によって初めて堅い鎧を脱ぎ、自分自身をさらすことが出来るのだから。
相手に対して、そして何より自分自身に対して。
    
コインをマシンに放り込み、ボールをセットして思い切りよくスプリングを引いたら、
あとはバウンド、バウンド、フリッパー右、左、右、バウンド、ジャックポットに叩き
込んで、左、右、フリッパーパス、レーン通過!
ピンボールのように、恋は走り出す。
    
青江三奈という人は本当にすごい人だった。
あの金髪は、青いスパンコールは、白い肌は、ルージュは、いま思えば「自分」という
ものを写し出す「恋の鏡」だったのだ。
    
「女の命は恋だから」「死ぬほど楽しい夢をみた」「あとはおぼろ」と青江三奈は
歌う、ハスキーな声で。
「あとはおぼろ」な余生をびっくりするほどシリアスに日々生きている私は、
「もしかして本当の私は別の世界で恋をしていて、今いるこの『私』は、その私が見て
いる夢の中の『私というキャラクター』なのではないかしらん」
と、中国の故事「胡蝶の夢」のようなことを考えたりしている。     
    
      
       

八月某日「『くん』って呼べないの、「主人」って呼ばないの」
      
小3の時の担任は男の先生だった。
恰幅が良くて、年をとっているように見えて(今にして思えば、さほどの年でも
なかったのだ。 ただ、頭がつるつるで眉毛が無くて、銀縁メガネをかけてた。)
見た目も迫力あったけど、中味はもっとすごかった。
癇癪持ちで、神経質で、生徒のえこひいきがびっくりするほど激しかったのである。
      
そんな中でどうしたわけか、私はものすごくかわいがられた。 
まあ、成績が学年トップで(小さな学校なのでそんなもん「井の中の蛙」なのは
本人分っていたが)その年の学校検診で要再検査になって病院行って、心臓悪いのが
分って、そのうえ、なんとなくみんなをまとめるのが上手かったのでクラス委員だった、
そんな理由だろう。
「優等生で、ハンデがあってかわいそうで、都合のいいアシスタント役」ってなもん
である。 今どう考えても、その程度のことしか思い浮かばない。
      
しかし、私はその先生が大嫌いだった。 むしろ恐怖の存在に近かった。
一手間違えれば、きっと逆にものすごく嫌われてしまうのが内心見えていたから。
あの子も、その子も、1〜2年のときはあんなに活き活きしていたのに、吊し上げ
られてすっかり萎縮してしまっている。 あーあ、これは恐怖政治だ。
しょせん生徒は先生を選べないのだ。 あーあ。
毎日「早く4年生になって、この人が担任じゃなくなればいい」と願っていた。
     
その先生だ、学年の始めに
「これからは、女子は男子を『くん』と呼んではいけない。」
と命令(指導なんてもんじゃないのよ、命令よ、命令)したのは。
以降私は呪縛を受けたように、男子生徒を「○○さん」としか呼べなくなってしまう。
中・高は女子校だったからよかったっものの、困ったのは大学に入ってからである。
ものすごくリベラルな学校で、当然のように女子は男子を「○○君」と呼ぶ。
それがなかなか言えなくて、つい「○○君」とつっかえて呼んでしまっていた。
     
今はいい年だし、会社組織に所属しているわけでもないので「○○さん」で通るが、
君」とのどをつっかえさせていたころは、本当に身の置き所がない気分だった。
     
    
しかし、私はドッコイのことを、決して「ウチの主人」とは呼ばないのである。
しつこいセールスの電話を撃退するときだけだね、
「主人にィ、聞いてェ〜みないとォ〜、わっかりませェん〜」
と、声をくねらせるのは。
ドッコイは対等なパートナー、「夫」である。 主(あるじ)ではない。
しかし日本の戸籍は「家」中心なので、戸籍謄本を見ると、夫には苗字があり、
妻の私は名前だけ記載されている。 どこへいったか夫婦別姓法案。
     
地方の名家出身の友人がいた。 大学は誰でも知っている名門校、さらに大学院で
ジェンダー(社会的性差)を勉強したバリバリのキャリアウーマン。
ところが。
どんなに親しくなっても既婚者仲間の中で彼女ひとりだけ
「主人がね」「主人がこう言うの」「主人が帰ってくるから私はこれで失礼」
なのである。 これには違和感を覚えた。 たぶん上京するまでの環境ゆえなの
だろうけれども。 しかしジェンダー勉強したなら、少しは考えるところがあっても
よさそうなものだけれど。 彼女はなんとなく、友人グループから離れていった。
    
最近では親しくなった同世代既婚の女友達には、あらかじめ
「『○○さん』『夫の方』『御夫君』『なにかアダ名』『ご主人』、どう呼びましょう?」
と尋ねておくことにしている。
人生43年目ともなると、少しは知恵もつくってもんよ(笑)。 
       
       

八月某日「ちょんまげの昭二郎おじさん」
    
今年のお盆は伯父(母の兄)の葬儀でバタバタしていた。
ちょうどコミケ初日の朝亡くなって、お通夜、告別式、その他モロモロ。
まさかこの雑記に1ヶ月に3人も「人の死」を書くことになろうとは、である。
     
急性白血病で、既にもう「7月を越せるか?」という状態だったから、タフな心臓で8月中旬
まで生きながらえてくれたことに驚いている。 その前に胃ガンをやって、軽い脳梗塞をやって、
それでもしっかり好きな晩酌も煙草も欠かさなかったというのだから、まあ立派な大往生だろう。
「78年間、生きるだけ、思いっきり生ききったねー」という感じが親戚一同の中にあった。 
堅苦しいことの嫌いだった本人の生前の意向で、お坊さんを呼ばない「人前葬」だったせいも
あり(後で納骨式の時に本郷の檀那寺で戒名をもらうらしい)、しかも式の最中ずっと伯父の
大好きだった美空ひばりの曲が流れていたので、妙に明るい数日間だった。
(しかし、これから荼毘に付そうというのに「お祭りマンボ」〜これ火事オチの歌である〜
が流れたのには、ちょっと驚いたけれども)
    
この昭二郎伯父はとにかく明るくて遊び好きな人で、会社を定年退職してからずいぶん長い間
「シルバー・エキストラ」をやっていた。
時代劇なんかで、峠の団子屋にいたり、ミステリドラマで駅前を歩いていたりする、あれである。
それも面長で古風な顔立ちに加えて、上背もあったので、いろいろな役をもらっていた。
和尚さん、易者、ご隠居、長屋の大家さんなどなど。
「渡る世間は鬼ばかり」にも出たし「薬師丸ひろ子ちゃん(ちゃんか?もう)とすれ違う役」
だったり、俳優の北村和夫さん(「ちゅらさん」、好きだったなー)には
「フェイスがいいから、役者になれば良かったのに。」
なんて声をかけてもらったり、まあいつも事後報告なのでテレビでの姿は見たことがないが
エキストラはエキストラなりに重宝されて、結構売れっ子だったらしい。
母の一家は戦争で丸焼けになって家族バラバラになっていたので、伯父たち同士で会うことは
あっても、姪の私は大人になってから、しかも数度しか面識がない。    
が、エキストラでちょんまげのヅラをかぶって出待ちしている写真は、なぜか母経由で1枚
もらって持っている。
    
私が仕事で走り回っていた頃、偶然、溝の口の駅前商店街で午時に出くわしたことがあった。
人混みの中、粋なパナマ帽に派手なアロハ、周囲よりも頭ひとつ高い。
「昭二郎おじさーん!」
と、後ろ姿に叫んだら、くるりと振り向いて
「ああ、信子(これ本名)ちゃんかあ。 どうだい、そこいらで一緒にメシでも食わないかい。」
と笑った、その笑顔と口調と立ち姿は、身内ぼめになるけれど、ほれぼれするほど「いなせな」
「江戸前の男」だった。
    
時間がなくて「またの機会に」と別れたのだが、まさかその「一緒にメシでも」の約束が斎場で
果たされることになろうとは。
    
生まれて初めての従兄弟たちに会ったり、ゆっくり時間をとって伯母や叔父夫婦と話をしたり、
今まで疎遠だった歳月を埋める機会を与えられたような数日間だった。
    
棺の中の伯父の姿は、変らず「江戸前のイイ男」だった。
もし夢に出てきてくれたら、やっぱりちょんまげをつけていると思う。
「どうだい、そこいらで一緒にメシでも」
と夢の中で誘われそうな気がする。
     
     
    

八月某日「男のジャラ銭・女の小銭」
       
学生の頃、男友達の中にひとり、財布を持ち歩かない伊達野郎がいた。
札はクリップで束ねて、硬貨はそのままポケットにつっこんでいた。
喫茶店でみんなでワイワイやって、支払いの時に、ポケットからジャラリと取り出して
「‥1‥2‥3‥と、はい」なんて手のひらの上で指先でチャッと数えて渡してくるの、
憎らしいくらいカッコよかった。
         
カード社会だといいながら、日常の買い物なんかはまだ現金が幅を利かせているなーと
思う。 デパートや大手スーパー系列なら、カードに加入してしまえば牛乳1パックから
キャッシュレスで買えるし、JR も「駅構内のショップもSUICA でOK !」なんていって
いるし、ケータイでカード機能付きってのも試験的に始まったけど、でもね。
自動販売機天国の日本じゃ、ジャラ銭はなくならないんじゃないかな。
    
世界中の国々の大多数は、自動販売機が、空港などの設備の中以外なかなか普及しない。 
夜中にこじ開けて金を盗まれるか、自動販売機ごと盗まれるか、だから。
日本でも一時期、夜間ATM をパワーショベルで根こそぎ掘っていくという荒っぽい
「いも泥棒式」事件が何件か起きたが、警備装置を強化して、最近はない。
韓国の500ウォンをドリルで削って重さを調整する釣り銭泥棒も、新・500円硬貨
の登場で、聞かなくなった。
     
日本は小銭の種類が多い。
1円玉、5円玉、10円玉、50円玉、100円玉、500円玉。 6種類。
アメリカは1セント玉(ペニー)、5セント玉(ニッケル)、10セント玉(ダイム)
25セント玉(クォーター)。 4種類。大きさも厚みもダイナミックに違う。
そしてだいたい100円感覚の1ドルからは、札だ。 (本当は50セント硬貨もあるの
だけれど、流通せざること我が国の2千円札のごとしである。)     
   
先日母親が、昔アメリカに出張した父のお土産という婦人物の革財布を発掘してきた。
カビも生えていないし、品のいい色の、上等のものでである。
が、残念ながら使えない。
カード入れがないし(そんなに昔々のことなのね)小銭用ポケットの仕切がないからだ。
     
今は仕切のあるポケットが多くなったが、1982年頃?500円硬貨が登場するまでは
スーパーなんかで端数の値段の買い物の多い主婦は2つ仕切、学生や男の人は1つで充分
だった。 
消費税もなくて、切りのいい定価売りがあたりまえの生活には1円玉もなかなか登場しな
かったから。 
昔の財布は空いていた。
    
私は家用の小さな財布に、紙幣もたたんで入れられるように3つ仕切のものを使っている。
(紙幣を四つ折りするので、それはそれで、支払うときガサガサ広げなくちゃならず面倒だが)
自分用の横二つ折り財布だけでもバスカードやら銀行のカードやら免許証やらメンバーズカー
ドやら、ぱんぱんなので、家の財布(ドッコイと共用)まででっかいのは煩わしいのだ。
(我が家の財布はダイナース・カードのマークのように「それぞれ自分用」と「共通・家用」
とに別れている。 外に出る方が家用も持ち歩くことになる。)
が、相棒はよくいって「おおらか」、はっきりいって「ずぼら」なのでこの仕切がいいかげん
なのである。    
「10円と100円」「1円、5円、500円」「札各種四つ折り」が守れない。
私が使う段になって、ひとりできりきりかんかんしている。
          
千円札の三つ折り、1枚と1枚と3枚。 なぜ5枚にまとめてたたんでくれないのだ。
支払いの時レジでもたついてめんどくさい。
100円玉の仕切りに50円玉。
支払いの時レジでもたついてめんどくさい。
財布の中に500円玉3枚、100円玉3枚、10円玉3枚、50円玉3枚に1円玉9枚ある時
なんで「832円です」と言われて千円札を1枚出すんだ!?
100円玉1枚と50円玉1枚と10円玉2枚と5円玉1枚と1円玉3枚ジャラ銭が来る!
千円札と32円払って、1円玉2枚減らして200円受け取れないんだ!
こっちが支払いの時レジでもたついてめんどくさいではないか!!
なにしろ財布の中に5円玉が2枚以上、1円玉が5枚以上あるだけで、うっとおしいと思う女
なのだ、私は。
私は19+27=?も分らない数字バカだが、こと小銭払いに関しては瞬間計算機である。
(「エロイカより愛を込めて」のジェイムズ君みたいだ。)
     
         
それにしても、財布を含め、持ち歩く物の多さの煩わしさ。
私は男の人の背広をはじめてとっくら返しひっくら返し観察したとき
「ずるい」
と思った。 仕立て方にもよると思うけどポケットの数が半端じゃない。
表に3つ、胸に1つと両脇に2つ。
裏はマジシャンのからくり衣装のようだ。
万年筆用、手帳用、ライター用、懐中時計入れの名残りなんてのまであるぞ。
しかも男の人は骨盤も筋肉の付き方も違うから、ズボンの後ろのポケットに全札タイプの
長細い大きな財布をすっと入れられる。 お尻が四角くて筋肉のくぼみがあるから。
女の人の「丸みを帯びたおしり」では、んなもん立ったり座ったりするたびにするりと
落っこちること確実である。 なんかくやしい。
     
いや、しかし、そんな理由で女性の美しい桃尻がこの世から消えて、みんな四角ゴッツい
野郎尻になったら、さぞや味けない世界ではあろうけれどもね。
      
          

八月某日「遠雷を聞きながら」
     
東京では3日続いた酷暑(猛暑なんてもんじゃない、ゴーモンよ、ゴーモン。)も
一息ついて、やっと窓を開けて、天然の風と扇風機で涼をとっている。
はるかに遠雷が鳴っている。 ひと雨おしめりが来るだろうか。     
しかし、こんな日に限ってドッコイはダウンして会社に行けず今私がカチャカチャやっている
横で寝息をたてている。 弱いんだ、こいつ。 一生「悪化は防げるけど良くはならない」
病気を背負って、子供の頃から救急車のお世話になったこと数知れず。
私も似たようなもんで、つまり私たちは同族ってこと。
    
いつからだろうか、毎日遠雷を聞くような気持ちで日々を過ごすようになったのは。
若い頃と違って、人生、もう力任せにはいかない。
その場はやり過ごしても、いきなり「ここぞ」というところで自分に返ってくる。
理不尽な不幸も増えた。
     
おととい三宅島で斜めお隣さんだった匡司兄(にい)が亡くなった。 
私と同じ病名だ。    
発症からたった3ヶ月、上の子供がまだ中学生になったばかりだ。
両親は葬儀に行くだろう、私はまだ体が保たないからここにいて匡司兄を想う。
私は1年で同じ病気に2度かかって、体はボロボロになったけどまだ生きている。
(薬漬けで、小学校中学年くらいの体力しかなくて、まあみごとに何もできないけれど)
匡司兄は4月に全島民帰島で、みんなの先頭に立って島の復旧に働いて、やることがまだまだ
いっぱいあった。 なのにスゥッと逝ってしまった。
    
遠雷は、時に近くに、時には頭上に落ちる。 理不尽だ。
その理不尽さを、遠く、雷の音に予感しながら日々は過ぎて行く。
生きて行くことは、この不可思議な遠雷との共存なのかもしれない。
   
カチャカチャやっているうちに薄い雨雲が通っていったらしい。
窓から見上げれば空は一段と高く、セミの声が急に濃くなった。
     
      
     

八月某日「サクラ『帝劇労働組合』発足!?」
     
いやはや「サクラV」である。 この「V」は「5」をローマ数字に字変換させたもの
ではなくて、アルファベットの「v」の大文字で今打っています。
(ちなみに、ウチのボロパソ、メール機能の方ではもう大文字も全角アルファベットも
打てないくらい壊れまくっているのよ。 イヤハヤ・・・)
    
ローマ数字だと文字が化けるんですMac で打つと。(わたしゃMac ユーザーです)
さるお方のメールでご指摘いただくまで知らなかった、Windows だと「サクラ」と
表記されるんですって。 ということは、逆もまたありで・・・
最近あちこちの書き込みに増えたこの単語、わたしゃまたサクラの労働組合が出来たの
かと思ってましたよ、だって「サクラ
(労)って見えるんだもん!!(大笑)
(労)(労)っ!!
「サクラ大戦・
労働組合シュミレーションゲーム」!?
窓派のみなさま、リンゴ派はとまどっておりますっ!!
   
しかしねー、おばちゃん若い頃、国鉄、じゃない今のJR の労働組合って、ストばっかやっ
てたなー。
毎年季節になると賃上げ交渉で何日も電車止まって、学校は休校になるし、会社は泊まり
込みで「貸しぶとん屋」さんが大繁盛していたなー。 
国鉄の人って公務員だったから電車のドテッ腹に白ペンキで「遵法闘争」とか「めざせ勝利」
とか「要求貫徹」って殴り書きしてあって、電車がそんなふうにお化粧し始めると
「今年は何日お休みかしらん、うふふ〜♪」
なーんて呑気なこと考えてた女子校時代(今「女子工事代」と誤変換しよった、ボロパソ)。
    
さすがにお巡りさんと消防士さんはストやらなかったけど、小学生(公立)のころ学校の先生
(下っ端の)とか給食のおばちゃんも、ときどきやってた。     
教頭先生が各教室廻って、黒板に「自習」って書いてプリント配ったり、先生たちが大汗かい
てコッペパンやみかんや「焼いてない『マルシンのハンバーグ』」(冷えててとってもマズ
かった)を調達してくるの。    
    
「サクラ(労)」だったら、そうね、戦闘出撃は帝都防衛だから休まないとしても、舞台が
休演になったりして。
組合委員長はやっぱリーダーのマリアで、鬼の執行部長がカンナかな。 支配人室で米田と
団員の間に立って交渉に冷や汗流す中間管理職の大神と加山。
さくらとすみれさんがたすき掛けで帝劇の壁に「只今組合交渉中」のポスター貼って、織姫
の持つイタリア三色籏を先頭にデモ行進で練り歩くレニとアイリスと犬(名前はご自由に)。
・・・どう見ても派手なパレードにしか見えないが・・・。
事務室では三人娘がガリ版(知らない若い人多いだろうなー。 謄写版印刷のこった)で
ビラ刷りまくり。 
地下の薔薇組の部屋では琴音隊長に斧彦ちゃんが
「お化粧用品も必用経費に認めてくださぁ〜い♪」
とせまりまくるの。
    
ああ、「サクラ(労)」〜♪  ぜんぜん緊迫感ないなぁ(笑)。
これがスト大国パリや、組合天国ニューヨークだったら、もっとすごいんだろうけど。
(ちなみに私、バルセロナ・オリンピック前のボロかったマドリード空港に、ストで
8時間カンヅメにされたことあります。 
タブロイド版の「週刊闘牛新聞」(アイドル誌と競馬新聞のごっちゃになったよーなの)
なんて買って、目の粗い印刷のマタドールのお兄ちゃんたちの写真をながめとったよ。)
     
「サクラ大戦 V(労)編・ニューヨークは燃えているか」
大火事です、隊長!!(笑)。
          
     

八月某日「朝一番、『会えるんです』ときたもんだ」
    
先月の「間違い?メール」で書いた、「間違いメールのふりをして実は、エッチ系の
サギ」は、波があるらしく今はピタッと止んでおります。
(いずれまた来るね、きっと)
替わりに毎朝「あーあ‥‥‥」とタメ息ついて一掃しなくちゃいけないのが「出会い系
サイト」と「金融」と「お金儲け・月100万も夢じゃない!(んなもんウソッパチに
決まってらぁな)」。
「レレレのオジさん」の気分でお掃除しているウチのメール機能は、やっかいなことに
旧式で、内容を開いてからじゃないと削除できないんですねー。
巧妙なことに「先日メールした件です」とか「引き続きよろしくおねがいします」とか、
「ご注意! あと10時間で契約(しとらんよ)解除になります!」とか、紛らわしい  
タイトルが付いていたり、「○○です」と個人名で来たり(親しい知り合いの苗字だった
もんで本当にビックリした〜!)いやはや、「ワン・クリック」サギにしても何にしても
どんどこ向こうの悪知恵が進化して行くもんで、気が抜けないです。 
ああ、めんどくさ。   
      
それにしても、今朝来た出会い系サイトのメールのタイトルには笑ったなあ
「会えるんです」とな。
「最近、会えないのに出会い系を名乗っているサイトが多いと思います。」
と、いきなりマジメな怒りの一文から始まるんだもん。
(昔流行った「ねるとんパーティー」も実際は女の子はみ〜んなバイト、てのがあったな)
     
実は今年の5月に「出会えない出会い系いサイト」が神奈川県警に逮捕されているんである。
女性登録者がゼロで、「詐欺罪」ということで。
これは「女性会員が本当はプロの『売春サイト』」とどっちが罪が重いのかなー」と思って
いつか比較しようと思って、なんとなく新聞記事を切り取っていたのであった。
利用料は無料だが年会費5万円! 男性ばかり1万8千人が登録し、その約1割が会費を
振り込んだ、
その総額3億円!!
    
サラリーマンの平均生涯賃金約2億円、フリーターで確か9千万円弱の世の中である。
何もしないで3億円搾取は、それは確かに詐欺罪が成立するだろう。
(ゲイの人の「男同士の出会い系サイト」とゆーならともかく)
星の数ほどある「出会い系サイト」のそのひとつ(しかも出会えない系)で登録者1万8千人
というその数に、私は驚く。 しかしね。
     
インターネットが、メールが登場するまでは、日本人の男女交際は制約の多いものだった。
学校、会社、誰かの紹介。 近場で成立すること以外ほとんどなかった。
だから職場で別れでもしちゃったあとは気まずい思いをして、中には転職する人まで
いたくらいだもの。 「近場で出会う以外の方法を、知っていたなら誰か教えて!」な状況
だったのだ、遠く、遠くのまた遠く、そのくせ手軽なインターネットに群がる気持ちも分る。
     
誰もが森鴎外の「舞姫」みたいにはいかないのだ。 
国費留学生としてドイツに医学の勉強に行った鴎外はドイツ人女性と一世一代の恋をする。 
(日本人なぞ海外にほんの数百名というような時代だ。)
しかし彼は国の命令でドイツに行ったのだ、しかもその恋愛を知った鴎外の母は自殺未遂ま
でやらかしているのだ、長く長く外国航路の船に乗って帰国しなければならぬ。
その悲恋はやがて「舞姫」という作品に昇華された。    
恋が単に「やりたい」(これだけの若い男ってホント多いよな〜)や「ひとりがさびしい」
(今の「ひとり」は人間関係が密だった昔に比べて、良くも悪くも本当に「ひとり」だ)
に比べて、昔の恋愛は「心の大仕事」だった。
     
「会えるんです」のタイトルに大笑いはしたが、同時にいろいろ考えてしまった朝の「迷惑
メールお掃除タイム」ではあった。
    
みんな、どんな方法であれ、ちゃんと好きな人と巡り会えますように。
      
      

八月某日「なくした手袋の、その残り」
  
私の指は標準より少し長いサイズらしく、冬真っ盛り、気の早いデパートが
冬物一掃セールをやっている季節になって飛び込んでみると
「サイズなし」
の憂き目にいつもあう。
(つまり安くは買えないってことね)
      
薄手革の黒手袋がお気に入りで、いつも(スクーターに乗るときはもっとごっついが)
これをはめて冬を越す。 ところが。
なくすのである、それも必ず左手のを。 細かいことは左利きなので(力業は右利き)、
自動販売機や駅の改札ではずして落とすらしい。 
そう、いつもボ〜ッとしてるかメチャクチャ気がせいているかの連続で、うっかり者の私は
寒い冬の間、左手ばかりポケットにつっこんで歩いていた、
半身を壊して杖を使うようになるまでは。
    
しかし、問題は残った右手の手袋である。 色は必ず黒だし、革だもの、質こそ違えど
デザインには大差ない。
「いつか右手の手袋をなくしたときのために。」とか、
これはあの頃の恋人が
「大きいの? どれ。」
といってはめてみたんだー、なんてほろ苦甘い想い出があったりとか、
ああ、道場破りは看板が増え、私は片っぽの手袋ばかりが増えていく。
     
かといって、子供のころのミトンのように肩に掛けるひもでつなぐわけにもいかんしな。
    
タンスの引き出しの前で、この暑い中、汗をかきかき、右手袋たちを見つめる私である。
(こんなんだから部屋片づかんのじゃっ!!)
    
      
     

八月某日「隣の人」
     
その人の本名は「鈴木順子さん」といった。
なのに何故ペンネームに「杉浦」を名乗ったのかはわからない。
「杉浦」は私の2つ前(養女にいく前)の本名だ。 だって東海地方の苗字だもの、
将軍家に仕えていたんだもの、江戸幕府開幕と一緒に江戸に出て、大政奉還で駿府に帰って、
また「東京」に戻って、だから「杉浦」。
    
会ったことのない父方の曾祖母は、徳川公爵のことを生涯「公方(くぼう)さま」と
呼んでいたという。
(彼女の胸のうちには「江戸・徳川の世ならば‥‥‥」という想いが終生あったの
だろう。 「サクラ大戦1」の「黒之巣会」のようだ・笑)
そして、その江戸の世界を描いたのが「鈴木順子さん」、ペンネーム「杉浦 日向子」さん
だった。 最初は漫画家として、後にエッセイスト、江戸風俗研究家として。
9年間続いた NHKの人気番組「コメディーお江戸でござる」の名解説者ぶりでご存じの
人も多いだろう。
     
最初に「杉浦」の苗字でマンガを描きだしたのは私の方が先だった。
尊敬する漫画家「杉浦 茂」先生とも同じだもの、これで行こうと思った。
ただ名前が「信子」と堅いイメージなので、以前からのアダ名だった「華子」にした。
「はなこ」と「ひなこ」、「あいうえお」のおとなり音同士だ。
はぼ同世代、大学で日本画専攻というところまで一緒だった。
     
「杉浦日向子」は彗星のようにデビューし、日本漫画家協会賞、文芸春秋マンガ賞を
受賞し、すぐれた描き手として大活躍しながら、30代半ばで「隠居宣言」をし、
マンガの世界から退いてしまう。
「杉浦華子」は「ヤマハの企業広告フルカラー4ページ」という企業向け漫画家と
してはとても好条件なデビューをしたが、どうあがいても商業誌にシフトできず、
「自分の描きたい世界」を描けないまま、バブルの崩壊で原稿料も上がらず、
貧乏で無名な企業漫画家・兼・商業誌イラストレーターのままだった。    
    
「名前には言霊が宿る」というが、そういうものかもしれない。
器がちがいすぎるのは明白で、嫉妬どころか私は彼女のファンだった。
名前を間違えられて困ったこともあったけれど、「別にかまわない」と思って
いた。 彼女が早々に漫画家を引退したときには「なぜ!?」と驚いたが、
後の「江戸ブーム」の先駆けとして、「必用な人なのだ」と納得した。   
    
「サクラ2」でカンナをヒロインに選ぶと、お正月イベントで「沖縄への帰省」が
ある。 大神と酒盛りをした夜、カンナはひとりで父親の墓の前に行きつぶやく。
「いなぐいくさのさちば」
これはゲーム中にも攻略本にも内容が説明されていない一言だが、沖縄の古い
ことわざである。「うなぐやいくさぬさちばい」ともいう。
     
「いなぐ=おなご=女」である。 暑い沖縄では水場は神聖なところであるが、
男性用と女性用とに別れていて、水浴びのための目隠しの石垣がある方を「女井」
(いなぐぐぁー)」と呼ぶ。
ユタ(巫女)に見られるように、沖縄では女性の持つ霊力を尊ぶ。
古代の戦争では、勝つために軍団の先駆けを巫女がつとめたという。
それが「いなぐいくさのさちば=女は戦の先駆け」ということわざとして残っている。
琉球空手で闘う切り込み隊長のカンナにふさわしい言葉である。
(なのになんでゲーム中で説明しなかったのだろう?)
    
杉浦日向子さんの言った「隠居」は「もうやめた」の意味には思えない。     
むしろ自由気ままに活躍の場をひろげるための「ひとつことに縛られない宣言」
だったのだと、アラーキー(荒木)氏と日向子さんの共著、フォトエッセイ集
「東京観音」を見て感じる。 百までも生きて、活躍して欲しかった。
           
あのころ「江戸時代」は忘れられかけていた。 そのまま消えてしまう運命にあったかも
しれない。 昨今の江戸ブーム、時代小説ブームがウソのようだ。
そこに現れた「いなぐ」が日向子さんだった。 まさに「さちばい」だった。
百までも生きて、語り継いでいって欲しかった、私の名前の隣の人。
2005年7月22日、咽頭ガンで逝ってしまった。 享年46。
1年8ヶ月の闘病生活、刻々と失われて行く命、さぞや死にたくなかったろう、
まだこれから、「隠居宣言」のあとにこそ、彼女にしか切り開けない世界が
待っていたのだから。
   
次第次第に機能を失っていくことは、苦しく、せつないことだ。 
内側ではむしろ「表現したいこと」がより研ぎ澄まされて頭の中を駆けめぐるのだから。
私はそれを体で知っている。 芭蕉の辞世の句を見るまでもない。
「夢は野山をかけめぐる」
いや、それすらも飛び越えた大きな器だったのか、彼女は。
それにしても、46才は早すぎる死だった。
    
    
杉浦日向子さんのご冥福を心からお祈りします。
   
        

八月某日「あつはナツいでんな〜(ベタギャグ)」
      
いやはや暑い。 夏だもの。 しかし暑いぞ。 強情張ってエアコン付けないから。
暑さボケで失敗やらかしました。先月の末に「暑中お見舞い・公開お中元」発表し
ちゃったのです、これじゃリンクしそこねる方も出るわね。
      
もういちど。 抜刀おばちゃんの「お中元」は「おせんべ」です。        
初のアニメ・シナリオに挑戦!(む‥無謀な‥)
これは「公開お中元」なので、気に入った方はどうぞご自由にお宅のサイトに持って
いって載せてくださって結構です。 期間も別に夏に限らないので(ほら、夏にもらった
そうめんを冬に「そうめんチャンプルー」にしたりするでしょ?)常設でも、お好みで。
    
といいつつ、ああ暑い〜。 そろそろエアコンのスイッチ入れますか。
    
みなさまも暑さに負けず、よい8月を!
   
   

      
      
トップへ戻る
         
「雑記」メニューに戻る