日々是好日・身辺雑記 2005年7月
(下にいくほど日付は前になります)

 
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七月某日「暑中お見舞い申し上げます」
    
いやあ、台風が近づいてきて、湿気っぽいことったら!
しかーし、ばっとうおばちゃんからの暑中お見舞い・御中元は「おせんべ」
我ながら、さすが「おばちゃんチョイス」です。
(70過ぎた母校の恩師からの御中元も今年は「あられ・かきもち」であった)
ここからも行けますし、トップのマリアのギャラリーコーナーからも行けます。
夏は塩分摂取も大切。 麦茶など飲みながら、おせんべぱりぱり、読んでください。
みなさま、どうぞ良い夏を。
    
      


七月某日「『マイ・フェア・レディー』は『
ロガネーゼ』」
      
さてさて「七月某日『Comme le premiere fois  めぐりあい』」で触れたミュージカル
「マイ・フェア・レディ」だが。
あまりにも有名な洋画のタイトルなので、目に、耳にされた方も多いと思う。    
主役は光り輝く時期のオードリー・ヘップバーンである。
オードリーの若い頃の代表作といえば、これと「ローマの休日」、「麗しのサブリナ」
「ティファニーで朝食を」といったところか。     
(渋いところでは「尼僧物語」とか)
       
これは元は舞台のミュージカルで、ブロードウェー、ロンドンと4年半主役・イライザを
務めたのはイギリスの新人女優、ジュリー・アンドリュース、後に映画「サウンド・オブ・
ミュージック」であまりにも有名になる『奇跡の4オクターブ』の歌声の持ち主だった。
(4オクターブって、あと私フレディー・マーキュリーしか知らないわ・笑)    
      
この映画化にあたっては、ふしぎな因縁が付いてまわる。    
    
まずジュリーが「モンキー・フェイスである」(!)という理由でハリウッドのカメラ・
テストに落ちる(舞台の観客3200万人の『ジュリー=イライザ!』の評価を無視して)。
最終選考に残ったのはオードリーだった。 ミュージカル映画である。 彼女は自分で歌っ
て撮影した、これをハリウッドは「ダミ声だ」といって切り、プロの歌手に吹き替えた、
それが今ある「映画・マイ・フェア・レディー」である。
だからヒロインの歌の部分だけ、クリスタル・ヴォイスすぎて違和感がある。
    
オードリーが自分の声で歌ったシーンをちょっとだけ見たことがある。 迫力があるし、
自然でのびやかだなぁというのが感想だ。     
今なら絶対本人の歌声で通すだろう。        
だけれども当時のハリウッド商売に求められる「美しさ」とは違った、というわけだ。
       
ヒロインのイライザはコックニー(ロンドンの下町ッ子)で、日本で言うなら
「べらんめえっ娘」の訛りがある。(「
」と「」がひっくり返っちゃうような。)
それを「ハンガリーの王女さま」と上流階級のおばさまがたに一杯喰わせてしまう。
訛りを矯正する冷酷無比なヒギンズ教授と友人ピカリング大佐、しかし、激しい心の対立が
いつしかほどけて‥‥‥ここから先は書くのがヤボだわさ・笑。
         
コックニーのイライザは「ハ行」が言えず
「今にみてなさい
ンリー・ギンズ教授っ!!」
とタンカを切る。(もちろん歌で。 痛快。)
原作のタイトルは「ピグマリオン」、バーナード・ショウ著である。
「マイ・フェア・レディー」というタイトル自体が、(もちろんマザーグースの「♪ロン
ドン橋落ちた♪」にひっかけているけれど)当時ロンドンの高級住宅街「メイファ」が訛って
イフェア」になっちゃったというものだ。
東京の白金台(しろがねだい)発祥のお嬢単語「シロガネーゼ」が「
ロガネーゼ」に訛っ
ちゃった江戸ッ娘、というウィットに富んだものだと知ったのは、つい最近のことだ。
いいぞ、ミュージカル! あたしゃ9月に新宿で「テネシー・ワルツ」観るんだい!!
(日本のルーシーこと「江利チエミ物語」(笑)。だからあたしゃ、ルシール・ボールが好きなんだってば〜!)
     
     

七月某日「エイサー踊りと、食卓と」
     
いやはや、東京某所でエイサー(沖縄のお祭り行列)と遭遇しちゃってラッキー!じゃ。
太鼓、三線と鳴り物ジャンジャカで、ああ、沖縄行きたい‥‥‥そういえば‥‥‥
    
事故で記憶と体を壊す以前、私は自宅でいろいろ沖縄料理っていたのを作ったのを、思い
出した。 
横浜に住んでいたので、中華街の食材屋へスクーターでひとっ走りして、皮付き三枚肉を
手にいれて「ラフテー(中華のトンポウローみたいなの)」作ったり、ソーメンチャンプ
ルーもゴーヤチャンプルーも、しょっちゅうだった。 固い「島どうふ」が手に入らなくて、
丘の向こうの老夫婦のやってる豆腐屋に「昔豆腐」を買いに歩いて行って、重石して水抜
きして「島どうふもどき」作ったし、「麩イリチー」や、難しい「ミヌダル」も作った。
     
私は自炊派だったらしい。
    
       
先日まったく無意識に、ふっと「キンピラごぼう」の作り方が口をついて出てきた。
「まずニンジンをきざみ、次いで泥付きごぼうを皮はむかずにたわしで洗った物を、2寸
に筒切り、マッチ棒より少し太めの千六本切りにし、鍋にサラダ油とごま油と半々に入れ、
種を抜いた鷹の爪はちぎり入れる時間で辛さを調節し‥‥‥」
しかし、現実には、私はそれができないのである。
      
理由はただひとつ。
「野菜」と「料理」との回線が頭の中で切れたままだからである。
スーパーの野菜売場を、私は素通りする。 並んでいる品々の名前は分る、トマトに茄子に
きゅうりにトウモロコシにごぼう。 新鮮なカラーピーマンも色々ある。 きれいだ。
   
それだけだ。
    
それをどう料(りょう)るか、以前は当たり前だった日常の知識と結びつかないのだ。
「植物」ではあっても、「農産物」ではあっても、「食物」に結びつかない。
記憶を失うということの不自由はこんなところにもある。
      
20才からは、仕事机に座る時間と台所に立つ時間が、きっと同世代人より長かった。
稼げばスヴェルト塗らずに(笑)画材と本と映像に注ぎ込んでいた。
時間があれば半身浴しないで、最初は貧乏な自炊、後にはドッコイの弁当に成人病食用に、
養母の老人食のために昭和10年発行の「婦人倶楽部付録・おそうざい四百種」を読んで、
メニューを考え、何種類もの状況の、食事をひとりで作り分けていた。
     
貧しくて、鋳物の1ツ口コンロと、七輪の炭火で毎朝ご飯を炊いていた日々が長かった。
2ツ口グリル付きの、あたりまえのコンロすら買えなかった。
それでも、それが苦にはならなかったのは「料理が好き」だったからだと思う。    
     
七輪でごはんを炊きたい。 煮干しと昆布でだしをとって、「さて今日のみそ汁の具は
何と何にしようか」と思いめぐらしたい。 ピリッと辛いきんぴらを作りたい、ドッコ
イには薄味、入れ歯の養母たちには、落とし蓋をして少し柔らかめに煮て‥‥‥ 
現実にそれができないのが、くやしい。
    
いつか、かならず、もう一度取り戻したいもの。
    
それは「食卓」である。   
      
      

七月某日「Comme le premiere fois めぐりあい(直訳:初めてのときのように)」
     
は、私の好きな映画音楽なのだが、「じゃぁどんな曲?」と尋ねられるといつも忘れている。
オィオィ、健忘症もここまできたか(笑)。
     
先日アニマルズの「朝日の当たる家」とエラ・フィッツジェラルドの「サマータイム」と
サッチモの「バラ色の人生」と‥‥と聴きたい曲が目白押しのCD 6枚組を通販で買ったのだが。
   
これが大失敗であった。「サマータイム」はライブで音最悪だし、その前にトニー・ザイラー
(知らない人は検索して知ってください。 明るいスキーヤーで役者です、若大将みたいな)の
「白銀は招くよ」(♪オー、ヤッホー♪、オー、ヤッホー♪)が、入るかぁ、普通!? 
いや、名曲なのは認めるけどさ、モノにやぁ順番てものが‥‥めちゃくちゃなのである。
しかも、「マイ・フェア・レディ」は映画版でジュリー・アンドリュースのミュージカル舞台
版じゃないから、吹き替えで上手なんだけどなんだかへんてこだし。    
(わたしゃLP 「舞台版マイ・フェア・レディ」育ち、これは詳しくはいずれまた。)
     
好きで繰り返し聴くアルバムを一時期持ってしまうと、何年経っても、街中でBGM でその曲が
流れてきたりすると、
「あ、この次はあの曲が来る‥‥‥アレッ!?」
てなことありまっせんか? 私だけ?
     
いずれにしても、名曲集にしてもその並べ方にセンスが問われるものである。
イタリアの暗い暗いネオ・リアリッスモ映画「鉄道員」の、しかもオリジナル・サントラ盤で
切ない子役の声まで入ってる、そのあとにさぁ、ドリス・デイの「先生のお気に入り(Twacer's
Pet )」を、もんのすごーく明るーくのーてんきに聴かされて、わたしはいまこのCD を処分
したものかどうか、頭抱えて悩んでいるのだ。 
    
もっと恐いのは
こっちに馴れちゃったら、どうしよう〜!?(涙目)ってこったな。
     
     

七月某日「いささか泣きが入っております編」
    
15年ものの我が愛車、だいぶんポンコツなのをだましだまし使用してきたのだが
・・・・来た。 カーエアコン壊れました、よりにもよってこれから酷暑の季節だっ
つ〜の〜に〜。
いよいよ買い換えか? 先立つモノもないってのに?
     
しかし謎なのは「モノイリは重なる」ってことですな。
養母の家、解体にン百万ですと。 どこにあるのじゃ、そんな金ッ!!  アタマ痛・・・
年内に取り壊し予定なので、銀行やら売り不動産屋やら(これがまた二束三文ときたもんだ)
司法書士やら、バタバタしている昨今です。
物の少ない、人力当たり前の昔ならいざ知らず、処分しなけりゃならない物は多く、
階段途中の立地で機械使えずの人力解体はかえってベラボーにかかり・・・・
     
家一軒、建てるのは簡単でも、人が住んでいた所を壊すのって本当に大変ですのじゃ。
あたしゃハナから「マイホーム」とゆー乙女チックな夢のなかった少女でしたが、もう
生涯絶対格安賃貸で、くすぶって生きよう!
と心に誓うのでした。
こりゃ美しくはないわよなぁ。
それもまた、よし。
     
    

七月某日「現金(ゲンナマ)に手を出すな!」
     
かつて私は、通勤途中とんでもない光景を目撃したことがある。
地下駐車場からカーブを切って走り出た現金輸送車。 その後ろのキーが外れていたのだ。
カーブしたとたん後ろのドアが開いて現金袋がドサッ。 
業務用の、枕ほどの大きさがある「ゲンナマ袋」である。 そのまま走り去る車。
出勤途中の私と、向こうから初夏の日傘を差して歩いてきた品のいいお刀自様は硬直した。
ふたりの間に麻?の、硬貨袋。
そのビルの中には銀行が入っていた。 あとは小店ばかり、朝からジャラ銭大袋なんて、
ここしか考えられない。    
「奥様、見張っていてください!」
開いたばかりの銀行に駆け込む私。
「い、今、現金輸送車が袋を落としました!!」
      
私、若い男の銀行員さんたち猛ダッシュで土足でカウンターを乗り越えるの、生まれて初めて
(というか一生一度でしょうな)見たよ。
       
しかし‥‥出勤途中だからそのまま、何も言わず、私きびす返して行っちゃったんだな。
というか、そこから      
歩いて2分で交番で、
たとえ1円玉でも一袋の謝礼1割もらったらどんなにかと、後で同僚に責められました。
ましてや500円玉だった日にゃぁ。
(だって遅刻寸前だったんだもんっ!)
お刀自様といいわたしといい、ネコババしないあたり、日本人、とっさのときに律儀である。
    
さて、長い前ふりはここまでで。
       
生まれて初めて遭遇してしまいました、「ジャラ銭釣り」。
あー、つまり自販機の低い釣り銭出口にねばるものつっくけて、上前かすめるのね。
昔はガムの噛みかすを出口の上に貼り付けて、とかだったんだけど、もっと計画的。
釣り銭は小銭(10円)から大銭の順に出るのを利用して、最後の一番大きい500円玉が
ひっかかるように粘度の高いスティック糊(白)をべったりこびりつけておくのね。
    
さすがに1000円札で400円の買い物、100円のお釣りじゃおかしいと気が付いて
速攻で近くにいた店のおばちゃん呼んで一発で分りましたが、いや〜。
犯人らしき人周囲に無し。 誰じゃ?
濡れた布で拭きはしたんですけど、糊がきつくてネト〜リとな。
     
そのあとその500円玉使うときにちょっと罪悪感を覚えてしまいました、まだ少し
ネットリしてたもんで。
     
昔々、新宿駅南口と東京駅八重洲口で「地見屋」さん(じみやさん、ちみやさんとも言う)
(小銭が落ちていないか、うつむいて地面を見ながらすり足でゆっくり歩く人)を見かけた
ときは
「ああ、生活かかってんだよな」
としみじみ納得した私だが、糊はあかんよ、糊は。
小銭拾うのはいいが、道具使ってまで盗っちゃいかん。
「あこぎ」という古い言葉がつい口をついて出てしまったのでありました。
      
     

七月某日「↓いやぁ、すまぬ↓」
      
いつも「さぁて、何を書こうかな」というときは『「」と4行』入れて考えるのでございます。
ついうっかりチェックしないで載せてしまいました。
別に白隠し文字書き込みというわけではないので(そんな器用なこと出来ないもんね。)
下の空白は気にしないでくだされ。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
        

七月某日「」
      
     
     
     

七月某日「星の上から星を見ている」
     
NASAがこのところ大騒ぎしているのは、彗星探査機ディープ・インペクトが、地球に
接近した「テンンペル第一彗星」に銅製の子機を衝突させるのに成功したからです。
太陽系が出来た頃に同じように生まれた彗星は、2等級ほども明るく光り、今後の分析で
様々なことが解明されて行くでしょう。
土星のタイタン探査も順調です。
    
一方で火星では、分析の結果なんと去年の3月に探査ロボットスピリットが空に流れる
「流星」を撮影していたことが最近になってやっと分りました
(スピリットに関しては今年2月の雑記「火星の大地にただいまふたり」をご覧ください。)
1年3ヶ月かけての分析結果です。 あいかわらず火星組(スピリットとオポテュニティ)
はマイペースでゆっくりやってるみたいです。       
    
    
タイタンは大気が濃いのでパラシュート降下でした。
大気の薄い火星では、パラシュートが効きません。 直接着陸は無理。
どうしたと思いますか?
たくさんの、濃い大気成分を詰め込んだバルーン、繭玉でもって正四面体を    
つくり、落下させたんです。 その繭玉たちの中心にスピリットとオポテュニティ。
落下の衝撃で繭玉は割れ、割れなかったものは(ここいらへんあまりくわしくないんですが)
中に火薬と最低限の8ビットコンピュータを仕掛けて置いて地球のNASAからひとつひとつ
「破裂する? YES,NO 」の指示を出してポンッ、ポンッと割っていったそうです。
そして最後の2つが割られ、スピリットとオポテュニティは火星の大地に降り立ったのでした。
     
考えてみれば、なんて手間のかかる、気の長い着陸なのでしょう。 そして、
2月に書いたように1日ワンステップのゆっくりさで火星を探査し、その結果も分析は1年
がかり。 でも、確かにふたりは火星にいて、今日も一歩ずつ進んでいます。
     
スピリットがとらえたのは、おそらく宇宙のチリが突入した流星群だったそうです。
「人工的な明かりがない火星の空なら、さぞや輝いていただろう。」と新聞は伝えます。
そうでしょうとも。 人類が初めて目にする、地球以外の惑星の大地の上での流星群を、
スピリットは見上げたのですから。
       
     

七月某日「名前がなかった7ヶ月」
     
「幼稚園中退」。
これが私の輝かしい学歴の第一歩である。 
5月生れの私は、6才になってすぐの6月に引っ越した。
(それまでは祖師ヶ谷大蔵の、今や「ウルトラマン通り」だか「円谷プロ通り」
だかに住んでたんだよん。)
      
引っ越した先は新興団地で、全50棟のうち最初に建った棟に越した。 あとは
まだ建設中。 考えてみりゃかなり乱暴な話だが、それ位首都圏の人口増加は
すさまじかった。
今みたいに絶対安全囲い塀もなくて、石工さんなんかが大谷石をかついで右往左往
するのに混じって、アスファルトをまだ流し込んでない低い砂利道を土ぼこり立てて
ぽくぽく、コンクリ流してベニヤ板で橋渡しいてるところはべよんべよん歩いた。 
ただ、幼稚園と公園はもう出来ていた。
私はその幼稚園に「絶対行かない!」と言ったのだ。
     
祖師谷の幼稚園とは違いすぎた。
それまでスモックはふわっとした桜色だったのが、汚れを目立たせないようにどすこい
深緑、しかも硬派なことににダブル、がっちりした白のセーラーカラー。
そこへ交通安全用にと似合わない黄色のカバンと、固い編みベレー帽。 
以前は紺のフェルトのベレーに、洋菓子の不二家のマークに似た洒落た白地の七宝のバッジ
だったのが、藍色とオレンジのどすこい波模様に白で「幼」の字が入る園章、子供心にも
色彩感覚メチャクチャな制服だった。
   
それまでの幼稚園のような自然木の高い生垣じゃなくて、鉄格子のグラウンド内ではしょっ
ちゅう行列のホイッスルが鳴り、さらに恐ろしいことに、「交通安全のため」と称して
二列に手をつながせて、軍隊調マーチに合わせて「1、2、1、2、」と行進して帰すんである。
(今考えても経営者の頭の中味にいささか問題があった気がする。)
    
6才と3週間の頭は必死で考える。 ここに入れられたら私は変になってしまう、と。
      
「わたし幼稚園、行かない。」
6才と3週間と3日目、キッパリと言い放った
     
「あ〜そう。 じゃ、小学校始まるまでそこらへんで遊んでなさい。」
旧制女子師範学校卒業生、母、あっさりと言った。
これだけで終りである。
      
誘拐も異常犯罪も起きていないのどかな頃、小学校に入ってから「あいうえお」を覚えた頃、
お受験もなく、幼稚園や保育園、(今は英会話まで教えてくれて王侯貴族のようだ)親も街も
そんなにピリピリしてなかった。 
いや、首都圏では行くのが普通だったが、そこはそれ我が母は長く教員生活を送って、逆に
「子供はなんでもあり」なタフなおばちゃんになっていた。
「幼稚園行きたくないならいいわよ。 でも7ヶ月経ったら小学校行きなさい。」
       
同じ階段の10軒、兄と私以外は、まだ赤ん坊しかいないか夫婦ふたりの家ばかっりだった。
毎日ひとりで公園に行った。 2〜3日に1人は新しい子が引っ越してきて、その子と遊んだ。
数日するとその子は幼稚園に行くことになり、午前中は公園に来なくなる。
そしたら、また次の引っ越しの子を待てばよい、その子もすぐ来なくなるけど。
名前を覚えるのは今も昔も苦手で、名前で呼んだ、呼ばれた覚えがない。
午後は小学生や、幼稚園に行った子たちが団体で来るので、勢い家で遊ぶことになる。
     
ひとりだった。 4つ上の兄は前の小学校に遠距離通学していたし、精神年齢が10位上
なので、私はこの兄と1回半しか遊んだ記憶がない。
    
ひとりで絵を書いて、本を読んでいた。 兄の本はあるは、戦前の「北原白秋児童詩集」や
島崎藤村の「ひらがな童話集」はあるは、浮世絵や鳥獣戯画の写真集はあるは、
新仮名遣いと旧仮名遣いを同時に覚えて、テレビは「ぶーふーうー」と「ひょっこりひょ
うたん島」位しか見ないし(父がテレビ嫌いだったので)、なんだか大人と子供と戦前の
入り交じった、奇妙な7ヶ月間だった。
   
覚えているのは、子供同士の世界の中では私は「名前のない子」だったことだ。
それは、事故で記憶を失って昔の友人をほとんど無くした今にも似ている。
どこからか流れてきて、どこかへ流れていくように、見えたろう。
本当は、変らずここにたたずんでいるのに。     
       
私は名前のない子供だった。
その7ヶ月は、幸福でも不幸でもなくただ淡々と過ぎていった。
    
      
     

七月某日「間違い?メール」
     
「理美です、覚えてるかな、去年海で出会って・・・・貴男のこと忘れられなくって」
覚えてねーよっ!! ここ何年も海行ってねーよっ!!
まったく、どこの名簿屋にアドレスが載っちゃったんだか知らないが、18才専門学校生の
美里亜ちゃんから熟女の貴美子さんまで、メールボックス見るたびに
「あのなぁ、こっちとらぁ女買うほど困っちゃいねーんだよっ!
と古典的ポン引き撃退セリフがタメ息と一緒に出る。
「24時間、出張ホストが貴女のもとへ・・・・」も来て欲しくないっ!
不思議なものでこのテのメールはしばらく続くと止み、またしばらくすると
「響子28才 OL、とにかく男に飢えてるんです! 私とセックスしてくれたら即金で
50万円さしあげます!!」
・・・・5円あげるから、おうち帰れっ。 な日々が続き、また止んで、また始まって。
今日来た「真奈美」さんは160cm-46kg,スリーサイズ86-60-86 なんですとさ。
あのね、私現実に半年前156cm-44kg だったけど、あばら浮いて数えられたよん。
その身長・体重・スリーサイズで「ナイスバディ」はあり得んぞ、人体構造的に。
あったらサバ読んでるアイドルか、ゲームキャラ設定だね、そりゃ。
いずれにしても「絵理沙ちゃん」も「由紀ちゃん」も「茉莉奈」ちゃんも、メールを送る
相手を間違っている。 というか、こーゆー「腐れメール」、なくならんもんかいな。  
     
      

7月某日「まちがいでんわ」
     
だらりーんとしていたらベルの音
「はい、もしもし。」
「もしもし・うさぎですけど、たぬきさんですか?」(3歳児くらいの声)
「・・・・・いいえ、うちはパンダです。」
カチャリ
    
うさぎさん、こんどはちゃんとたぬきさんとこにかけられたかしらん?
    
     

七月某日「カササギの橋」
    
カササギはカラスの仲間。 黒地に白の肩と腹、尾が長くシャープで美しい鳥。
しかもカッコいいことに。 七夕の伝説で重要な役割を果たします。
天の川を渡る織姫のために列を成して橋を架け、文字通り恋の橋渡しをするんです。
彦星こと牽牛、天の川を牛にまたがってジャブジャブ行くんじゃなかったのね。
織姫のほうからカササギの翼の橋を軽やかにわたっていくの。
   
しかし。
七夕が終ってまたその橋を渡って帰るとき、どんな気持ちかな、などと考える。
見送る彦星、振り返り振り返りカササギの橋を渡る織姫、どちらが辛いだろうかと。
(いや、ふたりとも辛いのは同じだけれどもね、辛さの質が違う気がする。)
ほっそりとした織姫は、何度も振り返って、泣いてしまうんじゃないかなあ。
これがごっつい(なんたって牽牛、牛飼いだもの)彦星が渡ってくるなら、帰りは
なにせ鳥の橋、心中はともかく、重い目に遭わせないように急いで渡る、と、思う。
       
と、こんなことを考えるのはドッコイと私の婚約期間がとても長かったからだ。
(3年以上婚約者のままで、周囲の友人に「いーかげんにせい」と言われたもの。)
ドッコイのお母さまが軽い脳内出血で倒れたり、ドッコイのおばあさまが亡くなったり
した、そのたびに結婚も延びた。
(同棲でもよかったんだけど、ドッコイは出身地の、小なりといえど本家の一人息子、
地場産業のエライさんの子だったので「嫁を迎える」をしない限り向こうのお父様が
お見合いとか勝手にセッティングしちゃうのだ。)
     
なんべんも会って、能や狂言を観たり浅草に行って遊んだりしても別れの時間は来る。
私たちの間には、ふたりの住まいの真ん中よりほんの少し私側寄りで
「じゃあ、またね。」
する、というルールが出来ていった気がする。 
カササギの橋の真ん中でわかれることはできないものか。
背中を見るのと見せるのとどちらが辛いのか、辛いさに「あいこ」はないものか。
   
海外出張族ドッコイのパートナーとしては、(しょっちゅう行ったり帰ったりだ)、
馴れたつもりでも背中の残像は日が経ってからくり返しやってくる。
むしろ病に近く、日本にいる時にでも、朝送り出してから昼に憂鬱になるほどだ。
これは「湾岸戦争」「イラク戦争」とたてつづけに巻き込まれて、最後にはクルド
人居住区に転がり込んで空爆を逃れたドッコイの、相棒である私の持病だ。 
イイカゲンにせいっ! わしゃ外人部隊の妻か!(ちょっと近いかも。)
名作漫画「火消し屋小町」の脇役、消防士の妻「山田花子」の気持ち、わかる。
     
彦星と織姫はカササギの橋を渡って別れて、哀しいけれども幸せだろうな。
1年後にはまた会えるもの。 デートのカップルもそうよね。(「別れ話のデート」
なんて、ややこしいのはこっちに置いておく。)
「必ずまた会えるよ」と約束してくれる、カササギが、私は好きです。
     
          
みなさまよい7月を。
       
      

      
      
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