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日々是好日・身辺雑記 2005年10月
(下にいくほど日付は前になります)

 
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十月某日「『エ○ンの花』に思うこと」
    
いやしかし、検索かけたら28400件である、「エ○ンの花」。
「人気漫画から描写盗用・単行本を絶版に」との見出しで新聞に記事が記載
されたのが、今月19日の朝。
講談社出版の「エ○ンの花」(全12巻)の中に、人気バスケット漫画「ス
○ムダンク」や「リ○ル」(集英社)の描写から盗用があったとして、
「エ○ンの花」だけでなく同一作者の単行本25点が回収・絶版、現在連載
中の作品も中止。 事実上、作者の「永久追放処分」と言っていいだろう。
   
ここまで厳しい処分もめずらしい。 まあ元ネタの「ス○ムダンク」はメガ
ヒット、日本だけでなく世界中で出版されアニメ化された名作ではあるが。
(私の持っているタイの海賊版「サクラ大戦アンソロジー」は、なぜか裏表紙
がスラ○ダンクなんである・笑)
なんでもインターネットの掲示板で指摘があったのがきっかけだそうで、私も
調べてみたら「元ネタと問題画面を色替え、倍率を揃えて重ねて」見せている
所もあったりなんかして、たしかに、もののみごとにトレースである。
(この他にも「盗用された漫画家」の名前があがっている)
人物のポーズ、背景描写、画面の構成、そっくり。(違うのは髪型とファッ
ションだけだ)
裁判沙汰になったら確かに勝ち目はないだろうな、ここまでそっくりだと。
      
盗用した作者は、いっちゃなんだが「デッサン力」、あまりない。
「デフォルメ」のひとことでは済まされない、決定的な画力不足ではある。
でもね、しかしね、少年漫画と少女漫画との根本的違いはここにある、とも
言えるんである。 「バロック」の語源が「ゆがんだ真珠」であるがごとく、
「○ーラー・ムーン」も「○内すずえ」も「○家の紋章」も、写実的でない
がゆえに読者の目を引きつけて離さない・・・のであろう、きっと。
(・・・個人的にはあまり好みではないのだが、一度読み出したら止まらな
いね、きっと・笑)
     
漫画の場合、基礎画力のある・無しは、画面を裏返して透かし見れば一目で
分る。 反転して違和感があれば、それは「作者独自のデフォルメ」のレベ
ルではなく、単なるデッサン狂いである。
アップの顔だけ描いているうちはまだいいが、アクションポーズや背景描写
が出てくると、しんどくなるんである、漫画というものは。
    
そうならないために、漫画家志望者は一所懸命勉強するし、出版社によっては
「これぞ!」という新人に集中的にインストラクターをつけて、「画風」を
より洗練された、安定感のあるものにするよう「一熨斗(ひとのし)」したり
する。 連載中の作品がアンケートでポイント高くなれば(つまり雑誌の売り
上げアップにつながれば)、原稿料も上がるし、単行本の印税収入もケタが
ひとつもふたつも増えるので、プロダクションとして腕のいいスタッフ(背景
専門だったり、特殊効果専門だったり、いろいろである)も雇えるし、優れた
チーフ・アシスタントやマネージャーがつけば、作者は作品を描くことにのみ
集中できるし。   
若くしてデビューした漫画家の場合、吸収力が非常に強いので、1年足らずで
画風ががらりと変わる、なんてこともある、盗用された漫画家の場合も「ス○
ムダンク」以前の作品ははっきりいって「ぎこちない」。
小説家もそうだろうが、日本の漫画家の場合こうして「化ける」度合いが高い
ので、読み手にとっては、そこがまたおもしろかったりする。
細かく見れば、長い連載のどこで広いマンションに引っ越してスタッフの数を
増やしたか、どこで腱鞘炎にかかって筆圧が変わったか、どこでよそのプロダ
クションから助っ人が来たか、なんてことまで分るんだな、これが(笑)。
     
現在の日本の少年・少女漫画の基礎を築いたのは故・手塚治虫さんである。
その意味では、みんな、もはや意識もしないで「パクっている」ことになる。
コマ割りもカメラワークも、特殊効果の技法も、手塚さんの作品を叩き台にし
て、その時代時代に、赤塚不二夫さんや永井豪さんや萩尾望都さんや、その他
たくさんの漫画家たちが新機軸をうち立てて、こんにちの日本の漫画がある。
    
しかし、手塚さんの影響とまったく別の所から漫画を描いた、たとえば故・谷
岡ヤスジさん(「アサー」や「鼻血ブー」や「バターを頭にのっけた犬」や)
のような存在も、あるのではある。
       
話を「エ○ンの花」に戻そう。
私はこの作品を読んでいない。 が、調べた限りでもの申すなら、今回の顛末
はオリジナルの画風をきちんと自信を持って全面に出せなかった作者が、安易
に、あまりにも有名すぎる他人の作品の「トレース」に走った、という結果で
あろう。
単行本は初版が1万を切るケースも多い中、全12巻で120万部出たという
のだから、それだけ支持する読者がいたのだ、「読んでおもしろい」「物語に
共感できる」ところも沢山あったに違いない。
安直なトレースに走らず、「ス○ムダンク」でも「リ○ル」でも、それを参考
にした上で、さらにこの場合はバスケットのシーンなのだから、スポーツ誌や
試合のビデオをよく見て、自分なりの構図で、自分の画風で、自信を持って描
くことが出来ればよかったのだ。
あまりにも有名な作品の盗用を見抜けなかった編集サイドにも落ち度はある。
       
作者は(あえて名前は書かない)1975年生まれだというから、今29か
30か。 漫画家としては(個人差はあるが)一番脂ののった時期である。
老舗・講談社から25点も単行本が出たのだもの、120万部出た「エ○ンの
花」だけで、ざっと計算してもかなりの印税収入のはずだ、一戸建ての1〜2
軒は建つほどの。
食べるためだけではなく、本当に漫画が好きで「自分にしか描けない世界」を
持っているなら、どうしても描き続けたいのなら、思い切って画風を変えて、
あるいはペンネームを変えてでも、別の舞台で一から再デビューすればよい。
(ありがたいことに漫画家は小説家と違って作者の面がわれにくい、作者の顔
が写真で出にくい世界ではある。)かなり昔のドラマであるが「人の不幸は蜜
の味」で、理由は違うが、トップの座からころがり落ちて再デビューする世間
知らずの漫画家を、大竹しのぶが好演していた。
     
昨日までの味方は手のひら返すかもしれないし、あちこちから非難もされる
だろう。 なによりも今まで自分を支持してくれた読者を失うのだ、痛みも
ともなうだろう。 これまでに25点の単行本を出したということは、逆算す
るとかなり若い頃のデビューである。 他の世界を知らない可能性もある。
それに耐えてでも「描きたい世界」があるのならば、人生は長いのだ、少なく
なってしまったチャンスでも、きっとつかめる。 頭脳と腕とペンと紙さえ
あれば、漫画は描けるのだ、あとは本人のやる気次第である。
しかしそうでないのなら、ただお金や名声が欲しいだけならば、人生は長いのだ、
とっとと別の生き方を探すべきであろう。
   
     
     

十月某日「笑うホチキス!」
     
いや、でも「ホチキス」は登録商標なので、ちゃんと「ステープラー」と呼ぼう。
      
ここ数日、11月3日のサクライベント「江戸桜2」(大田区産業プラザPIO)に
出品するコピー本「愛のいろは坂・改」作りでステープラー片手にバタバタして
いた。 なにしろ病気で体力ナシ之介になってしまったうえに、家にあった
コピー機がついに壊れてしまい、原稿を外で刷らねばならず、刷って、折って、
順番に重ねて、バチコンバチコン製本するのはなかなかの手間なんである。
     
「帰ってきた抜刀質店」になる前の、「抜刀質店」は、サイトを立ち上げる前は
「おうちコピー機で両面刷り製本」が基本の、ちんまりしたサークルだった。
(例外は「てなもんやサクラ大戦」、これはオールキャラ本として、最初から
オフセットを前提に企画した。)
        
「ばんからさんが通る」「薔薇組の逆襲」「殿様とワタシ」「おっぱいがいっ
ぱい」「クリスマスのニケ」。 そして、インフォメーション・ペーパー「質札
1〜6」、その他モロモロ。 どれも「五色トナーでコピー刷り・手製本でしか
できないスタイルは何か?」というコンセプトに基づき原稿を描き、紙を選び、
刷り、ホチキス、いやさステープラーで手製本する、徹頭徹尾ハンドメイド・サ
ークルだったのである。
(おかげで「ばんからさん・・・」と「おっぱい・・・」をオフセットで再版す
るとき、コピー機にあわせて切った原稿をもう一度台紙に貼るはめになった。)
           
キャノンの「ミニコピア・PC-100」2台、オシャカにした・つまり潰した。
後から考えてみたら、コピー機2台で40万円弱、トナーと紙代もあわせると
オフセットで刷るより大幅赤字である。 バカだ、私(笑)。
     
「両面刷り中とじ」だから、ひな型を作って台割り・面付けをしなくてはならない。
仕事も家事も養母の介護もしながらだったから持ち時間はいつもギリチョンで、
ネームを切り終るとまず面付けのひな型を作って、それにあわせて原稿に取りかか
った。 一度コピー機を通した紙は熱と静電気を帯びて反ってしまうので大きな
画集を何冊も「重石」にして2〜3日寝かせなければならない。
コピー機も回しっぱなしだとヒートしてしまうし、アパート住まいだったから
けっこうな機械音で深夜には刷れず。 めちゃくちゃなナンバリングで描き進める
ので、ペンタッチやトーン番号の指定など揃えるのに四苦八苦。
      
だから全部描き終って、刷り終わって、順番に紙を折って重ね揃えて、
「さあ、ホチキス(・じゃない、ステープラー・笑)の出番だ!」
という時にはもう本当に、嬉しくて嬉しくて、睡眠不足で頭がハイになっている
せいもあって、笑いながらバチコンバチコン、大型の「A3ホチキス」に体重か
けて、えっさかほいさか製本していた。
    
長さが31センチもあるごっつい「ロングリーチ・ステープラー」なんてものも
使っていた。 そんなもの、この先はもう出番がないのだと分っていても、
どうしても捨てがたくて、とっちらかった部屋のすみっこにまだある。
    
小型本「薔薇組の逆襲」と「殿様とワタシ」は、仕事の年末進行(年末年始は
大きな印刷会社の輪転機が止まるのでものすごく忙しい)が過ぎてから急いで
描いて刷って、冬コミの当日・会場で製本、お正月をドッコイの家で迎えて
(一応、小なりといえども「本家のお嫁さん」で「信州・諏訪大社の氏子」なの
で接客やら初詣やら大変なのだ)すっとんで帰ってから描いて刷って、正月明け
1番のイベント会場で、当日、もう一般入場が始まっているなかでホチキス片手に
製本とゆー、今思うだにオソロシイ綱渡りの十日間をやらかしているのであった。
     
度胸があったのか、体力があったのか、それとももしかして単に「おバカな命知
らず」だったのか。 たぶん3番目だなあ、うん(笑)。
     
でも、いまだにホチキス手にすると条件反射でつい笑みがこぼれるあたり、まるで
「パブロフの犬」みたいである、私は。
会ったら「よっ、ホチキス!」って声かけてみてね、私きっと、笑います(笑)。
    
     
     

十月某日「ウチのじょうやちゃん」
       
自分の親のこと、なんて呼びます?
「パパ・ママ」ですか、それとも「お父さん・お母さん」?
オフィシャルな場では「私の父が・・・」「母は・・・です」でしょうか。
気ごころ知れた相手には、名前で呼ぶかもね、私の場合は
「ウチの確さんは・・・」「芳子さんがね・・・」
ですね、長い付き合いの友人には。
ふだんは「父・母」ですけど。
      
江戸っ子は「おとっつぁん・おっかさん」ですね、百年くらい前に、文部省の
「尋常小学校・国語」の教科書で
「オトウサン オハヤウゴザイマス。 オカアサン オハヤウゴザイマス。」
という一応「全国共通言語」が出るまでは。
(昔は教科書、国が出すものでした。 だから一種類しかないの。「ハナ ハト 
マメ」か「サイタ サイタ サクラガ サイタ」か「ススメ ススメ ヘイタイ 
ススメ」かで、その人の世代が分ります。)
    
「ウチの確さん」は祖父母のことを「ととさま・かかさま」と呼んでいたそうです、
小学校前は。 祖母が四国の出身なんで、たぶんその影響だな、こりゃ。
     
私はどうしたわけか「パパ・カママ」でした。 「カママ」ってなんじゃらほい(笑)。
なんでもおとなりの伊藤久美子ちゃん(年上)が「お父さま・お母さま」と呼んでいて、
真似っこしてるうちに「お母さま」が「カママ」になっちゃった、らしいです。
本人全然覚えてないけど。
    
おとなりの韓国は儒教の教えが根強いので
「私のお父様がこうおっしゃいました」「ウチのお母さまは・・・」
と、他人に話すときにも親には敬語を使うそうです。
いま大ブームの韓国大河ドラマ「チャングムの誓い」(土・夜11時・NHK)で
子供の頃の主人公チャングムが両親にキッチリ敬語を使うのは、そのせいです。
    
さてさて、私が七才になった日のこと、父が
「信子(これ本名)や、こちらに来て座りなさい。」
と畳に正座して言いました。 私が父の前に正座したら、
「今日からは、『パパ・カママ』ではなく『お父さん・お母さん』と呼びなさい」
以来幾星霜、親に対して「パパ・カママ」と呼んだことはありません。
そこいらへん、妙なところで律儀なんだなぁ、私。
フランクに「ねえ、確さん」と呼ぶと怒るんですよ、ウチの「確さん」は(笑)。
    
でもね、親御さんはあなたのこと何て呼びますか?
女子校時代、おっかないことで有名な先生の家に、どうしてもの用事があって
電話をかけたら、お母さんが出て
「○○ちゃ〜ん、電話よ〜」
・・・・びっくらこきましたよ、そりゃもう!
     
養母もその女子校で教鞭をとっていましたから、入学した12才の4月から
「津田先生」と呼んでました。 大学で日本画を専攻したので、しかもその恩師が
養母と同じ「日本美術院」(「院展」やるとこです。)所属の画家・中島千波先生
だったもので、ず〜っと「津田先生」。
本格的に介護するようになって、「こりゃ困ったな」と悩んだ挙げ句、養母のことは
「時おばさん」と呼ぶようにしました、「時子」でしたから。
なんせ「おかあさん」とか「おばあちゃん」と呼ぶと怒るんです、
「あたしゃ花の独身だよっ!!」って(笑)。 
でも同居していた養母のパートナー(やっぱり日本画家)のことは、「岡本先生」
って呼んでましたね。
中島先生が美術院を脱退しちゃったもんで、形だけは「岡本彌寿子の弟子」という
ことになってましたから。 卒業後は1枚も描いてないけどねー、日本画。(笑)
    
養母は私のことを「おまえさん」と呼んでいました。 
「岡本先生」は私のことを「のぶちん」・・・と呼んでくださいましたー(笑)。
母は私のことを「信子さん」か「あなた」か「のんちゃん」と呼びます。
父は「おまえさん」か「あんた」。   
・・・・・でもね。 
・・・・・あのね。
こないだ実家に用事があって電話したら父が受話器を取って、母を呼ぶのに。
・・・・・・・
「お〜い、じょうやちゃんから電話だぞー。」っとなっ?!
・・・・・・あたしゃなんですかい、「坊や」じゃなくて「嬢や」で、
しかも「ちゃん」付き?
受話器持ったままその場にへたりこみましたね。 腰が抜けたわよっ、本当にっ!
43才、抜刀質店、親の愛が腰にくるお年頃でございます、ハイ。    
       
     
     

十月某日「ひじゃやーなのじゃー」
    
時計はなぜ「右回り」なのか。
理由は単純である。 地球が自転しているから、「日時計」を基にして
ゼンマイ式の「右回りの時計」が西洋で発明されたのである。
地球の自転が逆回転だったら、私たちが手にする腕時計も目覚まし時計も、
みんな「左回り」だったに違いない。
    
小学校3年のとき、身体検査で私はひかかって、病院に行って精密検査を受けて、
心臓がちょっと悪いことが分った。    
以来ただ1回を除いて、持久走やマラソンはしたことがない。
頭の作りも「瞬発型」だが、体はもっと「一瞬動いて終り型」に出来上っている。
鳥で言うなら
「ハシビロコウ」ってとこかな?
    
そのときの検査でもう一人「要・精密検査」だったのは、小学校1年の頃の婚約者、
高橋K介くんである。(ちなみに小2のときの婚約者は川上K一くんである。
私は幼稚園のときから数えて5人の婚約者を持った・笑。 小学校のときはW婚約
である。 これを大人になってからやると、見事に『犯罪』である!・笑)
      
K介くんは「内臓半転」つまり左にあるはずの心臓が右に、右にあるはずの肝臓や
膵臓が左にある、という何万人かにひとりの体のつくりをしていた。
「今は普通に体育の授業に出ても大丈夫だが、体が大人になる時期には過激な運動
はやらないように。」
と医師に言われていた彼は、今、立派に小学校の教員である。
    
人間右利きの方が多数派なのは、いざというとき体の中の左側にある心臓をガード
しようとする本能のせいだと聞いたことがある。
私は両手利き。 ペンやカッターのように細かい仕事は左、お箸を持つのは右で
「左は稼ぐ手:右手は食べる手」、こりゃ大変分りやすい。
野球の選手の中にも、右バッターボックスの方が一塁への距離が短いので有利と、
あえて自分から進んで左利きになる人がいたりする。
       
私の場合、もともと左利きだったのが、小学校にあがるとき面接した校長先生の 
命令で右利きにシフトさせられた。   
お若い人にはピンとこないかもしれないが、私の世代位までは、左利きは「ぎっちょ」
と呼ばれ、「人前でものを書いたり食事するときに見苦しいから」という理由であえて
右利きに矯正させられるケースが多かった。
矯正に失敗した右手は、お見事なことに「握り箸」である。 だからといって本来の
左手で、となると、これがすっかり忘れてしまって全く使えない・笑。
     
ただ物心ついたときにはもう鉛筆を握って好きな絵を描きまくっていて、それだけは
どうしてもゆずれなかった。 右利きになんかなってたまるか、描きたいように描け
なければ生きてゆく理由がないもん。 6歳児だからつたない言葉でしか伝えられな
かったが、私は幼い頭で必死に考えて
「かくのはひだりききのままでいさせてください。」
と父に抗議文を突き出した。 父に手紙を書いたのは後にも先にもこれっきりである。
     
沖縄の言葉で左利きのことを「ひじゃやー」とか「ひじゃらー」という。
「左利き」のほかに「ひねくれ者」という意味がある。
フランス語で左は「gauche:ゴーシュ」、「左」の他に「ゆがんだ・曲がった・
不器用な」という意味もある。
ちょっと前の日本語では、「左利き」や「左党」というのは「呑んべえ」の代名詞
だった。 肴をつまむ箸を右手に持つと,なるほど盃は左手になる。
    
私はもののみごとに「ひじゃやー」で「ゴーシュ」で「左党」である。
現在胆石と同居中なので、深まりゆく秋を愛でつつ一杯やれないのが残念無念ではある。
快気祝いの盃は、いつでもスタンバイ・オッケーなのだが・・・・(笑)。
   
     
    
◆ところで、先のハリケーン「カトリーナ」による死者数は当初数千とも1万とも
 いわれたが、最終的にはこれはデマゴーグで、実際には1121人と判明。  
 一方、今月8日に起きたパキスタン北部からインドにまたがる地震では、当初
 死者数は2〜3千人と見られたが、被害の状況が明らかになるにつれ、現在確認が
 とれただけでパキスタン側だけで2万1千人、最終的には3万人を超えるとの
 見方が強まっている。
 津波や洪水と違い、地震災害では負傷者・被災者が多く出る。
 パキスタン政府は「被災者は400万人にのぼる見通し」と公表。
     
日本赤十字社(http://www.jrc.or.jp/)への義援金の送り方は以下の通り。
◆郵便振替
◇口座名義:日本赤十字社
◆口座番号:0110−2−5606
◇通信欄:「パキスタン北部地震災害」と明記のこと(振替手数料免除)
◆受付期間:10月11日(火)〜11月30日(水)
◇金額の大小は問いません。 
    
     

十月某日「1975年7月17日」
    
思い出した。 その日、夜7時のNHKニュースを見て、私は泣いたのだった。
      
いまからもう30年も前のこと、13才になって2ヶ月と4日目のことである。
悲しいニュースに泣いたのでも、感動したのでも、嬉し涙でもない。
もっと別の理由なのだが、それをどういう言葉で言い表したらいいのか分らない。
荒い画面、丸いハッチが開いて、二人の宇宙飛行士が手前と奥から空中をふわふわ
近寄っていって、握手する、という、ただそれだけの映像だったのだが。
アメリカの宇宙船アポロと旧ソ連の宇宙船ソユーズが、人類史上初めてドッキングに
成功したのだ。
    
30年後の今日、先月宇宙から帰還した日本人野口聡一さんと、スペースシャトル・
ディスカバリーの女性船長アイリーン・コリンズさんら5人の乗組員が来日して、
連日各地で大勢の人たちに歓迎されている様子のニュースが流れている。
10月3日にはロシアのソユーズが国際宇宙ステーションにドッキング、民間人と
しては3人目の(たぶんアメリカの?)大富豪が宇宙の旅を楽しんでいる。
すごいよ〜、お金の力で大気圏を飛び出せる時代になったなんて。
あなたも飛べばいいのに、ホリエモン・笑。
     
最初の?2人目の?忘れてしまったが、「民間人」として宇宙船にアラブの王子が
オイル・マネーにものをいわせて乗ったときは、折悪しくイスラム教の「ラマダン」
(断食月:日没まで飲み食いできない)の真っ最中。 イスラムの聖職者があわてて
「宇宙空間に出た時点で日没とみなす」
と宗教的見解声明を発表したもんだ。 でないと王子様、ひからびちゃうもんなあ。
     
10月1日、リゾート地バリ島で無差別爆弾テロ、日本人を含む多数の死傷者が
でた。 当局はイスラム過激派組織「ジェマー・イスラミア」による犯行と見て
捜査を急いでいる。
「憎しみ」という感情にはベーキング・パウダーが入っている。
一度ついたら燃え広がることしか知らない火種のように、テロリズムは終らない。
     
「抜刀質店」はおばちゃんなので、生まれたときから世界中あちこちで戦争が
あった。 それは植民地の独立戦争だったり、共産主義と民主主義との代理戦争
だったりした。 アフリカで、朝鮮半島で、インドシナで、ベトナムで。
超大国アメリカとソ連は「冷戦」というのをやっていて、どちらも
「いつでも・どこでも・だれとでも」戦争ができるように兵器開発に励み、
ソ連だったら共産圏の国々に、アメリカだったらベルリンの壁のこちらがわ、
38度線のこちらがわ、西ドイツに、韓国に、日本の沖縄や神奈川に、あちこちに
軍事基地をつくって自分の国の兵隊と兵器を配備していた。
    
私はアメリカ軍の戦闘機の爆音を聞きながら育った。 神奈川県まで百メートル足
らずの県境、「東京上空は飛ばない」なんて約束、米軍は守っちゃくれなかったので。
ひとたび軍事演習が始まるとなると、連日ジェット戦闘機がバカスカ飛んできて、
学校ではもう、うるさくて授業になんてならなかった。
先生も生徒も両手で耳をふさいで、それでも爆音は聞えた。
     
サイゴン(現・ホーチミン)が陥落して10年に及ぶ南北ベトナムの戦争が終結し
たのは、1975年4月30日のことだ。
沢山の南ベトナムの人たちが、艀(はしけ)のような小さな船にぎゅうぎゅう詰めに
乗って、どんどん亡命してきた。
「ボート・ピープル」と呼ばれたその人たちを、受け入れるか否かで日本の政府は
ガタガタピーピーしていた。   
      
南ベトナムに沢山兵隊を送って、爆撃したり「枯れ葉剤」を空からぶちまいたりして
いたアメリカは、旗色が悪くなった1973年には、さっさと軍を撤収していた。
戦うためにより高性能の戦闘機を作る技術開発は、一方でソ連とアメリカの
どちらが先に有人ロケットを飛ばすかの競争になっていった。
有人飛行はソ連の勝ち、月面着陸はアメリカの勝ち。
そして今度は宇宙空間で、ソ連とアメリカは握手したのだ、ベトナム戦争終結から
2ヶ月半しかたっていない、1975年7月17日に。
「これは人類史上輝かしい一歩だ」と胸を張って。
    
地上ではまだ苦しんでいる人が沢山いる。 それなのに宇宙では大国同士、地上の
いさかいなんかまるでないことかのように握手する。
そのニュース映像を見て。
    
私は泣いたのだ、悲しさでも喜びでも怒りでもない、名付けようのない感情の弦が
心の中で初めてかき鳴らされて、その音に涙を流したのだ。
1975年7月17日。 私は13才だった。
       
ベルリンの壁崩壊のときにも、天安門事件のときにも、湾岸戦争勃発のときにも、
世界貿易センタービル崩落のときにも、テレビの前で私は泣いた。
まだ名前のみつからない、こころのなかの、一本の弦の音に泣かされた。
     
大人になってもみつからない。 漫画家になっても、イラストレーターになっても、
こうして自分のサイトを持って、文章を書いても、まだみつからない。
私のこころのなかにある一本の弦の、その名前。
     
1975年7月17日の夜7時からずっと、13才の私がその名前を探している。
    
    
         

十月某日「じゅうがつ・ついたち」
    
10月だ!
    
日本列島はたてに長いので、沖縄の方は「まだ暑いわ〜」かもしれないし
(実際、以前10月から11月にまたいで沖縄に行ったとき、私は日射病に
なりかかったのであるからして・笑)北海道の方は「もう寒いです」かも
しれないのだが、私の住む南関東では10月は秋なんである。
今年は気象庁の記録を塗り替えて真夏日だったけれど、それでも朝夕の
この確かな涼やかさに気持ちが踊る。  
      
私はこの「10月1日」という日が子供の頃から大好きだった。
別に祝日でも、誰か好きな人の誕生日でもないのに。
9月は(南関東では、だが・笑)油断のならない1ヶ月である。
残暑の厳しさに、台風襲来に、年によっては長雨にと、何だか妙に気ぜわしい
ものだし、体調の方も「夏バージョン」なのか「秋バージョン」なのか迷う。
しかし10月は秋「本番!」と徒競走のピストルが鳴るように、おとずれる。
」は迎えるもの、「」はやって来るもの、「」はおとずれるもの、
」は忍びよるもの、それが私の「四季」である。
    
9月の末はなんだかバタバタしていた。
丈夫なことこのうえない実母が、突然ひざを傷めたり(前日にはお彼岸で
8月に亡くなった伯父の墓がある本郷と親友の眠る白金の寺と、お墓参りの
かけもちなんかしてもピンシャカしていたのに、翌朝突然である)薬の処方が
変わって、それに体がうまく順応できなくて、また処方替えを医師に頼んだり、
ドッコイがまたぞろ南アフリカに出張しそうな気配にあわてたり。  
    
しかし、母のひざもどうやらもちこたえてくれそうだし、ドッコイの出張は
11月になりそうだし、新しい薬は体に馴染んでくれそうだし、で、気持ちの
揺れもどうにかおさまって、カレンダーをめくった。
    
10月1日、両手をパッと広げて「十」、指を1本気合いを入れて立てて「一」
(中指はダメよ・笑・人差し指よ)これからの日々、秋の深まりを受け入れる
いさぎよい、そして、なんとなくラッキーな?日付である。
    
中学・高校と「地理」が大好きだった。 これだけはどの試験もみんな学年成績
一番で張り出されて、ふだん劣等生の私は気分爽快だった。
ちなみに通っていた女子校は私立だったので、成績は総合と科目別、全学年
30位まで張り出されていた。 私がトップを保ったのは地理とフランス語。
(フランス語を選択した生徒は私ただひとりだったので、あったりまえなの
でありました・大笑)
あんまりにも地理が好きなので、その頃の夢は
「将来は絶対画家か漫画家になって、会社通勤に縛られず、日本47都道府県
全部の県庁所在地に順番にアパートを(四畳半でいいから)借りて、47年かけて
日本全土地の四季をたどりたい」
とゆーものだった。 引っ越し魔だった葛飾北斎もビックリである。
そして、日本全土の10月1日を、肌で、息で、目で、耳で、感じたかった。
     
9月30日と10月1日は、ただ一日の時の経過に過ぎない。
国民的総行事「大晦日とお正月」や、3月31日から4月1日への「年度始め」
のような強制力はない。
    
ただ、10月1日は私だけの祝祭日、
「一生懸命いきてます。」
という私への、神さまからの小さなご褒美なのである。
     
    
みなさまも、よい10月を
     
     

      
      
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