日々是好日・身辺雑記2000年9月
(下にいくほど日付は前になります)

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9月某日「小便小僧のゆううつ」
画期的な発明というのは、まったく偶然の産物というケースがあります。
たとえば貼ってはがせる「ポストイット」(メモや付箋紙なんかに使うヤツ)、
あれは強力接着剤を開発している最中に出来ちゃった不良品がもとなんだそう
です。
「なんじゃこりゃ〜。 貼っても貼っても、一応その場にひっついてはいるけ
れど簡単にはがれちゃうじゃないか。」
ここで「不良品」とポイしちゃわないで、それなら何か別の使い道を・・・と
転換した発想が良かったわけで、大ヒット商品になりました。
    
薬の世界もまたしかりで、胃潰瘍の薬を作ったらついでに抗鬱作用もあること
が後から分かって、今じゃすっかりポピュラーな鬱病の薬になっているものと
か、本来は神経痛の薬だけど腎炎にも効くとか、いろいろあるようです。
   
一番有名なのは麻薬の「ヘロイン」でしょう。
先日読んだ本によると、この薬はもともと咳止めの経口薬として開発されて、
非常に効き目があると言うことで、発売に当たってメーカーは自信満々「英雄」
の女性形「ヘロイン」(ドイツのメーカーだったから)と名付けたんですね。
それだけ画期的な新薬だったそうです。
ところが。
処方を守って口から飲んでる分にはいいけれど、これを注射しちゃうとまった
く別の作用があると分かったからさあ大変。
しかし、最初に飲み薬を注射してみようなんて思ったおバカは誰よ、まったく。
   
さて、わたしは現在6種類の薬を処方されて、朝昼夕寝る前と飲んでおります。
ほとんどは味のない錠剤なんですが、ひとつだけ甘〜い糖衣錠が。
「なんじゃ?」
と思ったら、なんとこれ、私のかかっている病気とはまたく別の効用で
「子供の夜尿症」(はやいハナシ「おねしょ」)
にも効き目のある薬なんだそうな。 おいおいお〜い〜。
お子さま向けに甘くしてあるのね。
     
毎日ゴックンするたびに心中複雑であります。
おねしょ・・・ねえ・・・いやはや。
   
ところで某JR駅の名物「小便小僧」の噴水は、真夜中でもおしっこしてるの
かしらん?
(いや、一応ね、夜は止めるとかさぁ・・・)
           

9月某日「文字って難しい」
下の雑記はわざと少し古風な「〜である調」で書いてみました。
いやー、文字ってホント、並べるの難しいですなあ。
みんなどうしてサラサラ書けるの。 私にとって文章は永遠の迷宮だわ。
    
書き過ぎちゃいけない、言葉足らずでもいけない、浅くてもいけない、穿ちすぎて
もいけない。 絵なら一発で分かる焦点が、文字の並びの中では見えないのよ。
以前も雑記で書いたけれど、わたしにとっての文章書きは、最後まで構図の見えな
いパズルです。 ああ、しんどい。(笑)
     
それでもなんで文章を書くのかというと、実は今相棒がパソコンも使えないアフリ
カの奥地に出張中なのじゃ。 読まれない今のうちに、ホメとこうと(笑)。
書き上げた本人が要約すると「古風な文体とあいまって、長くて辛気くさい単なる
おのろけ文」のようなものなので、覚悟して下さい。(笑)
     
そういえば私の実父とゆー人は、戦前のカーボナイトだかエボナイトだか製(石油
以前のプラスチックのようなもの)の汁碗を子供の頃から今までずっと使い続けて
いるのですが、考えてみたらこれも「一生もん」と言えますわね。
                

9月某日「午後の汁碗」
長いこと使っていた汁碗の底にヒビがいってしまった。
    
漆器といっても、ごくごく安手のシロモノで、たしか特売で1ツ500円かそこら
だった。 それでも一応ちゃんと木目地で内は朱塗り、ぽってりとした暖かみのあ
る木の持ち重りが好きで、長いこと愛用してきた。
一人暮らしを始めた20代始めに、それまで実家で使っていたプラスチック製のを
お払い箱にして、自腹で買ったのだ。 それもペアで。
友人もよく遊びに来ていたし、なんとなく「そのうち出会うであろう恋人の分」と
いうはしゃいだ気持ちもどこかにあった。
なにしろ学生時代は(日本画専攻だったので)絵の具代でビンボー、卒業後働き始
めたら、会社が潰れかかって給料の遅配でビンボー、気合い一発・辞めてフリーに
なったら作品が全然売れなくてビンボー、とまあ、ビンポーの綱渡りのような我が
人生で、よくぞそんな色気と知恵が働いたもんだが・・・・
    
来客用に、後には相棒とのふだん使いにと大活躍してくれた汁碗だが、寿命とあら
ば仕方ない。 思い切って買い換えることにした。
幸い近所にいい塗り物を揃えている食器屋があって、ふらりと入って目に飛び込ん
だ根来塗(ねごろぬり・和歌山県の漆器)に一目惚れして、朱と黒を選んだ。
ごろりとした手ざわりの、朴訥な感じのする漆器である。 朱には黒、黒には朱の
下地の色が、木地の凹凸の底から磨き上げられて、じんわりと浮かび上がってくる。
値段は先代の10倍近い。 一生もの、とまではいかなくても、それに近い覚悟で
ある。
「ふだん使いの品で、塗り物と和食器と藍染めに凝り始める」
というのは、わたしにとって「人生の午後」という感覚。
藍染めはまだだが、和食器はそろそろかもしれない。
(「たれぱんだ」の茶碗使っててよくゆーよ、だが。)
四捨五入したらもう40だ。 折り返し点間近である。
ばたばたと走ってきて、気が付いたら年をとっていた。 引き返すことは出来ない。
仕事も、介護も、病気も、子供に恵まれなかったことも、これからも。
そう、これからも。
     
フリーランスの職業を選んだおかげで、選択肢の多い、おもしろい「これまで」だっ
たと言えるかもしれない。
(金銭的にはいつもヒーコラ言ってたし、勤め人のような社会的保証もなかったが)
仕事はキツくても、
「腕一本で世間を渡って行く」
という居職の職人感覚はスリリングだったし、どこか誇らしくもあった。
犬も食わない「誇り」だが、矜持(きょうじ)がなければフリーランスの「フリー」
は単に「のたれ死にする勝手」に成り下がる。
いや、実際「のたれ死んでいる」に近い現状かもしれない。
一番脂ののった仕事をしなければならないはずの5年半を介護で半ばリタイアし、
そして、自分自身のやっかいな病気とも向かい合っている今は。
昔の人はよくいったもので
「二ツ口は干上がらない」
のだそうだが、確かに相棒と一緒だからなんとかここまでやってこれた。
カタギの相棒は、私というフリーランスのパートナーの矜持も、気むずかしさも、
弱さもひっくるめて、実に上手に受けとめて、一緒に居てくれる人である。
超低空飛行でも、まだ背筋を伸ばして仕事を続けられる。 
私は汁碗を一緒に使う相方に恵まれた。
         
鏡のように磨き上げて美しい金の蒔絵をほどこした、傷ひとつにも気をつかうよう
な漆器は、ながめるにはいいけれども手元に置いて使うには気が引ける。
我が家のちゃぶ台であぐらをかいて迎える夕餉には、ピンと張りつめたスキのない
美しさは不釣り合いである。 食べ終えたあと
「はぁ〜、食べた〜。」
と気楽にごろりと出来なければ、なんのための家か、相棒か、私か。
内から地色がにじみ出るような、ごろごろ、ごつごつした、ろくろの目地が持つ手
に心地よい根来塗が、私と相棒の所帯にはちょうどいい。
    
ゆっくりと、午後が始まる。
      


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