第4回 レクチュア・コンサート

 第4回レクチュアコンサートは下記の事を話して歌いました。まず続けて歌い、その後話しと歌い較べて、表現の違いなどを聴いて頂きました。

 Schubert 作曲 Winterreise『冬の旅』の解釈と演奏 (2)後半(第13曲 ― 第24曲)
 
-Autograph (自筆楽譜), Erstdruck(初版楽譜), AGA (旧全集), NGA(新全集)
Henry Litolff's Verlag(リトルフ版), 新・旧ペーター版
などを比較して
バリトン:川 村 英 司
ピアノ:東  由輝子
 

前回話しました様に自筆楽譜、清書楽譜、初版楽譜、新、旧全集、ペーター版によって、それぞれ編集者の見解による相違がかなり有る事がお分かりと思います。しかもその違いが結構大きな表現の違いに繋がる事も、実際に私の歌い比べによって認識されたことと思います。一度目は付点8分音符に16分音符、同じようなフレーズが二度目には複付点8分音符に32部音符で演奏するようになっている自筆楽譜が、清書楽譜ではナイフで複付点のひとつを削り取っていたり忘れていたりなど、問題だと思われる校正がありましたが、それらも歌い比べで表現の違いに興味を持たれた事と思います。今日は前回の続きから最後の曲までを致します。

シューベルトが出版した『冬の旅』は第12曲で第1部が終わり、次ぎの第13曲からが第2部です。作曲を始めたのは第1部が1827年2月よりで、第2部は同年の10月からです。2回に分けて出版されました。

 印刷された楽譜の第1部は1828年1月14日に、第2部が病死の(命日は11月19日)42日後の12月30日に12曲づつ出版されました。

 1828年9月25日のフランツからイェンガーへの手紙に『「冬の旅」の第2部は既にハスリンガーに渡した。』とありますから、原稿(Stichvorlage)を渡したのでしょうが、それはもう存在していません。第1部の原稿は存在しており、前回その写譜状態と変更、校正を見ていただきましたが、今回の資料は、自筆楽譜と初版楽譜が最も重要になる参考資料です。

 シューベルトは10月31日の食事中に食べた魚がよくなく、直ぐに吐き気を催し吐き出してしまいます。体調が良くない所に胃腸障害ですっかり参ってしまった様です。

 11月12日に彼はショーバーに生涯最後の手紙を書き「僕は病気だ。僕はもう11日間何も食べず、何も飲まず、疲れきってフラフラしながらソファーからベットへ行ったり来たりしている。・・・・・たとえ何か食べたとしても、直ぐ吐き出してしまう。・・・」と書いています。

 皆さんはシューベルトがこの状態でどれだけ校正に専念出来たと思えますか?前回にも第1部でシューベルトがどの程度校正をしたのか?そして恐らく兄のフェルディナンドがフランツの曲の校正を受け持っていたと言う見解に賛成できると思える事についてこれまでに何度か話しましたが、第2部については物理的にもフランツが校正する事が出来なかったのではないかと思えるのです。従がって原則的に自筆楽譜重視になってしまいます。

 有り難いことに第2部では第1部の様に重大な自筆楽譜との相違点は有りませんが、全くないわけでは有りませんので個々の相違点について話を進めてゆきますが、最初に、この歌曲集を演奏する際に、休憩を何処でするかと言う事について話したいと思います。

 

 この歌曲集を演奏する場合の表現の盛り上がりを考えると休憩無しが、演奏する者にとって発声上一番良く、また表現上も楽であると思います。私は晩年になってからですが、日本で一度だけ休憩をした事がありました。集中力と体力が最後まで持たないのではなかろうかという危惧から13曲の後で休憩に入りましたが、結果は、14曲目の低い音から始まる Der greise Kopf の音が休憩を取ったために、低い音(声)がとても出しにくくなってしまったのです。おまけに休憩によって歌心まで休んでしまい、続けて歌った場合とのギャップがあまりにも大きくびっくりしてしまいました。それ以後はまた休憩無しで歌っています。

 冬の旅の演奏で休憩をはさみ第1部、第2部の12曲づつで演奏する人はかなり少ないようです。どうしても休憩を入れる場合にはDie Post の後にする人がとても多いように思われますが、一番良いのは休憩無しで演奏する事です。しかしヨーロッパの多くのホールでは休憩時間に飲み物の販売をするために、ホールによっては売店の利益を保証させられる事もあり、驚いた事があります。マネージャーに説得された事がありましたが、結果は忘れてしまいました。

 有り難い事に日本ではまだそのような事にあったことはありませんので、好きな様に出来ます。

 「休憩を何故12曲目ではなく13曲目の後にするか」疑問を持たれる方も居られると思いますので、私の見解を述べます。劇的な流れの中、何処で休憩が取れるかを考えた時に12曲の終わりに War ich so elend nicht.(私はこれほど惨めではなかったのに!)と歌って休憩にし、郵便馬車の来る音を聞いて心を弾ませて第2部を歌い始めるよりは、郵便馬車の来る音を聞いて心を弾ませ、曲の終わりに「もう一度あの街に行って、街の様子を尋ねてみないか?」と心の動揺をもって休憩にして、休憩の間に歌い手に心理状態も休み、目を覚ましたら雪が髪の上に積もり白くなっており、心と同様にやっと歳を取ってくれたのかと糠喜びをするところから、次なる放浪のたびが始まる方が劇的流れが良いと思うのです。恐らく13曲目で休憩を取る歌手は同じ考えなのではないかと思います。

 前回は話しませんでしたが、この歌曲集は「美しき水車小屋の娘」と違い、ミュッラーの詩全部に作曲しましたが、順序はミュッラーが考えたのを変えています。一度我が家のホームコンサートで詩人が考えた順序で演奏してみた事がありましたが、音楽の盛り上がり方や、劇的な流れの具合が、歌い手の僕自身に過大なストレスをためさせるような感じがして、これも一度の試みで止めにしました。

ミュッラーの順序は

1

Gute Nacht

1

2

Die Wetterfahne

2

3

Gefrorne Tränen

3

4

Erstarrung

4

5

Der Lindenbaum

5

6

Die Post

13

7

Wasserflut

6

8

Auf dem Flusse

7

9

Rückblick

8

10

Der greise Kopf

14

11

Die Krähe

15

12

Letzte Hoffnung

16

13

In Dorfe

17

14

Der stürmische Morgen

18

15

Täuschung

19

16

Der Wegweiser

20

17

Das Wirtshaus

21

18

Irrlicht

9

19

Rast

10

20

Die Nebensonnen

23

21

Frühlingstraum

11

22

Einsamkeit

12

23

Mut

22

24

Der Leiermann

24

以上の順序です。

 5番目のLindenbaumまでは順序は違いませんが、それ以外では最後のLeiermannが締めくくっています。若者が失恋し、冬の寒い所旅に出掛ける話としての組み立てをシューベルトが考えてミュッラーの順序を変えたのでしょう。

 私の勝手な言い分かも知れませんが、シューベルトが順序を変えたことによって、失恋した若者の心境がより豊かに表わされ、物語の流れとして歌い手にとっても表現しやすくなっていると思います。

 今日は先ず最初に13曲から最後までを通して歌います。前回には13曲まで歌ってから終わりにして、所謂休憩(次回)にと思っておりましたが、声帯の状態があまり良くなかったので、急遽出版楽譜に従う事にしました。曲に関しての説明などは歌った後で致します。

私の説明による先入観を持たれずに、先ずは先入観無しで聴いて下さい。 

 歌う前にもう一言述べさせて頂きます。

演奏はピアノと歌二人の共同作業です。歌っている人の心理状態、テンポをステージの上で刻々、瞬時に伴奏に伝えなければなりません。お互いに口で、言葉で伝えるのではなく、表現、テンポを音楽で伝えること、お互いに音楽でお互いの意思を伝え合う事が、所謂musizierenだと思います。しかし口で説明しなければ意思の疎通を図れない独唱者と伴奏者が日本にいる様ですが、ステージの上でいざと言うときにはどうするのでしょう。そんな事ではステージの上で突如涌き出たファンタジィーやイメージの変化を伝え表現に結びつかせる事は全くできないでしょう。

 私は幸せな事に世界的な伴奏者と共演できましたが、彼らとの共演で感じたことは僕が考えた表現やテンポの変化、フレーズイングの違いを瞬時の感じとって合わせてくれた事です。微妙な違いを歌っている本人と同時に感じてくれている事に驚いた事は数えきれません。(僕のHPの「発声について考える(6)」に共演した伴奏者の名前を書いていますのでお読みください。)

 

 では13曲目 Die PostからDer Leiermannの終わりまでを続けて歌います。

 では説明致しますが、どうぞ疑問点など、質問がありましたら、その都度質問してください。私が分かる範囲でお答えいたしますので、終わりまで待たれなくとも結構です。

最初は有名な郵便馬車です。


Die Post(郵便馬車)[13]

 この曲のピアノ左手は馬が駆け足のギャロップを音で表しています。右手はポストホルン(Posthorn)の音です。(ドイツやオーストリアの郵政省管轄のバスや街の郵便ポストにはポストホルンのマークがついています。)従って4,6小節のスラーはホルンのスラーであり、ピアノ演奏の場合のスラーとは音の繋がり方が違います。所謂レガートに弾かれては音色が違ってしまいます。ピアニストは色々な楽器の音を良く聴いて覚えてイメージして弾いてください。色々な楽器の音をイメージする事はピアノソロの場合にも非常に手助けになり、色彩感がまします。― 所謂レガートで弾いてもらうとこの様な響きになります。(ホルンのスラーとピアノのスラー)

 郵便馬車の演奏で忘れられないのはG. Mooreさんの伴奏です。あたかも馬車が遠くにある彼女の町からやってきて、自分の前を通り、他の町へ遠ざかっていく状態を彷彿とさせる遠近法のきいた演奏で、聴いていて唸ってしまいました。凄い人だと驚いたものでした。

 この曲でも新全集の問題点は松葉印のdecresc.=アクセントの書き換えです。34,85小節の頭に(譜例1)ありますが、15,22,44,60,66小節など(譜例2)では松葉印のdecresc.を使っているのです。この不統一感が不思議に思えるのです。勿論自筆楽譜も初版も松葉印のdecresc.です。

 

Der greise Kopf(白髪の頭)[14] 

 休憩の後でこの曲から始めるのは僕にとっては非常に難しいので、僕は休憩を取った「冬の旅」は1回しかありません。1度だけで止めました。低い音から始まる事。髪に雪が乗っかって白髪になったと、年を取った錯覚で喜ぶのですが、太陽が出てきて解けてしまい若者に戻った事を悲しむのです。

 その心理状態を表すのがこの曲の難しさでしょう。強弱の幅を大きくして極端にしないことが大切だと思います。

 43小節から44小節にかけての松葉印は自筆楽譜(譜例3)の方が僕はピッタリします。13曲目から清書楽譜は存在しませんが、初版(譜例4)旧全集(譜例5)新全集(譜例6)ではこの様に違います。

 

Die Krähe(からす)[15] 

 先ず自筆楽譜(譜例7)を見てください。初版(譜例8)ではこの様に変わりました。清書楽譜もかつてはStichvorlageとして存在したと確信しますが、今は残っていませんので、判断できません。旧全集(譜例9)ではこの様になっていて、新全集(譜例10)では斯様です。ペーター版(参考資料1)ではそれぞれ違っています。

 テンポについて、etwas langsamをどのように設定するか議論されますが、良く考えてあまりバタバタせず、と言って鳶などが飛んでいるようにのんびりはしない2拍子がよいでしょう。烏に対する恐怖、怒りなどをどのように表現するかが問題点でしょう。

 間もなく死ぬ自分の死体をついばむために、町からずーっとつけてきている不気味なからすに対する問いかけがこの曲の難しさなのでしょう。

 

Letzte Hoffnung(最後の望み)[16] 

 この曲の前奏を自筆楽譜(譜例11)初版(譜例12)旧全集(譜例13)新全集(譜例14)、旧(中声用)、新ペーター版(参考資料2,3)で較べて、一番自筆楽譜と違いが有るのはどの版でしょう。

 かつて冬の旅の演奏会の練習に旧ペーター版(参考資料4)を持ってきたピアニストがおりました。途中でびっくりして止めて楽譜を見せてもらいました。自筆楽譜(譜例15)にこの様にかかれているので、当然初版(譜例16)も斯様に印刷されています。その様な訳で旧ペーター版のような解釈で印刷が出来あがったわけです。本来ならばSchubertが16分音符の旗を譜尾に突き抜けない様に書くべきだったと思います。そうすると誤解される余地は無かったと思います。それともシューベルトは3連音符を考えたのでしょうか?両者を弾いてもらいますが、どう感じられますか? 当然の事ながらリトルフ版(参考資料5)も旧ペーター版と同じです。

 前奏、後奏及び間奏の音形は木の葉がちらちら落ちてくる様が表現されていると思います。しっかりと葉っぱがひらひらと落ちてくるイメージをして弾くとより効果的な良い表現になるでしょう。

 

Im Dorfe(村にて)[17]

 左手の動きは当然の事、犬が繋がれている鎖のガチャガチャする音、音をさせながら周りをうろついている犬の動きだと思います。無気味な、不快な鎖の音をどの様に弾くか、ピアニストのイメージの仕方です。休止符もきちっと守る事が大切です。

 19小節目からのポルタートの有無は自筆楽譜(譜例17)新全集(譜例18)でこの様に違いますが、強いてポルタートにしなくとも良いと思います。

 

Der stürmische Morgen(嵐の朝)[18]

この曲では3,9,19小節のスタッカートかスタッカーティッシモかの違いが入り混じって違っているくらいで大きな違いは全くと言って良いほど有りません。同じ言葉の繰り返しをどのような表現で示すかと言う点くらいでしょう。自筆楽譜(譜例19)旧全集(譜例20)初版楽譜(譜例21)新全集(譜例22)ペーター版(譜例23)

 

Täuschung(幻覚)[19]

 この曲で要求されている声はどのような声でしょうか?幻覚症状に陥っている旅人の半ば虚ろな声をイメージしているのですが、どうしてもイメージ通りの声が出なくで満足できた事はありません。

 3小節以降の右手のポルタートは恐らく清書楽譜自筆楽譜(譜例24)と同じであったのだと思います。なぜならば初版楽譜(譜例25)が全く自筆楽譜と同じに印刷されていますので。新全集(譜例26)では推測で前の小節にあるポルタートをシューベルトが省略したものと考えたのでしょう、付け加えています。同様に左手のスタッカートも付け加えています。

 

Der Wegweiser(道しるべ)[20]

 この曲の1,3小節伴奏左手のポルタートを皆さんはどう考えられますか?自筆楽譜(譜例27)初版楽譜(譜例28)新全集(譜例30)。同様なポルタートは各所にみうけられます。

 

 この曲でも詩人Müllerは韻をふむために42小節の単語をMaßenに対してStraßenとしていますが、しかしStraßenでは大きな、どちらかというと賑やかな道路で、ここで云う道しるべのある道は、殆ど人の通らないような道、あるいは山道(Weg)だと思うのです。折角人目を避けて人の通らない道を選んで町から離れて歩いているにもかかわらず、町の方向を示した道しるべが目に入ったのです。Schubertは意識的にWegenに変えたとしか思えません。そのような例は幾つでも上げる事が出来ると思います。前回の第9曲IrrlichtのGehenに対する後韻Wehenとしたミュッラーの詩の単語をLeidenに変えたのも詩の内容から意識的に変えたものと思います。

 

言葉の問題が出ましたので、その事について述べたいと思います。

一般的に言われている事ですが、「Schumannは意識的にテキストの変更をしたが、Schubertは思い違いでテキストの変更をした。」と言われていますが、僕は思い違いは確かにSchubertの方がSchumannより少しは多かったかもしれませんが、殆どはSchumann同様にSchubertも意識的に変更していると思っております。

 

Das Wirtshaus(旅宿)[21]

 この曲の前奏を自筆楽譜(譜例31)初版楽譜(譜例32)旧全集(譜例33)新全集(譜例34)で比較してください。ポルタートの問題がここにも存在します。自筆楽譜と新全集を比較して弾いてもらいます。どの様に感じられましたか?

 27小節以降の自筆楽譜(譜例35)初版楽譜(譜例36)リトルフ版(譜例37)、旧、新ペーター版(譜例38,39)旧全集(譜例40)、新全集(譜例41)を比べてください。ペーター版にだけ30小節に松葉印のクレッシェンドとデクレッシェンドがありますが、私は27小節に有るcresc. を曲の最後まで生かして22曲に直ぐ進みます。その他には問題はありませんが。最初に『愛』を失い、『希望』も失い、21曲で遂に『信仰』も失ってしまったのです。『愛、希望、信仰』この3つがキリスト教の大切な要素です。

 永遠の安らぎを求めて墓場にたどり着いた旅人が安らぐ空間を見つける事が出来ないのがこの曲です。Sind denn in diesem Hause die Kammer all besetzt? だから Nun weiter denn, nur weiter, mein treuer Wanderstab ! と最後の力を振り絞って歩むのが次の歌なので、曲の間を空けることが出来なくなるのです。それゆえに前で述べました、クレッシェンドのままで、次の勇気に入りたいのです。

 

Mut(勇気)[22]

 この曲も楽譜としての問題は殆ど有りませんが、前奏の4小節と後奏の4小節が旧、新全集(譜例42,43)のようなのが良いのか、自筆楽譜(譜例44)初版楽譜(譜例45)のようなのが良いのでしょうか?僕はどちらかと言うと前奏も後奏と同じで良いのではと思います。

 5,12小節の p をいかに生かして歌うか、しかも強い表現の p を弱弱しくしない事が難しいと思います。

 

Die Nebensonne(幻の太陽)[23]

 この曲で問題なのは三つの太陽が何なのかと言う事ですが、僕は前述の『愛、希望、信仰』で良いと思います。ヘッサート先生が『冬の旅』を通してみてくださり、人前で歌うのは30歳過ぎてからですよと言われ、またこの曲の「三つの太陽」はキリスト教の教えから来ているのですと、説明してくださいました。ヴェルバ先生もその様に考えておられたと思います。

 楽譜についての違いは自筆楽譜(譜例46)や初版楽譜にはない伴奏部のスラーが旧ペーター版(参考資料6)から加えられました。旧新全集(譜例47,48)も不必要と思われるスラーを加えていますが、加えた分を新全集では点線のスラーにしていますが、ベーレンライター/ヘンレ版では点線のスラーではありません。ペーターの前身とも言われているリトルフ版(参考資料7)は初版と同じになっています。

 言葉で大きな所はミュッラーが ,,Ja, neulich・・・" と書いたのを、シューベルトは ,,Ach, neulich・・・"と直しています。ペーター版と旧全集がミュッラーに従がっています。

 

Der Leiermann(辻音楽師)[24]

 子供の頃この曲を78回転の蓄音機で聴き、どうしてもっと感情を込めて歌わないのだろうかと、意味を分からずに思った記憶があります。ニヒルなと言うか、無感情な表現にどうしてこの曲だけつまらなく歌うのだろうかと思ったのでした。感情を込めて歌うとこんな風になってしまうのです。ヘッサート先生が「『冬の旅』は最初から23曲目で終わるのです。24曲目はエピローグなのです。」と言われました。当たり前の事ですが子供心にLeiermann単独のレコードを聞いて訳も分からずに思ったことが、良い想い出になっています。

 26,48小節の歌の旋律(シューベルトは繰り返しで作曲しています。)の1拍目は初版から8分音符2個になりましたが、自筆楽譜(譜例49)では付点8分音符と16分音符です。新全集(譜例50)では注として付点の形を掲載していますが、どちらが自然でしょうか?両者を聴いて下さい。

 自筆楽譜と初版楽譜が同じである場合には、それ以後にシューベルトの手直しの入る余地はなかったのですから、それに従うのが良いと思います。勿論の事、見落としによる間違いは誰にでもあることですから、後はそれぞれの編集者がどのような見解で楽譜を編集したかと言う事で違いが出てくるのですが、それだけでないミスプリントは出来るだけ直さなければなりません。

 その点でペーター版はもっと良心的であっても良いのではないかと思います。数十年間直していないのです。ミスプリントを指摘する人もいないのかもしれません。

 ここでもお願い致しますが、私が編集した「ベートーヴェン歌曲集」、「モーツアルト歌曲集」、「フーゴー・ヴォルフ歌曲選集」(全4冊)でミスプリントにお気づきの方は私か全音楽譜にお知らせ下さい。重版のたびにミスプリントは直しておりますので。よろしくお願い致します。

 

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