2002.11.19 掲載

発声について考える(4)

 深くゆったり息を吸い、それを効果的に(エコノミックに)使って声帯を振動させることで、個性のある繊細な、気持ちの良い声を出すことが出来るのです。少なくともクラシックの歌手が一番自然な声を出すのだと私は子供心に思っていました。それは父親の影響だと思いますが、言葉のわからないドイツ語やイタリア語で歌う外国人のレコードばかりを聴いていたのでそう思い込んでいましたが、戦後、日本人のクラシック歌手の演奏を聴いた時には不思議な、奇妙な気がしてしまいました。はっきり言うと奇妙奇天烈な、不自然な声に聞こえてしまったのです。勿論声楽家になろうなど中学5年卒業(因に旧制ですので)まで全然考えてもいませんでしたが・・・。
しかし大学に入って最初に庄司りゑ先生が我々新入生を前にして下記のことをおっしゃったことは、今になっても大切なことだったと感謝しています。

1) クラシック歌手はマイクを使わずにどんな大きなホールでも隅々まで透る声を出すのです。(昨今どちらかと言うと響きすぎるホールの多過ぎる日本であるにもかかわらず、マイクを使って演奏する歌手、団体が、特にオペラ公演で行われるのには驚きを超えて、クラシック歌手のプライドはそこまで落ちてしまったのかと嘆かわしく思っています。)

2) レッスン室でも大ホールでも同じように声を出して、隅々にまで透る声で歌えるようにするのが、クラシックの声楽の勉強です。(しかし「ピアノ伴奏のときにはフォームを小さく、オーケストラ伴奏のときにはフォームを大きく歌うのである」とNHK交響楽団の機関誌に寄稿した大声楽家がいました。どのような教育を受けるとこのような発想になり、このような発言が出来るのか不思議に思います。びっくり仰天ものです。)

3) 無理な声を出さないで楽に声を出す事がクラシックの声なのです。自然でなければなりません。(私の声楽教師としての経験ですが、受験時代に習った先生から無理な声を出さされたため、喉が痛いと言うと「痛いぐらい我慢しろ!1回や2回喉から血を出すくらいでないと声帯は強くならないのだ!」と怒られたそうで、絞り出すようにしか声が出せなくなっている生徒がいました。生徒の一生を台無しにしてしまったのですから、損害賠償の対象でしょう。ひどい先生もいたものです。所謂邦楽の鍛錬と一緒にしているのですから。)

4) 息はもらって歌うのです。押し出して歌ってはいけません。(ヴィーンではziehen して声を出しなさい。stossen してはいけません、と言われました。同じことの繰り返しになってしまいましたが、何度も心に刻んで、本筋から飛び出ないで下さい。)

5) 言葉は明瞭に聴衆に伝わらなければなりません。どんな子音もホールの隅々まで透るように歌うのです。(ベルカント唱法では声の為に言葉を犠牲にすると発言した先生を知っていますが、イタリアオペラの歌手で言葉が明瞭でない人は誰でしょう。かつて日本にベルカント唱法を根付かせたノタル・ジャコモ先生が「紙と鉛筆があれば歌詞が全部書き取れるように歌わねば」とおっしゃったそうですが、その教えは何処に行ってしまったのでしょう?)

 

そもそも言葉あっての声楽曲で、その言葉が何を歌っているのか分らないのでは発声法に欠陥があると言っても過言ではないでしょう。外国語のオペラで筋を追うために字幕スーパーを使うのは仕方ないとしても、日本語のオペラにまで字幕スーパーを使うとは!恥です!!演技が稚拙、歌も下手な歌手にとって字幕スーパーは勿論救いでしょう。聴衆の神経の殆どは字幕に注がれるのですから有り難い事です。これでは益々オペラは錯覚の芸術になってしまいます。レコードや放送で聴いても堪能できるオペラ歌手は本当に一流ですが、舞台装置、動作・芝居、衣装、照明、メーキャップなどがなければ鑑賞に堪えないのであれば、五流の歌手と言われても仕方ないでしょう。おまけにマイクまで使ったのでは悲しき限りです。何はともあれ、先ずオペラは母国語で演奏するものと思います。「und」を「ウントー」と歌われて原語上演もへったくれも有りません。正しくない発音で正しい表現など出来る訳がないのです。声楽曲の歌詞に仮名を振っている楽譜を見つけて仰天しました。 大学生が使う英語の辞書で仮名が振っていないと売れないという話しを10数年前に聞き驚いたのですが、そんな辞書を使う人は大学には行かないことです。規則正しい発音で初めて正しい表現が出来るのです。カタカナを振ってある楽譜を見て正しい発音が出来ると思う人は、そのシリーズを作った編集者なのでしょうが、僕には全く不思議な編集態度と映るのです。

 

歌を勉強する基本姿勢をと思って書き始めましたが、少々脱線してしまいました。庄司先生に大学1年間でお習いしたものはとても大切な私の基本でした。その1年間で僕の基本姿勢、基礎が出来たのでした。2年生からヴィーン留学までの足掛け7年間ヘッサート先生に師事し僕の基本が確立出来ました。それは大変貴重な勉強であり、ヴィーンでの勉強が大変楽になりました。いろいろ先生方に言われた事は折に触れて取り上げますが、とりあえず後に回します。

息をコントロールする事は、本来は簡単な事でなければなりません。優しく言葉を話す時には誰もが息を多く使って喋りません。あるいは笹笛を吹くとか、試験管の開口部を口に当てて音を出すときのことを想像して下さい。多量な息で吹いたのでは音が出ません。管楽器でも同様ではないでしょうか?息を多くしては音が出たとしても汚い音です。綺麗な音にするためには、耳で聴きながら息のコントロールをして吹くのです。管楽器は楽器が外にあるから聴き分けられるのですが、声楽は楽器が自分の肉体の中にあるので、実際どのように響いているのか客観的に声を聴き分けることが出来なくなる事態が生じるのです。最初の先生が大切だ!と言われるのは最初に自分の声を客観的に聴けなくなる訓練をされるか、客観性の持てる教育をされるかで、非常に身に付く癖が違ってくるのです。客観的に自分の声を聴けない教育をされると、つめたり、押さえたりした声を立派な声と思い、実際には良く透る美しい声を、腑抜けた、まとまりのない小さな声と思ってしまうのです。日本の声楽家に非常に多いKnödel(団子声)は発声上に欠陥から来ているのですが、良い声と思って教えている先生も、また大威張りで団子声で歌っている歌手も結構いるのではないでしょうか。ヨーロッパでは自己満足の素人だと云って嘲笑され、玄人は出さないKnödelを日本人が好んで出しているのは、最初に間違った教育を受けたためではないかと思えるほどです。

そもそも日本の古典芸能で使われている声はヨーロッパの声の観点からは不自然に作った声です。それゆえに『アジア人は喉を硬くしたり、押さえたり、つめたりして人工的に作った声を美しいという美意識を持っている人種である。』と主張している欧米の声楽教師がいる事を謙虚に受け止めなければならないと思います。真面目に生徒のことを考えて助言してくれる先生を「自分には合わない先生」といって先生を渡り歩いている日本人留学生、日本人ずれしておだてるだけのような先生を「良い先生」と日参する留学生など色々なタイプの留学生を見ています。悲しい事です。

問題は勉強の出発点で半分は決まるのではないでしょうか?恐ろしい事ですが、残念ながら事実です。勿論留学でガラッと変わって良い勉強をしてきた人もいますし、留学して悪くなったと言われている人もいますが、本当に悪くなったのでしょうか?折角良い勉強をヨーロッパでして帰国し、ほんの半年で元の木阿弥になった人も知っています。

かつて或るメゾソプラノがものすごいKnödelで卒業試験を受け最優秀の成績で卒業しましたが、ヨーロッパから帰ってまだ2年目の僕の耳にはKnödelが非常に邪魔になって最低点をつけました。しかもその後毎日コンクールに1位優勝し、イタリアに留学し、帰国した時にはスブレットで、彼女本来の声に戻っていました。イタリアで正しく勉強してきた数少ない人の一人と言えるでしょう。この様な例は全く稀と言っても良いでしょう。毎日コンクールで1位を取り、留学して『もの』になった歌手は何人いるでしょう。

コンクールの審査員にも問題があると思います。コンクールの海外派遣に選ばれ、早速の留学先のヨーロッパの先生に、得意になってコンクールを受験する旨話したところ、「とんでもない!」とあきれて怒られたという話もあるや!に耳にしています。勿論その人は何処のコンクールでも位のついた賞は貰っていません。その程度の人が、日本では毎日コンクールに1位になり海外派遣に選ばれることがあるのです。不思議な現状です。日本には「大は小を兼ねる」と言う諺がありますが、音楽では量より質が大切なのではないでしょうか?本来日本人は量より質を重んじる民族であったのではないでしょうか?

人によっては「明治維新以後の富国強兵策」が質より量に変わっていったといいますが、質を重んじる国に戻りたいものです。特に音楽ではそう願いたいものです。

 

本題に戻ります。吸った息をいかに少なく吐くことで声帯をきめ細やかに振動させ良く響かせるかということが大切です。庄司先生が「吐く息は100%響きに変えなさい!無駄な息を出してはいけません!」と良くおっしゃっておられましたが、どの時代でもその言葉は真理だと思います。長いフレーズを歌えないのは無駄な息を出しているからです。それ以外の何物でもありません。口先で「S」(スー)を出来るだけ小さな声で、喉をつめずに、長く発音してみてください。その場合お腹は少しづつ広がる感じです。勿論前後左右に広がるのです。横隔膜は1枚の膜ですので正しく使うためには前後左右に広がらない場合には、何処かで無理、無駄をしているのです。口蓋は何時も笑っているか、大きな欠伸をしているような感じで弾力をもって張っている状態で発音します。

また歌うための腹筋や背筋については、スポーツ選手のような訓練方法をするほどではないと思います。生まれたばかりの赤ちゃんには筋肉は何処にもありませんが、自然な声で大きく、良く響く声で泣きます。万国共通の声で、恐らく我々は赤ちゃんの民族性を聴き分ける事は出来ないのではないでしょうか。

腹筋の訓練をする時に特に気を付けなければならないのは喉をつめない事。体を起こす時に息を吸い、身体を元に戻す時に息を吐くのです。瞬発力はいりませんからゆっくり呼吸を整えながらすることが大切です。我々はボクシングをするのではないので、柔らかく張っている事が大切です。いずれにしろ息に関しては静かに、ゆっくり、深く息を吸い、同様に息を吐くのです。


息を静かに吐きながら喉を良くあけてお喋りをして下さい。柔らかな声でおしゃべりする事が第一歩です。肌理の細かな、綺麗な振動を声帯から得る為には、最初は静かに声を出す事です。

繰り返しになりますが、「25才まではPucciniやVerdiなど大きな曲を歌わせてはいけない!才能のある若者の喉を固くして一生を台無しにさせるのだから!絶対に大曲を歌わせてはいけない!」といったヨーロッパの著名な先生方を私は何人も知っています。俗に「入学する時が最高。段々悪くなって卒業!」と言われている大学の入試で歌われる曲はどうなっているでしょう。それを聞いたら腰を抜かすヨーロッパの先生は何人もいるでしょう。かの有名なバリトン歌手フィッシャーディースカウさんがベルリンオペラのオーディションに歌った曲がシューベルトの「影法師」だったと聞いた事があります。その曲でオーディションに受かってオペラ歌手としての第一歩を踏み出したのです。審査する側、聴く側の耳の問題です。

喉を固くしないためには舌根を堅くしないという事が大切です。喉を開けようとして声帯を広げない事も大切です。横に開けようとするとヨーロッパで言うdick(太い)な声になり、dünn(細い)な声にはなりません。「dünnな声」とは声帯が柔らかく綺麗に閉じて振動させた声です。しかし日本ではどうもdickな声が好きらしく声帯を無理に広げて息の多い声を出させる先生が結構いるようです。反面dünnにしようとしてeng(狭く)させる先生もいます。喉が良く開いて(offen)いて、dünnに歌う事が大切です。[BDG年次総会の様子を書いた記事をお読み下さい。]

 何はともあれ、良い声楽家の声だけではなく、ヨーロッパの良い音楽全般を沢山聴き、洋楽で求めている良い音を良く耳に入れてください。それが第一歩であり、非常に大切な事です。

川村 英司