バレエ・フォー・ライフ(モーリス・ベジャール・バレエ団)

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02年4月12日(金)

東京文化会館

 

振付:モーリス・ベジャール

音楽:クイーン,ウォルフガング・A.モーツァルト

衣裳:ジャンニ・ヴェルサーチ
アシスタント:アントニオ・ダミコ, ブルーノ・ジャネン
絹布へのペインティング:クリス・ルーシュ

照明:クレマン・ケロル

ビデオ・モンタージュ:ジェルメール・コアン

初演:1997年1月,パリ

 

イッツ・ア・ビューティフル・デイ  カンパニー

フレディ  ジュリアン・ファヴロー

タイム/レット・ミー・リヴ  カンパニー

ブライトン・ロック  カトリーヌ・マリオン, エリザベット・ロス, ティエリー・デバル, ジル・ロマン, 小林十市, クリスティーヌ・ブラン − ルイザ・ディアス・ゴンザレス

ヘヴン・フォー・エヴリワン  ステファン・ブルス, ジル・ロマン, アラン・ファリエリ

アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラヴ・ユー  エリザベット・ロス, ジュリアン・ファヴロー, 長谷川万里子, デニス・ヴァスケ

モーツァルト「コシ・ファン・トゥッテ」  ジル・ロマン, 小林十市, クリスティーヌ・ブラン − ルイザ・ディアス・ゴンザレス

カインド・オヴ・マジック  カンパニー

モーツァルト「エジプト王タモス」への前奏曲  ジル・ロマン

ゲット・ダウン・メイク・ラヴ  ジル・ロマン, ジュリアン・ファヴロー, クリスティーヌ・ブラン − カルリーヌ・マリオン − ティエリー・デバル

モーツァルト「協奏曲21番」  ティエリー・デバル, カルリーヌ・マリオン, イヴァナ・バレシック − ステファン・ブルス, クララ・ゴーディエ − ジュリー・ランビー, ギョーム・プルノ − ニコライ・エイテル

シーサイド・ランデヴー  カトリーヌ・スアナバール, ロジャー・カニンガム, バプティスト・ガオン

テイク・マイ・ブレス・アウェイ  ジル・ロマン, クリスティーヌ・ブラン − カトリーヌ・ズアナバール, セリーヌ・シャゾ, ジュゼッペ・バルサロナ

モーツァルト「フリーメーソンのための葬送音楽」  ジル・ロマン

ラジオ・ガガ  ドメニコ・ルヴレ, ジュリアン・ファヴロー, 男性全員

ウインターズ・テイル  イヴァーナ・バレジック − ステファン・ブルス, 小林十市

ミリオネア・ワルツ  那須野圭右, スターン・カバール=ロエ − ジュゼッペ・バルセロナ, ギョーム・プルノ, ニコライ・エイテル, アラン・ファリエリ

ラヴ・オヴ・マイ・ライフ−ブライトン・ロック  ジル・ロマン, 小林十市, クルスティーヌ・ブラン − ルイザ・ディアス・ゴンザレス

ボヘミアン・ラプソディ  ジュリアン・ファヴロー

ブレイク・フリー  ジョルジュ・ドン(フィルム)

ショー・マスト・ゴー・オン  カンパニー

 

ベジャール・バレエを見るのは6年ぶりでした。
この作品は98年に続く上演ですが,したがって私は初見。
クイーンとモーツァルトの音楽に振り付けた休憩なし100分間のオムニバス作品で,プログラムのベジャールの文章を抜粋してつなげると,「フレディ・マーキュリーとジョルジュ・ドンに触発されて作った」「若くして逝ってしまった者たちについての作品」で「陰気でも悲観的でもないむしろ陽気なスペクタクル」だそうです。

とてもいい作品でした。
生と死とか芸術について正面から扱って,これだけ魅力的なエンターティンメント(と言ったら怒る方もあるかもしれませんが)を作り上げるとは,さすがはベジャールだなー,と改めて感心しました。
ただ,その,なんというか・・・一言で言えば,感動できなかったのでした。無条件でこの作品の世界に浸るには,私は素直さが足りないみたいです。とほほ。

 

以下,印象的だったシーンを,(たぶん)順番に。

冒頭,舞台前面のフットライトがいっせいに白く明るくなり,音楽が始まります。(ロックコンサートみたい♪) 舞台の上にはダンサーたちが横になり,その上にはそれぞれ白いシーツのような布が。1人,また1人と上体を起こしていくダンサーたち。白を基調に黒のラインが入った衣裳で,全員少しずつ違うのがステキ。
そして全体での踊り。丸めたシーツのバケツリレー(?)がなかなか印象的。シーツをいっせいに空に向かって広げるシーンの,その白さの明るさ,美しさ・・・。
《朝の目覚め。世界はいつも美しい・・・。たとえ死が迫っているときでも? あるいは大切な人を失ったときでも?》

両手に翼を持ったダンサーが,そして後には,本格的な天使(←翼を装着しているから)が登場。この天使は,立方体の高下駄を履いているので(立方体にはFとMの文字が書いてあって,フレディ・マーキュリーを表しているらしい),地上をゆっくりと歩いて移動していきます。
《人間は高みを求めて翼を欲するが,翼があれば翔べるというわけでもないらしい。》

「アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」
花嫁姿のダンサーと胸の大きく開いた黒いシースルーのユニタードのファヴロー(フレディ)。花婿は別に嬉しそうには見えない・・・花嫁に暴力的だったりもするし・・・いや,花嫁のほうも暴力的か?(笑)
舞台の中央ではロスが踊ります。身体全体を使ったダンスの見事な迫力。黒い衣裳の女性が踊るから,花嫁と対比的に見てしまうけれど,実はフレディの内面の表現なのかしら?
《これが「I was born to love you」という踊りなの? 愛とはこういう激しいものなの? そういう形もあるのかもしれないけれど,この「愛」は・・・幸福な人生を約束するものには思えない・・・。》

「モーツァルト/協奏曲21番」
優しげな音楽。派手な色のドレスの女性と黒の多少正装的な(?)衣裳の男性によるデュエット。男性の誇張された優雅さにちょっと笑いました。
病院のストレッチャーに乗せられた男女1体ずつの死体。案の定というべきか,この死体は動き出します。(動いていても,やっぱりあれは死体だよなー) ストレッチャーを動かす看護人たちに助けられ,妨げられながら互いを求める・・・。
見ているうちに,音楽がとても官能的に聞こえてきたので驚きました。
最後は,デュエットを踊っていた2人のほうがストレッチャーに乗って運ばれていって・・・。
《死後も愛は続く? あるいは,死も生も同じこと?》

モーツァルト「フリーメーソンのための葬送音楽」
暗い照明,何枚かの引き伸ばされたレントゲン写真の前で黒いタイツのロマンが踊ります。その存在感と吸引力は圧倒的。
途中照明が赤く変わるのは・・・血の色・・・? 
そして,最後,陽気に手を振って舞台から去っていくロマン・・・。
《病に倒れたマーキュリーとドンへの愛惜と鎮魂のダンス? でも,ただ悲しんでいるわけではない,明るく別れを告げよう,と?》

「ラジオ・ガガ」
下手寄りに白い大きな立方体(上と前は開いている)。黒いドランクス姿の男性ダンサーがひとりずつ登場して,箱の中に入っていって,段々混雑。(笑うべきシーンなのか,男性の身体を鑑賞すべきシーンなのか,判断に苦しんでしまいましたー。両方だったのかしらね?)
胸の大きく開いた赤いユニタードに同色のジャケットのファヴローと赤のタイツ姿のルヴレが登場。
ルヴレがとても印象的でした。振付がバレエ的だったこともあるのかもしれないけれど,混雑する箱の中のその後やフレディのことは忘れて,ひたすら彼だけを見てしまったわ。
そう,彼がこの日の私のナンバーワン・ダンサー♪♪ 吸い込まれそうな瞳と舞台上での存在感,そしてなんと言っても胸の毛のセックスアピールが・・・。(笑)
客席からは手拍子もわきました。ロックコンサートみたいですねー。

「ウインターズ・テイル」
奥の立方体の中では,裸体に近い1組の男女が愛の営みを踊ります。
《それは生への渇望?》
舞台に撒かれる白い花。白いタイツの小林十市が踊る悲哀に満ちた美しいダンス。
《そして,それは,死を前にした孤独?それとも死の受容?》

「ボヘミアン・ラプソディ」
群舞の中央で,またもや胸の大きく開いた白いユニタードのファヴローがゆっくりと「歩く」踊り。「ママ・・・」という歌詞が聞き取れる音楽とあいまって,とても感動的でした。(でも・・・なぜ厚底靴だったの?)

 

「ブレイク・フリー」
舞台中央にスクリーンが降りてきて,その前で黒いタイツのロマンが踊ります。踊る影がスクリーンに投影されて,ちょっと儀式めいた印象。最後,両手を真横に広げる動きが,スクリーンでは十字架のよう。
そして,そのスクリーンには,続いて生前のドンの姿が映し出されます。両袖に並んでそれを見る(という演技をする)ダンサーたち。ドンの姿は,十字架に磔にされるシーンから・・・。

このドンのフィルムの内容は,たいへん凄絶な感じのもので・・・「マリオネットの生と死」と,もしかしたら「ニジンスキー・神の道化」なのかしら,肌色のサポーター姿で踊られる,いわば「身を削る」ようなダンスや,彼の顔から流れる血糊や・・・見るのがかなりつらい内容。
そう,踊るということは,ドンにとって踊るということは,そういうことだったのかもしれない・・・そう思わせられて,胸に迫るものがありました。

でも,同時に,「こういうあざとい手法を使うのか」とも思いました。
ドンの生前のフィルムを流すということ自体が,彼の舞台に感動したことがある者にとっては非常に効果的で,さらに,こういうシーンを流せば,彼を知らない観客でも切ない気分になるに違いありません。こういう手法というのは,(失礼を承知で言いますが)「お涙頂戴」の正攻法で,私はかなり気恥ずかしさを感じます。それを堂々と採用できること,いい作品を作るためには何でもすること,それはベジャールの作家魂の現れであり,だからこそ,なん十年もの間,世界中の観客を感動させてきたのでしょう。それはわかります。わかりますが,でも・・・・・・

私はイヤ。こういうものを見せられて感動するなんて,恥ずかしくってできないわ。

 

「ショー・マスト・ゴー・オン」
スクリーンが上がり,冒頭と同じ衣裳の出演者全員が舞台の上へ。ゆっくりとした音楽の中で,冒頭と共通する動きが踊られます。全員でゆっくりと前に進む動き,白いシーツを空に向けていっせいに広げるシーンの美しさ。
そして,最後,全員が横たわり,シーツを身体の上にかけて・・・舞台は終わります。
《今は眠りにつく。でも,それは,明日目覚めるため》

カーテン・コール
舞台が明るくなると,舞台の上にはベジャールが1人。再び「ショー・マスト・ゴー・オン」が流れる中,2人ずつ,あるいは1人で,ダンサーが駆け入ってきます,ベジャールのもとへと。そして,全員で前にゆっくりと進んできます。それぞれ,前を見つめながら。
《そうよね,“ショー・マスト・ゴー・オン”・・・故人を悼むのに最善の方法は,ただ悲しむのではなく,あなたは私たちの中に生きている,私はあなたの思いを受け継ぐ,そう思うこと・・・。》

とても感動的でした。
会場は,1階は総立ち状態。私の見ていた3階席でも,多くの観客がスタンディング・オベーションを送っていました。
でも,でも,私はやっぱりダメだったのよねえ。ベジャールは観客を泣かせるためには自分も利用するのよねー,自分の商品価値(?)を見事に生かしていて,実に効果的だよなー,とか心の中で論評しながら眺めていました。

 

自分がもう少し素直だったらいいのになあ,と思いますが,でも,コトと次第(つまりダンサーと作品)によっては呆れるくらい素直なわけですから,結局,ベジャールと私は相性が悪いのだろうと思います。

いや,いい作品だとは思うんですよ,ほんとうに。

(02.5.2)

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