AYUCA・金井優子の現地報告日記1

 現地で活動している当会・金井優子の報告です('98年10月25日〜12月15日)。


'98年10月25日(日)

 この日朝から雨が降り、夜、ハリケーンの情報をラジオで聴いた。しかし、この時点では誰一人として、まさかそのハリケーンがホンジュラス全土に多大な被害をもたらすとは思ってもいなかっただろう。


10月26日(月)

 1日中雨。昨日に比べると風が強く吹いている。25年前に、同じく、ホンジュラスのカリブ海沿いを襲ったハリケーン「ソフィー」を経験した人々を中心に、町中がハリケーン対策を始めた。窓ガラスの補強、屋根の補強、大きな木の枝を切るなど。


10月27日(火)

 一日中雨。電気がストップし、ラジオでしか情報を聞くことができなくなった。食糧の買い出しに行くが、すでにパンがなくなり、牛乳もなくなり始めた。ホンジュラスはほとんどがプロパンガスのボンベを使っているが、そのガスボンベもなくなり、町中で多くの人が探し回っていた。この日の午後には、店からすべてのガスボンベがなくなった。夜中、強風が吹き、熟睡できなかった。


10月28日(水)

 一日中雨、強風。ラジオで、今日の夜中にハリケーンが一番この近くを通るという情報を聞き、新たに屋根の補強などを始めた。みんな、大分神経質になって、些細なことで喧嘩がおきるなど、精神的に不安定な状態が続いた。夜中、今までに経験したことがないくらいの強風が吹き、窓ガラスが今にも割れそうなくらい、きしんだ。キリスト教徒である彼らは、祈り始め、中には恐怖で泣く者もいた。その強風は3時間ぐらい続き、その後少し弱まった。誰も眠ることができなかった。


10月29日(木)

 一日中雨。道路や橋が崩れたり、水位が上がって道がなくなったりして、他の町との交通手段がなくなり、この町が孤島のような状態になったという情報を聞く。
 「近くの大きな町から食糧が届かない」と知り、町中の人々はスーパーに買い出しに行き、スーパーの前には長い行列ができていた。電気、電話がストップした状態で、他の町との連絡手段も絶たれ、どうすることもできなくなった。


10月30日(金)

 一日中雨。風はだいぶ弱まった。ハリケーンが熱帯低気圧に変わったという情報を聞き、ひとまずみんなほっとした。しかし、またふたたびハリケーンに変わる可能性もあるという情報を聞き、みんながそうならないように、と祈った。
 ホンジュラスの軍が、被害が非常に深刻だというサンタ・ロサ・デ・アグアン、ドス・ボカス、ブエルタ・グランデ周辺で救助活動を始めたと聞いた。しかし、それらの町に行くにはボートを使わないといけないらしく、救助活動も、とても困難な状況らしい。


10月31日(土)

 久々に午前中、午後、と太陽を見ることができた。トルヒーヨから車で15分くらい離れたカスティーヨという町と、車で10分ぐらいのシリンという町に行く。
 町までの道筋では、木という木がすべて倒れ、ほとんどの電柱も倒れていた。また以前はまったく水なんてなかった地域がまるで池のように水でうまっていた。カスティーヨの町の家々は、ほとんど木で作られていて、見た目には、特に崩れたりとかしているようには見えなかったが、家の中は水浸し。シリンの家々は半分が土で作られた家で、そういう家のほとんどが完全に崩壊していた。地面は水を含んでドロの状態。人々は直接その地面の上で、生活を送っていた。夜、雨がまた降る。


11月1日(日)

 日中、ずっと晴れ間が続く。車で30分くらいのアグア・アマリーヨという町に行く。やはりここでも、土で作られた家々が全崩壊。話をした一人の老人は、この先どうやって生きていけばいいのか分からないと、泣いていた。多くの人がハリケーンの被害を受け苦しんでいる。


11月2日(月)

 電話が復旧し、日本の家族とハリケーン後始めて連絡が取れる。みんなすごく心配していた。
 電気はまだこない。


11月7日(土)

 医療関係のチームのサンタ・ロサ・デ・アグアン、ブエルタ・グランデ、ドス・ボカスに薬を届けに行く活動に参加させてもらう。トルヒーヨから車で約25分ぐらい行き、カヌーに乗り換えた。8メートルぐらいの距離だが、初めてのカヌーだったので少しどきどきした。その後車を拾って、約10分ぐらい走ったところがドス・ボカス。この町には診療所があって、そこにマラリアの薬を配布する。ドス・ボカスから車で5分ぐらい行ったところがブエルタ・グランデ。この村には診療所はなく、村を入ってすぐの家が仮の診療所となっていた。しかし、医師はおらず、看護婦が一人いるだけだった。ここにマラリアの薬を配布する。
 ここから車で10分ぐらい行ったところがサンタ・ロサ・デ・アグアン。海岸沿いの町。海水が内陸の方まで入り込み、町は3つの島の状態に分断されてしまっていた。ここでは、2回カヌーに乗る。一度目は約50メートルぐらいの距離。2度目は約100メートルぐらいの距離。やっと、2回カヌーを乗り継いで、町の中心にやってこれた。この町にはすでにキューバの医療関係の救援隊が物資を援助していたので、この日はここには何も配布しなかった。


11月9日(月)〜15日(日)

 サン・ペドロ・スーラに飛行機で行く。この町の周辺も大きな被害を受けていた。サンペドロの空港ビルはまったく動いていなかった。ビルの2階部分まで水が侵入し、すべてのコンピュータが作動不能になったという。また空港付近の家々は、まだ浸水したままの状態で、多くの人々が道路脇にビニールや木の枝で臨時のテントを作って生活していた。とても悲惨な状態だった。


11月17日(火)

 パトロール隊の一員である私のファミリア(大家さん)のお父さんにパトロールついでにブエルタ・グランデに連れていってもらう。ブエルタ・グランデまでの道は何カ所か崩壊し、土で崩れた場所を埋めて復旧させていた。しかし、この雨期の時期、多量の雨が降るとふたたびそういった箇所が崩壊する。この日も、復旧した場所がふたたび崩れて、もう一度、復旧作業をしている箇所があった。今のやり方では、同じことが何度も繰り返されると思われる。ブエルタ・グランデの村にはまだ何も物資は届いていなかった。


11月20日(金)

 シリンの人々が私に助けを求めてきた。各村には必ず教会があって、救援物資として届けられたものはまず、各村の教会に届き、その教会が、村々の各家庭にそれらを配布するという仕組みで救援物資は流れていた。しかし、教会は、その教会の教徒にしか、物資を配布せず、どこの教会にも属さない人は、まったく物資を手に入れることができない。私に助けを求めてきた人々は、そういうどこにも属さない人々だった。しかしまだ私には彼らに十分に与えるだけのお金がなく、トルヒーヨの教会の一つに現状を説明して衣料品を調達することができた。自分の力のなさを、少し情けなく感じた。


11月30日(土)

 ファミリアのお父さんにパトロールついでにブエルタ・グランデに連れていってもらう。まだ救援物資は届いていない。早く何とかしてあげたい。


12月5日(土)

 午後8時、電気が来た。町中爆竹を鳴らしたり、騒いだりと、みんなが喜ぶ。久しぶりにテレビを見た。


12月12日(土)

 一人でブエルタ・グランデに行く。「日本から送金があったので、家の資材を買うことができる」と話した。みんなすごく喜んでくれ、とても協力的な態度を示してくれた。あとは資金の届くのを待つばかり。


12月14日(月)

 また強い雨。コロサルタ村付近の家々が全崩壊して、助けを求めに私のところにやってきた。話を聞くとほっとけなくなって、様子を見るためファミリアの人たちと一緒にそこに行く。雨で帰る頃には川が増水し、渡れなくなっていた。結局帰れず、ファミリアの持つ農場の小さな小屋で一晩過ごした。


12月15日(火)

 まだ雨は降り続いていたが、大分川の水が引いていたので、私たちはトラクターで川を渡ることにした。しかし、川の中程は思っていたより流れが速く、トラクターが倒れた。何とかトラクターの一部にしがみつき、流されないようにと必死にこらえた。
 でも、あまりの川の流れの速さにどうすることもできず、ただ手だけで自分の体を支えていた。たくさんの水を飲んだ。もう、手の力がなくなりかけて、死んでしまうんだろうな、と思っていたとき、2人の男性が川に飛び込んで、私を助けてくれた。もし、その二人がいなかったら、今頃海の一部となっていたと思う。ハリケーンが襲ってきた時以上に死の恐怖を感じた。
 連日の雨で再びブエルタ・グランデまでの道が崩壊したと聞く。


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