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 邪淫(じゃいん)


  気が触れる、瞬間を目の当たりにしたこともある。
 病んでゆく人間を、黙って見つめ続けるしかできなかった自分の、不甲斐無さもよく知っていた。

 だから、俺にできるのなら何でもしようと、そう思う。
 
 「……龍」
 襖の外側に端座して、様子を伺う。
 「霜葉?どうした、そんな所に座ってないで、入ってこいよ」
 何時も通りの、変わらない口調。
 誰にでも優しいこの男が、狂いかけているのだと、一体誰が気づくというのか。
 「失礼する」
 「本当、何時までたっても他人行儀だよな」
 口元に微苦笑を浮かべたまま、片膝を立てて俺を迎え入れた龍は、ずっと手酌で楽しんで
いたのだろう徳利を、俺に渡して寄越す。
 「飲みすぎは、身体に毒だぞ?」
 促されるままに小さな杯を満たせば、味を楽しんでいるとはとても見えない素早さで一息に
呷った。
 「心配するな、普通の酒では酔えない性質だからな」
 言われてみれば、浴びるほどの酒を飲んでいるはずなのに、龍の乱れる姿は一度も見た
試しがない。
 「浮世を忘れる、いい手段なのさ……」
 目が瞬間剣呑な色を孕む。
 「龍?」
 「だから、そんな心配な顔をしなくてもいいんだ。霜葉も飲むか?」
 「少し、なら」
 「遠慮するな。嫌いでも苦手でもないんだ。いい酒らしいぞ。們、秘蔵の天然山酒らしいから」
 淡い青色をしている時点で変わった酒だとは思ったが、山酒なら頷ける。
 自然の中で培われてゆくものは、人の手では出せないものを幾つも幾つも生み出しているの
だ。
 大きな樹木の一角で、この酒も悠久の時を経て熟成されたのだろう。
 僅かな酸味とさっぱりとした爽快感が舌に心地良い。
 「で、どうした。こんな刻に。何時もならもう休んでいる刻だろうが」
 新撰組の厳しい隊規は、やめて久しい今も尚、俺の生活のそこここに染み込んでいる。
 早寝早起きは……数少ない美点の一つだろうか。
 「いや。さしたる意味は無い。ただ、龍の顔が見たくなったのさ」
 「それはまた、稀有な話だ。槍でも降りそうだな」
 「そうか」
 「ああ」
 杯が空になれば、どちらともなくお互いの杯を満たし続ける。
 それだけで続かない会話も引き伸ばせるから不思議なものだ。
 早い速度で酒が進む。
 龍が酒に滅法強いのは知っていたが、ここまでとは終ぞわからなかった。
 だいたいは大人数での酒宴で、沈んでゆく者が幾人かを数えた時点でお開きとなってしまう
からかもしれない。
 思えば、こうして龍と二人で呑むのは初めてだ。
 「さて、そろそろ。本題だ。酒も回ってきただろう?どうしてこんな刻に手前の所に来た」
 「先刻も告げた通りだ」
 「違うだろう、霜葉。手前に偽りは通用しないのを忘れたのか」
 「忘れたわけではない……ただ、どう表現したらいいのかわからないだけだ」
 狂い掛ける龍が、心配で仕方ないのだと。
 「そのままでいいのさ。手前の狂いを止められるのは、多分。霜葉だけだ」
 「!」
 「……覚悟が出来たと、そういう解釈でかまわんのだのだな」
 気が付けば、吐息が唇に届く位置まで、龍の体が近付いていた。
 「無理強いはしたくねぇ。皆、お前次第だ。霜葉」
 酔いを多分に含んで潤んだ瞳が、真っ直ぐに見つめてくる。
 縋りつかれてるような、切羽詰った気迫すら感じるのは、あながち、思い込みでもないのだろ
う。
 「龍の、好きなように。俺はもう、人が狂うのを見るのは嫌だ」
 「人が、狂うのを……か」
 「命なら、誰に対してでも賭ける。でも、その……こういう風に体を預けても尚、引き止めたいの
  は、龍。お前だけだ」
 武士の間では命は軽いものだ。
 むしろ剣士としての誇りの方がずっと、重い。
 衆道こぞ、武士の嗜みだという輩もいるが、俺は違うと考えている。
 剣だけを求めるならば、女性は無論男も必要ない。
 道を極めるにつけ、色に溺れた剣士も多く見たが、人としての欲望を希薄な物にさせていく剣
士も同じくらい目にしてきた。
 どうせ、極めるならば。
 一人で。
 誰の手も必要としたくはなかった。
 それが、俺の。
 村正に捕らわれた俺の、たった一つの誇り。
 「衆道の嗜みがない、霜葉が。あえて手前に身を投げ出してくる価値はよく理解しているつも
  りだ」
 龍の目が、穏やかに眦を下げて。
 伸ばしてきた指先で、俺の唇をなぞる。
 「手前を、狂気の寸前で引き止めて、更に、正気を補填してくれる程度には」
 静かに、静かに病んでゆく、龍を、皆心配している。
 己にできることならと、皆、心に誓っているのも知っていた。
 だが、肝心の龍が、求めないから、助けようがないのだ。
 『龍の笑顔は、もう二度と見ることはかなわんのか?』
 天戒殿も涙を堪えるように、曇天を見上げて呟いていた。
  
 「……どうすれば、いいんだ?」
 他の人間でなく、俺を選んでくれた事実が誇らしいとすら思う。
 「どうもしなくていい。お前は、ただ。手前を感じてくれれば、それでいい」
 困った風に笑った龍斗の指が、俺の瞼に触れる。
 自然眼を閉じれば、唇に。
 生暖かい感触が届いた。
 昔何人かと戯れに交わした、接吻とは全く別物だ。
 酒のせいかひんやりとした感触は、火照った身体を唇から冷やしてくれる。
 「んっ」
 鼻で息をしようとすれば、妙に大きく響き。
 唇の開いた隙間から、息を継げば、己の声とは思えない、やわらかな声が溢れる。
 触れる、だけの接吻は、だんだんと深みをましてゆく。
 唇で、幾度か挟まれ、その弾力を楽しむように歯が、数度たてられる。
 あたりどころが悪かったのか、さして激しかった気もしないのだが、俺の唇から、すっと薄く血
が走った。
 「ちゅ」
 舌打に似た甘い音が、俺の唇の上で跳ねる。
                                            




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