殃(わざわい)

 この世で一番怖い事は、自分が自分でなくなることだと、そう思っていた。
 自分よりも大切な存在を、己のせいで失った、あの瞬間までは。

 「……ここ、は。どこ、だ…?」
 体中がだるく力が入らない。
 熱でも出しているのか。
 気持ちが悪いのか。
 額には脂汗がべっとりと滲み出している。
 『………あ……め……え……』
 どこか遠くで聞こえる耳障りな、経に似た音が、凄まじい大音声で鼓膜に突
き刺さった。
 何十人も、下手したら何百人か。
 『お……た……だら…いあ………た……や…』
 絶妙な音の重なりが、奇妙すぎるくらいに俺の頭をかき回しながら這いずっ
ているようで。
 吐き気を催す最悪の気分は一向に回復する兆しが見えなかった。
 目の前で、ぼう、と、灯る。
 これも数百本、いや数千本はあろうかという蝋燭の光の向こうでは、偉そう
にふんぞり返った男達が何やら、まことしやかに囁いている。
 『こんな事で、黄龍が……我らの物になるのかね?』
 『は、この呪は当本山秘伝の呪(じゅ)。黄龍堕落(おとし)の呪(しゅ)でござ
  いますれば……』
 黄龍落としの呪、だと?
 がんがんと酷い耳鳴りと頭痛がする最中、俺はそれでも目を剥いた。
 今は失われて久しいはずの、黄龍を器たる者・つまりは俺以外の人間が思
う通りにできる呪言(じゅごん)。
 使う者の霊力を、死で贖わねばならないほど食らうという理由で、長く永く、 
禁呪とされていた古の唄。
 これだけの、大人数で使えば、死にはしなくてもすむかもしれない、が。
 それでもただでは、すまされない、と。
 言う、のに。
 きっと死ぬのは呪言を謳う坊主供であって、自分達ではないと思っているの
だろう。
 この黄龍落としの、呪が持つ本当の意味など知ろうともしないで……反吐が
出るほど愚かしい輩、だ。
 『しかし、こんな普通の高校生に潜んでいたとは……わからないはずだ。
  なあ、桐ノ院(きりのいん)君』
 『高城学園屈指の予見斎(さきよみ)ですら、読めなかったというのだから、
  その隠業は鮮やかなものだろう。君が気落ちすることはあるまいて』
 ……高城学園…?
 …確か紅葉から知り合いがいると、聞いた事がある。
 『絶対正義』を謳う日本で唯一の霊能力者養成専門学校。
 黄龍の器たる俺でも胡散臭いことこの上ないと思う場所だが、宿星の仲間
達の力に勝るとも劣らない学生が、数多、在ると言う。
 その場所から紅葉が親しくしている人間が来ているという、高城から、誰が、
こんな場にいるんだ?
 俺を、俺でなくしてしまうこの場所に。
 『……それほどまでに、黄龍がそこにおられる器たる彼を、認めていたとい
  うことでしょう。我らの目から隠し通そうとするほどに、黄龍にとって彼は
  大切な存在に他ならない……私は"落とし"の必要を感じません』
 下卑た笑い声がさざめく最中。
 桐ノ院と呼ばれた、俺と変わらない年に見える青年だけが清雅だ。
 思うようにならない黄龍の瞳でも、彼の周りにだけ澱んだ空気が感じられな
いので、俺は少しだけ安堵する。
 紅葉が大切に思っている人間が住まう場所から訪れた人間が、どうしようも
ない下衆ではないと知って。
 『いつの時代でも黄龍は、器の手に余るもの。だからこそ黄龍堕落の呪が
  存在するのだろうが?』
 『それは、黄龍が暴走した時にこそ役立つ呪なのでしょう。己の目で見て確
  信しました。緋勇君は黄龍と同化しておられる。これがどれほど稀有な事
  か、貴方方にはわからないのでしょうが……封印よりもむしろ静観が望ま
  しい』
 大の大人がみっともないと思うほど媚びた声音を凛として跳ね返す風情は
、こんな状況下にある俺にも好ましく感じる。
 『こちらには招待をされましたが、どうやらお話が全く違うようだ。高城学園
  は、黄龍の件に関しては一切関わり合いを断ち切らせて頂く』
 青年が黄龍の力に微塵も執着していないのは、こんな場面でも嬉しかった。
 『若造が!こちらが下手に出ておればつけあがりおって!』
 激昂するご老体の言葉もどこ吹く風。
 『私の決定は高城学園の決定。そして桐ノ院コンツェルンの決定です。二言
  はありません。』
 すっと立ち上がる姿は、背の高さと細身の身体と相まって、不思議なほどに
紅葉を思い起こさせる。
 銀フレームの眼鏡が、紅葉が時折使う眼鏡と似通っているせいだろうか…。
 『ましてや、双龍の片割れまでをも拉致するとは。恥を知った方がよろしい
  かもしれませんね』
 どこまでも静かな物言いの中、気になる個所がある。
 双龍の片割れまでをも拉致した、と。
 よもや、紅葉まで?
 俺は正気を揺り起こすためにぎりりと歯を噛み締める。
 のんびりと痛みに溺れている時じゃあない。
 足音も立てずに去ってゆく姿に向かって、残された男達は様々な暴言を吐
き散らすのもうっとおしくて、俺は深い吐息をつく。
 『誰もこの会の主旨を説明せなんだか?』
 そんな中、尚一層老長けた声音が低く地べたを這うごとく響く。
 暴言はぴたりとやんだ。
 『桐ノ院家も高城学園も潔癖なことにかけては、右に出るものなしの組織だ
  からの。汚い手を使う会には賛同できんのじゃろ』
 ここにきて、だいぶ頭の中がすっきりしてきた。
 俺は何らかの組織に、紅葉と共に拉致されたらしい。
 黄龍の力を我が物にしようとする輩は、少なくはなかった。
 いつでも完膚なまでに叩き潰して返り討ちにしてきたのだが、今回は何か
が違う。
 俺はこの、寺か何か講堂までどうやって連れてこられたのか一切の記憶
がない。
 だいたい今までの輩は、俺か俺の周りにいる親しい女の子達を狙った。
 俺自身例え大人数で囲まれても、ひけをとったことは一度としてなかったし。
 女の子達は、もしかすると俺達より強い。
 美里などには『今日も龍麻目当てのお客様に、ジハードを使ってしまったの。
まずかったかしら?』などと事後報告を受けることもあったくらいに。
 


                                     
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