メニューに戻る次のページへ




  月忘



 抑えても抑えても、湧き上がってくる衝動がある。

 何かを引き裂きたい。
 禁忌を喰らいたい。
 誰かを犯したい。

 闇の欲望は大半の人間が持つものではない。
 異常者と呼ばれるモノや、人外・獣と名づけられた俺達少数派が抱く感情だ。
 普段はただでさえ薄い理性を掻き集めて、排除する歪んだ思考を。
 堪える気すら失せる満月の夜。

 俺は見てしまった。
 見惚れてしまった。
 否、魅入られたのかもしれない。

 血の乾きにざわつく喉を、日本酒を浴びるほど飲んで薄れさせ、ふらつきもしない足取りで、光
を避けて家路へと着くその途中。
 光が生んだ僅かな影の上で。
 驚くほど手際よい鮮やかさで、殺人が行われた。

 千鳥足の酔っ払いが、ゆらゆらと右に左にと揺れ、時折壁に手をつけながら吐いている光景な
んざ、新宿ではざらに見られる。
 呆れたように、だが、見捨てるわけにも行くまいと、臭気にも耐えて背中を摩る連れがいるのも、
まあよくある話。
 ついでに、酔っ払いがそのまま壁に寄りかかって高鼾というのも、ありふれている。
 
 酔っ払いの連れが学生服を着ているのは珍しく。
 見知った顔でなかったら、足を止めなかった。
 彼らから、数メートル離れた場所で、俺は真実を見抜く。
 背中を摩る振りをして、首の骨を砕いていたのを。
 寝入ってしまったかのように見える男を、困ったように見つめ。
 思いついたように、警察の方へと足を向けながら、そのまま何事もなかったように人混みに紛れ
ようとしているその後姿。
 「おい」
 背中越し手首を硬く掴んでも同様は微塵も伝わってこなかった。
 鍛えているとはいえ、まだ純真な部分も多い高校生の身でご立派なものだ。
 「犬神、さん?」
 余程俺の登場が以外だったのだろう。
 きょとんとした表情は普段の無表情さからは伺えない、年相応さが見える。
 「来い」
 人気の極力少ない、路地裏へと引き込む。
 「どうなさったんです?」
 「見た」
 何を、見たのかと言わずともわかるはずだ。
 「それで、何か」
 声は、一切の感情を押し殺し。
 瞳が、尋常ではない殺気を孕む。
 ふと、ふわりと薫ったそれが、俺が今啜りたいと思うモノの匂いで。
 俺は壬生の制服のボタンを弾き飛ばす勢いで、破く。
 白いはずのワイシャツが、真っ赤に染まっていた。
 「今日は、何件目だ」
 「応える必要もありません」
 俺の腕から逃げられない事実に、驚いたか、微か、怯えが走る。
 「このまま警察へ突き出されたくなかったら、言え」
 身体を持ち上げて、だんっと、壁に押し付けた。
 足が空を切っても暴れない潔さは、確かに見事なもの。
 「五件ほど。五人。一人だけミスをして、返り血を浴びました」
 拭き取ってはいるが、体中が血に塗れている。
 誰一人、気がつかないのがおかしいほど。
 もっとも雑多な匂いが入り混じる人混みの中で、血の匂いを嗅ぎつけられる
のは、俺しかいないのだろうが。
 「満足、ですか?」
 「いや」
 折りしも降り注ぐ満月の鈍い光が、壬生の表情を照らす。
 「母親がいない今、何故。殺人を繰り返す?」
 「余計な、お世話……っつ」
 ぎりっと手首をねじ上げる。
 そのまま捩じ切らんとする獣の力に屈服したのが口惜しいのか、ぶっきらぼうな物言い。
 「それしかっ!することがないからですよっ!」
 「……そうか……馬鹿だな、お前も」
 人一人の命を、高校生の分際で養ってきたのだ。
 これからは、殺戮を繰り返した日々とは決別し。
 普通の、血の匂いから遠い生活をおくれば良かった、はず。
 
 そうすれば、俺に。

 魅入られることもなかったのに。

 「貴方に馬鹿と言われる覚えは!……う?」
 狼の犬歯を剥き出しにした俺は、金属さえも噛み裂ける牙を壬生の首筋につき立てた。
 「することがないなら、くれてやろう?少なくとも殺人よりは生産的だ」
 牙から、狼の血を注ぎ込む。
 びくんと一度だけ大きく背中を反らした壬生の意識は、簡単に遠ざかった。
 血が合わないと即死もありうるが、こいつは保つだろうという俺の確信めいた予測は当たった。
 掴んだ首筋からは確かな脈動が伝わってくる。
 ボタンの飛んだ制服の前を合わせると、今の俺には一枚の紙ほどにも軽い身体を背負い、
闇の中、軽い疾走を始めた。

 「んっつ?」
 煎餅蒲団の上、偶然にも俺が佇む窓際に寝返りを打った壬生が、薄く目を開く。
 「?」
 寝起きは余り良くない方なのか。
 日頃からは想像もつかない幼さで、ぼんやりと俺を見つめる。
 月を背にした俺の表情は、見えにくいはず。

 目が細められるので、煙草の香りを楽しむ為に閉じていた瞳をゆっくりと開く。
 黄金に輝いている、狼の瞳を。
 瞬間、人には成し得ないスピードで蒲団を跳ね上げた壬生の体が、ぐらりと大きく傾ぐ。
 「そんなに勢い良く起きれば、眩暈も起こすさ。まだ、俺の血が馴染むには時間がかかる」




                                    メニューに戻る 次のページへ

                                    ホームに戻る