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 「霜葉ああっ!」
 己の口から放たれたのは、血を吐くような叫びだった。
 実際、喉の奥にはじんわりと鉄の味が広がっている。
 誰かの名を喉が裂けるほど呼んだのは初めてで、きっと二度目はないだろ
う。
 「無駄です。蓬莱時さん。あの方は一度決めたことは決して曲げない方です
  から」
 美里の必至の腕が俺の身体をはがいじめる。
 やわらかな腕なのに容易にほどけないのは、俺の力が抜け失せているせい 
か、意外にも美里が強靭な腕を持っているのか。
 「てめぇが止めれば、止まるだろうよ。霜葉ほど女子供に優しい奴はいねー
  んだ!」
 だからこそ、龍斗だって美里を選んだはずなのだ。
 美里が霜葉の足枷になるように。
 俺を歯止めに、美里を足枷にすれば、留まってくれるだろうと。
 そうまでして一人で行かせたくなかった霜葉を行かせてしまったとなっては…。
 龍麻に顔向けができない。
 大人しく守られている漢ではないと重々承知の上で、守ると誓ったのだ。
 「痛うう」
 いつでもこれだけは手放さない刀を杖代りにして、何とか身体を起こそうと
試みる。
 腰までは上がった。
 が、情けなくも膝が砕けて地面の上にぺったりと崩れ落ちてしまう。
 痛みよりもずっと、身体がいうことを利かないのがつらい。
 刀が、かららと音を立てて転がった。
 「くそう!」
 己の身体がもっと壊れたことは幾らだってあった。
 だが、心が、これほどの痛みを覚えたのは初めてだろう。
 「美里!早くどうにかしてくれ」
 別に美里が悪いわけではない。
 俺が情けないだけのはずなのに、先程見せた冷ややかな態度が気に掛か
って、激しい口調で怒鳴りつけてしまう。
 「時間がかかると、言っておりますよ?」
 幼子に噛んで含める声音は、こんな場面では不気味でしかない。
 普段よりずっと、傷の治りが遅いのは気のせいだろうか……。
 早く早くと気ばかりが焦り、全くといっていいほど美里の気とあわせることが
できないでいる俺に向かって、美里が静かなまなざしを向ける。
 穏やかな、ではない。
 感情の波すら伺えない、無限の暗さを帯びている澱んだ瞳。
 「そんなに大切なのですね。蓬莱時さんも龍斗も、壬生さんが」
 「あんな良い奴を毛嫌う奴なんていねーだろう」
 「私は……どうでしょう。少なくとも好いている対象ではありませんけれど」
 好いている、どころか、憎んでいるとしか思えない所業の数々だが、あまりに
も美里らしい物言いだ。
 長い付き合いではないが、命のやり取りをしている中で彼女が聖女ではな
い事を知っている。
 あの龍斗があんまりにも彼女を邪険にするせいかもしれないし、酷い噂を
聞いているせいかもしれないが。
 「あまり感情を表に表わさない方だから…」
 それを言うなら弥勒や雹などの方が余程…と思うが、美里にとって霜葉以外
は逆にどうでもいいのかもしれない。
 「いいんだ。別に美里が霜葉を憎んでも。俺が奴を助けに行きたいんだから」
 "だから、早く治してくれ!"と重ねて言いかけた俺の言葉を封じるかのように、
きしりと腕を掴まれた、その時。
 「どうしたんだ!京悟。霜葉はっ!」
 血相を抱えた龍斗が、右に弥勒、左に御神槌を従えて足早に走ってくる。
 「龍斗……すまねぇ…」
 あまりにもふがいなく唇を噛み締めた俺の側に、御神槌が腰を下ろす。
 「失礼致しますね」
 御神槌に治癒の技はないが、神父だけに癒しに長けている。
 「ああ、これは酷い…傷を負ったのは何刻前です?」
 「半時もたってねーはずだ」
 「でも、すぐにというわけではない、と」
 真摯な色を浮かべた御神槌が、龍斗を見上げる。
 龍斗は無言で頷くと、つかつかと美里の側に近寄ると、身体がふっとぶほど
頬を叩いた。
 女性(にょしょう)に加えられるべきではない、暴挙だった。
 だが眼を見張ったのは俺だけで、弥勒も御神槌もそれが当たり前だという
顔をしている。
 「度を越した悋気は、教えでも禁じられているはずですが」
 「……やっていい事とと、悪い事がわからないとは。悋気は恐ろしいな」
 激しい声音ではないのだが、二人の怒りがじわじわと伝わってくるのが不思
議だった。
 「ああ、美里殿はね。蓬莱時殿が霜葉殿の後を追おうとするのを、その怪
  我の治りを遅らせる事で防ごうとしたのですよ。この怪我がどのほどのも
  のか十分知っていて。」
 御神槌が懇切丁寧に教えてくれる。
 その後、溢れた優しい音律は賛美歌だろうか。
 傷の痛みがあっという間に消えてゆく。
 裂かれた痕ですらうっすらと肉が盛り上がって、完治の様子を見せ始めてい
るのは、驚きだ。
 御神槌の腕でこれだったのだ。
 治癒を専門に司る美里が本気で俺を治そうとしたのなら、今頃もう霜葉を追う
事が出来たはず。
 「……醜い話だ」
 俺の治りかけた傷口を労わるようにそっと触れ低く呟く弥勒の側で、龍斗は
黄龍の持つ金色の瞳を爛々と輝かせて美里を見下ろしていた。
 たった一言叩きつけるように。
 「淫婦が!」
 聖女と称えられ、処女(おとめ)であることが義務付けられているとも言われ
るキリスト信徒である美里に向けられた、これ以上はない侮蔑の言葉が投げ
られた。
 賢明に言い訳をしようと口を開いた美里の顔に向かって、龍斗は容赦なく
蹴りを叩き込む。
 手酷い足跡が泥と共に顔を汚し、唇は派手に切れて真っ赤な鮮血が口の
端から伝った。
 「霜葉を追うぞ!……京悟は休んでろ。美里と一緒にあるんじゃあ、思う所
  もあるだろうが、身体が大事だからな」
 「や、俺も行く。足手まといには絶対にならねーからっ!連れて行ってくれ」
 龍斗が来て、俺の身体が無事な以上。
 罷り間違っても霜葉の伝言を龍斗に伝えるわけにもいくまい。
 俺が行って、霜葉にあのすっかり血に塗れてしまった鉢巻を返してやらね
ば。
 手渡してやらねばならないのだ。
 そうでなければ、俺は俺を許せない。
 真剣さが龍斗に通じたのだろう。
 「わかった。足手まといになったら置いて行くから、そのつもりで」
 「ああ」
 頷いた俺に、御神槌と弥勒が心配げに話し掛けてくる。
 「体調が悪くなったら、言ってくださいね。僕に出来る事なら何でも致します
  から」
 「……無茶は、するなよ」
 俺はこれには無言で頷き、殿(しんがり)を務めながらふと後ろを振り向く。
 髪を振り乱し夜叉のような形相の美里が、恨みがましそうにこちらを見てい
る。
 可愛そうにとは、とても思えなかった俺は美里の存在を軽く黙殺した。
 真っ直ぐに前を向いて鉢巻をきつく握り締めると、龍斗達の後、霜葉を助け 
に直(ひた)走った。




*京悟&霜葉
 何だか京一と変わらない所に鬱。難しいなー江戸時代。久しぶりの外法帖
 に完結ノベルスです。武士らしい霜葉ってーのを書いてみたかったんですよ
 ね。昔からこー宿命を背負ったなんちゃらとか、死に対して潔い人達が好き
 なもので。 欲望の塊みたい人間にとっては憧れなんですよ。何かにつけ潔
 い、人達ってーのは。
 


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