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  死に装束



 「蓬莱時殿っ!」
 いくら切羽詰った状況下にあったとはいえ、俺だけは無傷であらねばならな
かった。
 ……霜葉を守るために。
 己の身を顧みず仲間を庇ってしまう霜葉の歯止め役になってくれと、龍斗に
言われて一も二もなく頷いたのは、龍斗にとって霜葉が特別なように、俺にと
っても大事な存在であったから。
 だからといって敵の凶刃にかかりそうになった美里を助けないわけにもいか
ず、凄まじい乱戦の最中、俺は美里を庇って手傷を負ってしまったのだ。
 肩から袈裟懸けにばっさりと。
 裂かれた着物の隙間からは、ぱっくりと赤い肉が覗けるほどの深手を。
 「美里殿!」
 「え?は、はい!」
 俺の血を全身に浴びて華奢な身体を震わせた美里は、滅多に無い叱咤す
るような霜葉の声音に怯えながらも俺の傷口に掌を翳す。
 「容態は?」
 「完治するとは思います。けれど傷が深すぎてすぐには……」
 首を振る美里を見て、霜葉は男の俺でも思わず惹きつけられる整った弓な
りの眉をきつく顰める。
 最後に俺が討ち取った敵は、死と共に身体から大量の煙に似た気体を放
った。
 恐らくそれは仲間へ自分の死を知らしめて、敵を討てという遺言なのだろう。
 敵ながら見事なまでに素早い奴らだった。
 ……と、言う事はこの場所へ来られるのも時間の問題になってくる。
 「……俺の事はいいから、美里を……頼むよ。霜葉」
 少し走れば、他の仲間とも合流できるはず。
 俺が残って食い止めれば、さして難しいことはない。
 残る俺が五体満足のまま、生きていられるという保証は微塵もないが。
 「それは、できる相談じゃない。君はまだ、龍の側で生きなければならない
  人だ」
 きっぱりと言い切るが、龍斗の側にあらねばならないのはむしろ霜葉の方
なのだ、あの龍斗がただ一人守りたいのだと、笑った相手。
 痛みを堪えてもう一度『逃げてくれ』と言おうとした俺の目の前で、霜葉は額
にしていた鉢巻を静かに解いた。
 握り締めた鉢巻を額に当てて、何か祈るように小さく呟いた後で俺の側に
腰を下ろす。
 息が近づくほど間近に来て、囁いた。
 「申し訳ないがこれを、龍斗に渡してくれ」
 血に塗れた掌の上、年季の入った鉢巻が置かれて。
 「……すまない、と」
 俺の甲に重ねられた霜葉の掌が鉢巻を握りこむように丸められる。
 思う所があったのだろう一瞬目を閉じた霜葉は、次の瞬間に立ち上がって
懐から真っ白く長い襷を取り出すと、袖を整え始めた。
 ちょうど九桐が戦闘の前に、袖が絡まないようにする襷がけにそっくりだっ
た。
 そして、これもまた真っ白い鉢巻を二本取り出して、一本を額に巻き。
 もう一本を利き腕に巻いた。
 村正を握った拳の上からぐるぐると。
 意識を失っても尚、村正を手放さないように。
 敵対する全てを切り殺させるようにと。

 ああ、これは霜葉の死に装束だ。

 俺と美里を逃がすために、囮になるつもりなのだ。
 自らを戒め、背水の陣を敷く様を黙ってみているしかない自分が虫以下に
思える。
 「霜葉!それだけは駄目だ。やっちゃあなんねぇ!龍斗が、泣く」
 握らされた鉢巻が己の流す血で、赤く、赤く染まってゆくのを視界の端に映
しながら、身体を起こすことも出来ずに俺は、声だけで縋る。
 「……龍は、わかってくれるさ。これしか方法がないのだから」
 泣き出しそうな幼い顔から、霜葉がどれほどの未練を持って死地へ赴くか
を悟る。
 あれだけ大切にされていることに気が付かないほど、鈍い男ではないのだ。
 「美里殿。少しの辛抱ですから、蓬莱時さんをお願いします。絶対、龍達以
  外の人間をこちらへは近付けませんから」
 「……御武運をお祈りします」
 霜葉の方を見向きもせずに、低く呟いた美里を愕然と見やる。
 他の誰が背中を押しても、美里だけは引き止める存在だと思っていた。
 恐らく美里に請われた頼み事を聞けない人間は、龍斗ぐらいなものだろう。
 きっと俺だって頷くしかなくなる。
 ましてやそれが、自分を心配して止めてくれるならば尚の事。
 ……俺はぞっとするほどの確信と共に、その思考に思い至った。
 美里以外、霜葉を留めておける人間がいない今、どうして俺は気付いてしま
ったのか。
 美里は、霜葉を憎んでいる。
 理由は定かではない。
 聖女のようなと、万人に称される女の。
 深すぎる闇を見た気がして、ただでさえ引いていた血の気が更に引いてゆ
く。
 「どうか、健やかに」
 『行かないで』と言わない美里の陰湿な意味を知っているのか、いないのか。
 蒼白な顔色の俺の頬に、刀を握り締めていない掌でそっと触れた霜葉の微
かなぬくもりは、ひたすらに優しかった。
 すっと離れてゆく暖かさを手放したくなかったけれど、俺の身体は指一本す
ら動かない。
 見たことも無いほどやわらかく微笑んだ、霜葉は。
 次の瞬間、全ての未練を捨て去った非情なまなざしのまま走っていった。



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