桜舞闇夜


 龍麻が好きだと言う"春"と呼ばれる季節が、僕はとても苦手だった。
 母が倒れたのは、枝垂桜がほころび始めた頃。
 父を失ったのは、染井吉野が舞い狂っていた頃。
 そして僕が初めて他人の体温を受け入れたのは。
 八重桜が満開の頃だったから……。

 「紅葉…もう一度、良い?」
 気怠い余韻に溺れていた僕の体を、横抱きに抱えたままの龍麻の指が、つ
っと腰の上を滑っていく。
 首筋に寄せられた唇を内心うっとおしいと思いつつも受け止めながら、枕元
に置いてある目覚し時計に手をかける。
 引き寄せた時計を眉を細めて見れば、蛍光塗料で薄く光る針は午前二時を
差していた。
 「悪いけれど、今日はもう寝かせてくれないかな…?明日、仕事なんだ」
 「え!冗談だろ?昨日までは一日中オフだって言ってたじゃんか!」
 「すまない。昨日、館長から連絡を貰っていたんだけれど言いそびれてしま
  って…」
 タイミングを見計らって幾度となく告げようとしていたのだが、その度にそつ
なく躱されてしまい、今の今まで言い出せなかったのだ。
 「何か言いたそうにしてるから…どうしたかと思えばやっぱりだ。こーゆー時
  には自分の勘の良さが嫌になるよ、全く!」
 呆れた風に、それ以上に怒りを多分に孕んだ声音で叩き付けられて、龍麻
の表情を伺おうと体の向きを変える。
 「…僕だって一緒にいたいけれど。館長の言葉だからこればかりは……仕
  方ないことなんだ」
 「ちっくしょう!鳴滝のやろーは親父だけじゃ気がすまねーのかよ!」
 噛み付くような口付の後、荒々しく吐き出された息が頬をくすぐるくらいの位
置に離れた唇が、怨嗟の言葉を咄々と紡ぐ。
 「不本意な死に方で親父を失った後は、穴を埋めるように俺。俺が自由に
  ならなきゃ、俺が誰より何より大切にしてやまない紅葉を拘束するってん
  だ。ったくあんまり御大層な話で溜め息もでねぇ」
 「龍麻……何もそんな風に、言わなくても…」
 「紅葉は初めが初めだったからな。鳴滝に対して盲目的に心酔するのもわ
  からねーじゃねぇけど。あーいうのを最低最悪の人格者って言うんだぜ。
  あんまり  にも冗談がきつすぎて反吐吐くことすらできないってんだから
  な」
 あいも変わらない毒舌に対抗できるのは、やり手骨董屋の若旦那と言われ
る如月さんか、物言いの冷淡さでは右に出るものなしと囁かれる御門さんぐ
らいか。
 「お母さんのこともあるしな。紅葉が鳴滝に従順なのは涙を飲んで許すとし
  ても、俺自身が鳴滝の言葉に従うことは今後、天地ひっくり返ってもあり
  えないぜ?」
 挑むように言われた後で再度仕掛けられた口付は、いわゆる性行為の前
の濃厚なもので。
 "高校生が一体どこで?"と首をかしげるほどに手慣れたキスに、僕はだい
たいの場合翻弄されてしまう。
 相手の呼吸のタイミングを見計らった上での、すきをつくキス……などとい
うものは、僕には決して真似のできるものじゃなかった。
 「そんなに館長が大事なら、明日朝一番にでも俺を置いて出掛けるがいいさ。
  でも……少なくとも、これから紅葉が気を失うくらいはやるから、そのつもり
  でな」
 「いくら何でもそれは…」
 抗議の声はすぐさま龍麻の唇で封じられた。
 鼻で呼吸をすることに慣れてゆくにつけ自分の声とは認めたくない甘ったる
い嬌声が、荒い息と共に鼻から抜けてゆく。
 頬を両手で固定されているので、ゆるく首を振って息が続かず苦しいことを
告げるのだが、龍麻の唇が僕をたやすく解放することはない。
 自分の思う様僕の体の奥深くに熱を注ぎ込み、何度も何度も己が満足する
までは、僕が掠れ切った声で幾度許しを請うても無駄だ。
 それはもう、数え切れないほど犯された時間の中で、さんざんな目に遭って
十分に理解した。
 僕の顔が動かないようにと、頬を固定させていた掌のうち片方がすっと耳
に伸ばされる。
 と、ほぼ同時に龍麻の唇が耳朶をやわらかく噛んだ。


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