しけもくを、無造作に床に投げ捨てて、私との距離を縮めた。
頭を、くしゃくしゃっと撫ぜられて。
「すっげーな。おい……ありがとな、ボウズ」
口の端が、微かに上がった。
多分これが、この人の最大の賛辞なのだろうと知れて。
私の口からも、自然穏やかな微笑が零れる。
「喜んでもらえたのなら、良かったです」
「……これなら、取りあえず重症患者を横にもならせてやれる。この、床もありがたい」
ノックス医師が、先ほどまでは穴だらけのシーツやテントの布が敷き詰めてあった床を踏み
にじる。
と。
そこは、そう。
ちょうどゴムか何かのように、くにょ、と歪んだ。
「床に直接寝るよりはいいと思います」
私達の言葉に、床が変わった事にも気がついたのか、またしてもざわめきが場を満たす。
「靴もいらねーな。裸足でぺたぺたもいいな」
「センセ、水虫っすもんねー」
「やかまし!」
「本当ですか、水虫?」
「……職業病だ。しゃーねーだろう。適当に消毒はしてっからな。痒いだけだ」
照れる医師がおかしくて、つい。
くすくす、笑う。
「おらおら。皆おとなしく横になっとけ!ボウズもくすくす笑ってんじゃねーよ。こいつの手当
てを手伝えや」
「はいはい」
「はい。は、一度でいいんだ!」
「はーい」
ついでに嫌味ったらしく敬礼もつけてやる。
ぺろりと舌を出せば、痛くない拳骨が、こつんと一つ届いた。
「あー。何かすんげーコトになってないか?」
「先生の人徳でしょう?」
「んなモンはハナっから、ねーよ」
はぁ、と肩で大きく息をした先生は、現在自分の持ち場となってしまった、当初の5倍はある
だろうテントを眺めた。
「設備が多少なりとも揃ったのはありがてーが、人が足りねーよ」
「軽傷の兵士を使い捲くってるし、完治に近い兵士も留めて専属扱いしてるじゃないですか」
「ああな。奴等も頑張ってくれてるが、専門知識を持ってる訳じゃねーから使い勝手に限界
がある」
「なるほど。それもそうですね。今度ちょっとお偉いさんの医療テント覗いてきます」
どうせ、我侭な上官に振り回されてうんざりしている腕の良い医師は何人もいるだろう。
気分転換を含めての自主的配置換えを唆してみよう。
「おい、ボウズ。変なコト考えてんじゃねーよな?」
「変な事じゃないですよ。双方両得な事しか考えてませんよ」
「その、双方にお前さんが、入ってないだろうが」
一応私も士官と呼ばれる身分。
年齢を考えれば、国家錬金術師保持者という栄誉を抜いて考えても出世コースまっしぐら。
いわば、一般兵士の溜まり場のようなこのテントに居るのは、外聞も悪い。
大きな声で嫌味を言う上官もいる。
同僚も無論。
でも、真逆にわかってくれる人間も何人か。
私をこうして送り出してくれる直属の上司エッガー大佐など。
最近君が楽しそうで、嬉しいよ?と言ってくださる始末。
バケモノと忌み嫌われた私でも、先生の側にさえ居れば。
近寄って来てくれる兵士も多いから。
単純にそんな事も嬉しいのだ。
私が所有する個人のテントにも、以前は近寄らなかった兵士の出入りも随分と増えもしてい
る。
「入ってはいませんけど。私も十分恩恵に預かっておりますから」
「そっか?」
「バケモノと、奇異の目で見られないのは嬉しいですよ」
私の横顔を見詰める先生の目線が、痛いほどだった。
「お前さんは、バケモンなんかじゃねーよ」
「そうです?」
「バケモノは人の心配なんかしね。お前さんと来たら、何時だって誰かの心配じゃねーか。
テントに居る奴等も、お前が上官に怒られないか心配してる」
「そうなんですか!」
それは、知らなかった。
「当たり前だろうが!ここまでこの治療場が大きくなったのも、俺の地位が上がって多少の
権限が増えたのも、助かるはずの無い人間を助けられるようになったのも、お前のお陰
なんだぞ?」
「皆の協力と、先生の絶対的な腕がなければでき得ない事でしたよ。ドクター・マルコーも
そう、言ってらしたし」
このイシュヴァールに置いても研究三昧で、外の世界にとんと疎い人なのだ。
その人が知っていたというだけで、ノックス先生の腕と人柄は完全に保障される。
「ええ!お前さん。あのマルコーさんと知り合いかよ!」
「はい。同じ錬金術師ですし。良くして頂いてます。それに私の上官も国家錬金術師なんです
よ。リュオン・エッガー大佐。ご存知です?」
「……二人とも風の噂でしか聞けねーが。できた御仁だってーのは常々聞こえてくるぜ」
「ですからね。私の身柄のことなんて、心配して貰わなくても大丈夫ですよ。それに私、こっち
の方が呼吸するの楽みたいで」
「それはなぁ。確かにそう見える。お前さんの副官が、子供っぽく笑ってて可愛いなぁって言っ
てた」
「可愛い!」
「お前さんがそう言われるの気にしてるから、俺が言ったってーのは内緒だぜ?つい、出ち
まったみてーだ。俺もその意見に賛同だし」
「ええっつ!」
思わず顔をまじまじと見てしまう程に、驚いた。
「何だよ?」
「いえ。可愛いと思われてるとは、思えませんから」
「は。俺はなぁ。捻くれてるんだ」
むんと胸を張られて言われてしまっては、私も失笑するしかない。
他の兵士よりも、重症の怪我人よりも、時々。
優先して貰っている、気はしている。
「そもそも患者でもねー男に会って、楽しいとか思う性質じゃねーんだよ」
「楽しいんですか?」
「見えねーか」
「はい」
「ま。大人の事情って奴かなぁ」
「性格って奴じゃないですか」
「……言うようになったな」
「先生に、釣られているんですよ」
実際そうだった。
エッガー大佐も、最近君がよく笑うようになって嬉しいよ?と言って下さっている。
この戦場下。
能天気に笑いっぱなしもどうなのかと思うが、上に立つ者として、笑うぐらい余裕があった
方がいいんじゃないかと、最近は考えたりもする。
「俺に釣られたら、普通。無口か仏頂面になると思うけどなぁ」
「反面教師です」
しれっと返せば、目を眇めつつ肩を竦められた。
全然悪い気はしない。
「まー何にせよ。お前さんがしてくれるあれこれはしみじみと助かってる。ありがてーとも思
う。けどな。無茶は、すんなよ?」
「……はい。無茶は適当にしておきます」
「お前なぁ……ま。適当にできる余裕があるんなら、いいっか」
「ええ。できない無茶には挑戦しませんよ」
戦闘時では常にそれを要求されていたので、それ以外の場面でも、緊張し続けていたけ
れど。
最近、そこまで緊張感を持続する必要性を感じない。
戦場では危惧すべき変化なのかもしれないけれど。
帰る意志が固い以上、普通の生活を送るならば、悪い変化ではないはずだ。
「先生」
「んだ」
「私、先生に会えて良かったと思います」
「……若いってーのは、すげーな。おい。それともお前さんの場合性格なんかな?」
「人が珍しく、素直に言っているのに!」
別に、俺もだよ、なんて。
即答して欲しかった訳じゃないけれど。
そんな風に茶化すのが、先生らしいってわかってはいるのだけれど。
何だか、胸の一部が釈然としない。
むかむかするままに、先生を背中に。
先程の引抜を考えつつ、その場を後にしようとした時。
「悪かねぇとは思ってるぜ?……俺もな」
聞き違えかと思って、ばっとばかりに振り向けば。
先生はやっぱり背中を向けていて。
しかし、ひららっと手を振る姿があった。
どんな顔をして、そのセリフを紡いだのかぜひに顔を見てみたかったのだが。
回り込んで覗き込む勇気はなかった。
何故なら私の顔は、言い訳の仕様もないくらいに赤面していたからだ。
END
*ひい!甘い。
まさかラストがこんなに甘くなるとは思いもよらず。
ノックス先生を前にすると、特にヤングマスは、突拍子もなく若いってーか
青臭いってーか、恥ずかしい人になるなぁと。
そこも可愛いかーとは。末期な自覚はありますが。