真昼の野蛮 如月編


 
 目が覚めて、君がいる。
 その事実に僕は、まだ慣れることができないでいた。

 「不覚っ」
 今日は紅葉が泊まりに来る日だというのに、手傷を負ってしまった。
 最近は骨董屋の仕事よりも忍びとしての仕事が多く、熟睡できないことが多い。
 人を殺すことなどなんとも思えない自分と違って、紅葉は僕が忍びの仕事をす
るのを厭う…というよりは悲しむから、それを考えると眠れなくなってしまうのだ。
 いつか愛想をつかされてしまうのではないかという恐怖は、怖いものなぞ何も
ないと思って生きてきた僕にとっては手に余るもので、日々の穏やかな睡眠を
削り。
 繊細であらねばならない神経を、ただ過敏にしてしまう。
 その結果が今日の怪我というわけだ。
 腹部を刀が突き抜けた。
 内臓を一つも傷つけなかったのは、ただ運が良かっただけだろう。
 このままでは、いつか命を落とす。
 それぐらいには切羽詰っているのに。
 手に入れたばかりの紅葉が、離れていくのではないかと心配で心配で仕方な
い。
 恋は人を変えるというが、こんな風に変わってもらっては困るとしみじみ思う。
 「何とか…怪我を何とかしないと…」
 僕は紅葉に嫌われてしまうという強迫観念に追い立てられるようにして、怪我
をどうにかすべく家路へと急いだ。

 痛み止めも飲んで、血止めも塗ってある。
 血の匂いは着物に焚き染めた強い香の薫りで飛んでいるはず。
 再び血が滲まないように、いつもは手早く片付ける細々とした仕事を殊更ゆっ
くりとこなして紅葉が訪れるのを待った。

 「こんばんは…」
 控えめな声と同時に玄関の引き戸をからからとさせて、紅葉がやってきた。
 「いらっしゃい、紅葉」
 包帯を巻き、更に帯で締め付けた傷口をそっと腕を組んだ着物の袖で隠しな
がら紅葉を迎える。
 「すみません。急な仕事が入りまして……お風呂を先にいただけますか?」
 「ああ、沸いてるから。遠慮なくどうぞ。着換えは用意しておくよ」
 「え?あ……」
 何を思ったのか不意に紅葉が顔を赤くする。
 「どうかしたかい?一緒に入って欲しいとか?」
 「違います!」 
 「でも、そんな顔をしているよ……あ!そうかすまなかったね」
 僕は紅葉の腰を引き寄せて、鼻先に唇で触れてから、薄く開かれた唇に紅葉
が羞恥を感じ始めない内にディープなキスを施す。
 怯える舌先を根本から引き出してたっぷりと絡めて、紅葉の鼻から甘い声が
抜けたのを見計らって、一旦唇を離す。
 「おかえり、紅葉」
 もう二人で暮らし始めて1週間ほどが過ぎたが、お互いその自覚が薄い。
 気が付いた方が『おかえり』か『ただいま』を告げることを誓ったが、紅葉はど
うにも照れてしまうので、紅葉の反応を見て僕の方からキスつきで言う事が多
かった。
 「……ただいま」
 苦しくなってしまった息の下、小さな声で囁かれる。
 甘い睦言よりも時に胸の内へと響く言葉に、不安も失せていくような気がして、
僕は上機嫌なまま紅葉を風呂場へ送り出す。
 「また、後で。食事はほとんどできているから」
 「いつもすみません。すぐにあがります」
 「ゆっくり入っておいで。できればぴかぴかに磨いておいて欲しいものだ。夜
  は長いからね」
 「……如月さんがそういう類の言葉を使う人だとは思ってませんでした!」
 僕の言葉にこれ以上はないほど紅潮した紅葉が、どうにかこうにか紡いだ言
葉に僕は淡い微笑を浮かべて応え、その背中が風呂場へ消えてゆくのを見送
った。

 「今日は…お香の匂い……強くないですか?」
 食事を終え片付けをしてくれた紅葉を蒲団の上で抱えれば、紅葉がそんなこ
とを言う。
 一瞬感づかれたのかと驚いたが、そんなことはなかったらしい。
 「気になるなら消すけど?」
 暗殺者に証拠を残すことは許されていないため、紅葉は身体に特定の香りが
つくことを嫌がった。
 それをいうのなら忍者も同じなのだが、僕は好んで香を使っている。
 さして高くもなく、安くもないお香は線香の香りと相まって日本人には馴染
み深いもので、僕が侵入するような家には必ずといっていいほど薫っている代
物だ。
 逆にカモフラージュにもなるので、あまり気にしなくなったのだが、紅葉の
方はそうはいかないようだ。
 「いえ、気になるとか、身体につくというわけでないです。ただ何か特別な理由
  があるのかな、と」
 「ないよ」
 「そうですか?」
 何となく釈然としない風情で、首を傾げる紅葉のしぐさがまた妙に心そそら
れて、蒲団の中に引きずり込んで抱きすくめる。
 「き!さらぎさん!」
 慌てる紅葉の口の端に掠めるような口付を一つ。
 「翡翠…」
 「如月さん…」
 僅か震える瞼にもう一つ。
 「二人きりの時は翡翠」
 下の名前で呼ばれることに固執するなんて、女の子のすることだとわかって
いてもとめられない。
 以前は何故あんなに名前で呼ばれたがるのか、その心理が不思議なもの
でしかなかったが。
 今ならわかる。
 単純に好きな人が自分の名前を呼んでくれる、必要としてくれる…というのが
嬉しくて仕方ないから。
 相手の名を繰り返して呼ぶのと、同じくらい返して欲しいと思ってしまう。
 「…翡翠…さん」
 「翡翠」




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