「『御神槌が塞いでる』と、天戒が心配していたからな。穏やかな顔をしてや
  れよ」
 「そう、ですね」
 御方様に偽りを告げるのは辛いが、僕のことを心配してくださるというのなら、
僕は御方様が安心するように、何度でも何度でも僕ができうる限り穏やかに
微笑むだろう。
 僕の中に潜む深淵など、微塵も感じさせずに。
 「この鬼哭村はお人好しばっかりだからな…。貴殿が天戒を大切に思うなら
  尚の事、手前を気にかけているのなら尚の事。思い悩む事はないのさ。
  全  ては己の理不尽な欲望のままに…。だからこその、人なんだからな」
 こんな風に突然、師父は人の人たる所以の真理を語る。当たり前のように
何の気取りもなく。他の人間が言った言葉ならさして重くもない。
 師父の語る言葉だから、ここまで胸に染み入る。
 師父に心酔しているのは僕だけではないけれど、僕はきっとかなり重症な
方だろう。
 「ええ、ありがとうございます。師父」
 「ああ、そう。その顔だ。御神槌。ほのかが狂い、信者が神の代わりに祈り
  を捧げて、俺が貴殿を共犯者だと安堵できる顔が、それだ。できればず
  うっとその顔をしていて欲しいもんだ」
 からからっと大きな声で笑った師父は、僕を振り返りもせずに礼拝堂を出
て御方様や他の人々が待つ母屋へと向かった行った。
 人との些細な約束までをもきちんと守る人なのだ。そうは見えないと苦笑
する人々は多かったが。
 師父はどんな下卑た盟約も、崇高な誓いも。
 違えた事はない。

 この全てが疑いたくなる殺伐とした世の中で、それがどれほどに稀有な
事か。

 「では、そろそろ行きましょうか、ね」
 夕食の後の酒肴を何より楽しみにしている師父と桔梗殿、決して嫌いで
はない御方様と九桐殿のためには舶来渡りの葡萄酒を、未だ酒を嗜む事
が出来ないできない澳継殿のためには双羅山で取れた山こけももの果汁
を絞った新鮮な飲み物を懐にしまいこみ、礼拝堂に施錠をして御方様の住
まうお屋敷へと向かう。

 礼拝堂を一歩出てしまえば外は冷気が突き刺さるようだ。
 中に毛を張った高価な外套を着ているにも関わらず、その僅かな隙間か
ら冷ややかな風が忍び込んでくる。
 先程までは細かい作業を苦にしなかった手も、指先から凍えて悴んでしま
う。
 己が吐き出す白い息を追って空を見上げれば、澄み切った冬空特有の虚
空に、猫の目のように細い上弦の月。
 冴え冴えとした銀色の光を我々へと注ぐ月を見ていると、何故か、かの人
思い出す。
 今日も、また鍛錬に勤しんでいるのだろうか?
 気になりだしたら、いても立ってもいられずに、重い酒瓶を抱えたまま那智
滝へと向かう。
 この時間だとどこにいるかは微妙なところなのだが、こんな時、僕の感は
不思議と外れない。

 想像した通り、霜葉殿の姿がそこにあった。

 滝の真正面にいるために、霞がかかっている細かな水飛沫を全身に浴び
ながら村正を水面に突き刺している。
 霜葉殿の胆力の賜物か、村正の妖力の凄まじさ所以か。
 水は村正の切れ味の良さそうな刃を避けるように、真っ二つに割れていた。
 はらはらとどこからともなく落ちてきた枯れ切った木葉が、水面を滑るよう
に流れてきたと思ったら、すっと村正の刃によって二分される。
 「……御神槌殿か?どうされたこんな夜半に」
 すっと腰を上げ、水の中から抜き取った村正を軽く一振りした霜葉殿がま
るで慈しむように鞘の中、村正を収め念入りに鎖を巻くのを飽きる事無く眺
める。
 「御方様に夕餉をと、誘っていただきまして。師父にまできつく言われてし
  まいました…」
 気のせいなのか、師父の名を出した途端、霜葉殿の表情がやわらぐ。
 一連の作業を終えた霜葉殿に懐に入っていた手ぬぐいを差し出せば、
『かたじけない』との言葉と共に、己の身体に細かに散っている水滴よりも
村正を拭うのが、実に霜葉殿らしい。
 「ああ。ならば早く行った方がいいのではないか。龍は一刻でも遅れると
  心配する」
 師父が、心の底から大事にしている人が霜葉殿であることを本人は存じ
上げないようだ。
 そこがまた霜葉の良い所だと、師父は豪語するだろうが、僕とてそう思う。
 己に向けられた好意にはとんと疎い癖に、近しい人たちを慈しむことにか
けては、御方様に匹敵する。
 かの新撰組でもきっと同じように人を慈しみ、人に大切にされていたのだ
ろう。
 そうでなければ人斬りと呼ばれる存在で、こんなにも優しいままではいら
れなかったはず。
 「舶来の酒を持ち込みましたから、お許しいただけるでしょう」
 「天戒殿もかなり酒は嗜まれるからな。お喜びになるだろう」
 「もし、よろしかったら霜葉殿もいかがです?」
 「……せっかくの誘いだが、此度は遠慮させて頂く。俺が行くと澳継殿
  が怯えてしまうからな。せっかくの夕餉が味気ないのは可愛そうだ」 
 澳継殿に悪気はないのだろうが、霜葉殿にというよりは村正に抵抗があ
るらしい。
 子供らしい物言いだが『刀風情が!』と、いう所のようで。
 己より腕が立つと認めた人間が刀と一緒の括りで評価されるのも気に
食わないと、ぼやいていたこともある。
 霜葉が村正を置いていけば、喜んで出迎えてくれるのだろうが、そんな
日は簡単にやってきやしない。
 「そうですか。では仕方ありませんね…。では、こういうのはどうです?
  そのてぬぐいを返していただく時に、礼拝堂で恐縮ですが杯を重ねる
  というのは……」
 「俺のような者が踏み入れて良いというのならば、喜んで」
 「神の御許には全てが平等です。でも霜葉殿なら、例え神が許さなくても
  僕が許しますよ?おこがましい話ですけど」
 「いや、光栄だ」
 やんわりと微笑む様が嬉しくて仕方ない。
 冷ややかな微笑しか浮かべなかった当初に比べれば、霜葉殿も穏やかに
笑うようになった。
 それはきっと龍のおかげで、僕のおかげではないけれど幸福を覚える。
 僕の良心に擬えた最後の砦は、この人以外にないと思う至福の時。
 天井に嵌められたすてんどぐらすが床に織り成す、複雑な色彩を愛でつつ
二人きりで飲む葡萄酒は、それはそれでまた格別な味がするだろう。
 「では後日。夜半でしたらいつでも。人払いはたやすいですから」
 「ならば、明日のこの時刻に、礼拝堂を訪れるとしよう」
 霜葉殿がてぬぐいを丁寧に折り畳んで懐にしまい込むのを見て、僕は深く
腰を折って頭を下げる。
 「お待ちしていますよ」
 静かに笑って背を向けた霜葉殿に倣って、僕も御方様の屋敷へと足を早 
めた。
 豪奢というよりは新鮮な、温かみも深い手作りの夕餉と親しい仲間達が
痺れをきらして、待っているだろう。


                                             END




*御神槌&霜葉
 普通の話。普通か?(笑)もっとこーあざとい御神槌を書きたかったんですが
 ほのぼの話になってしまいました。つくづく皆に愛される壬生一族が好きなよ
 うです、自分。この後の宴会も書きたかったんですが霜葉が出ないんじゃあ
 ね……。 二人でつらつら飲みながら、いたしてしまうのも面白いかと思った
 のですが、外法帖はしみじみと主人公×霜葉らしいんで(苦笑)書いてみたい
 気もするんですけどね、御神槌×霜葉……。難しいな……。
                                                        
                                                        
 



                                      前のページへ メニューに戻る     


 ホームに戻る