禍々しき祈り

 神を信じられないこの身で、神の教えを説くことがどれほど罪深いことか。
 処女(おとめ)の身体を強引に引き裂き、悦楽を求めた所で心の空虚が消
えることはなく更なる陰鬱を抱えることが、どれほど神の使徒として遠い所業
か。
 自ら堕落することすらできずに、代わりに幾多の人々を快楽の地獄へと追
い落とした行為が許される事だとは思わない。
 ……許されたいとも、思えないから己を揶揄するしかないだろう。

 ただ、そんな僕にも聖域というものがある。

 絶対普遍の信頼を預けている相手が一人。…まずは、一人目。
 僕よりも深い闇と罪を持ちながらも、愛する人がいる彼。
 彼にはどんな酷いことをそそのかされても、従うしかできず、更に好んで敬
意を払ってしまう。
 …これで、二人。
 そして誰よりもきっと死に近い存在でありながら、いつでも人のために己を
捨てられる漢。
 死を恐れず真っ向から立ち向かうが故の潔さは、切ないくらいの眩しさと
共に僕を捕らえて離さない。
 …三人目。
 たった、三人だけの最後の砦。
彼らが一人でもいなくなったら僕は、神の禁じる自殺で以ってその生命を終わ
らせる。
 そのための聖剣はいつでも聖水で磨いて礼拝堂の祭壇にしまってあった。
 失えば己の命を捨ててしまいたくなるくらいには大切な、いとおしい、人々が。

 「御神槌、おるのか?」
 「こんな、汚い所へ。どうされました、御方様。誰かを呼びにくだされ
ばこちらから出向きますのに」
 僕の信頼を無防備に預ける御方様が不意にいらした。僕を闇へと落とした
のは御方様に似せた姿の違う人物だったが。
 闇を殺すことなく拾い上げてくれたのは紛れも無い正真正銘の御方様だ。
 純粋な感謝の念しかもてない。
 あの時の壊れた僕から闇を奪っていたら、きっと僕は狂っていた。
 その程度には深い闇だったのだから。
 「久方ぶりに夕餉でもどうだろうと思ったのだが……」
 「……誰がいらっしゃるんですか?
 「自分以外だと、桔梗と澳継と尚雲に……龍も来るだろうな」
 「師父も、ですか」
 昨日も師父に請われて二人の女性に、無体を強いた身としては合わせる面 
がない。
 「何か気まずいのか?龍は時折御神槌のような聖職者にも無茶を言うらし
  いからな。生臭坊主の尚雲でも『手に余るときがあるな』と言うほどだ。あ
  んまりにも難しく考える事はないんだぞ」
 「そう、ですね」
 師父のように、大切なもの以外の全てを切り捨てる強さが有ったのなら悩ま 
ないのだが。
 僕もまだまだ修業が足りない。
 「……祈りの時間がすみましたら伺いますよ」
 「そうか。別に無理はせんでいい」
 「はい、無理は致しません」
 僕が人に対して説教をする立場である以上の接触を待ちたがらないことを、 
御方様はよくご存知だ。
 繰り返し飽きもせずに誘い『無理はしなくていい』と囁いてくださる。
 『後でな』と確認を取りながら、御方様が戸の向こうに消え、その気配が礼拝
堂から離れていくのを感じ取った僕は、祭壇に向かって軽く十字を切った後で
祈りのために指を組んだ。
 決まった祈りの時間ではなかったのだが、御方様に偽りを告げるのも心が
痛む。
 とりあえずと指を組んで祈りに没頭してしまえば。
 音が消える。
 己の邪な思考も失せる。
 あるのは誰に対してといった個の幸せを願う祈りではなく、ただ漠然としたこ
うであればいいという未来を、己でも感知できかねる奥深くで思い描くだけだ。
 祈りの、効果など。
 きっと微塵もないに違いない。
 「あいかわらず無駄な事が、好きだな。御神槌」
 どれぐらい祈っていたのだろう。
 そしてどれだけの時間僕の様子を伺っていたのだろうか。
 師父が後ろから呆れ果てた声で僕の名を呼ぶ。
 人の気配には決して疎い方ではないのだが、師父の気配が読めないことが
多い僕は、ぎくりと頬を強張らせて振り返った。
 陰惨としか表現のしようがない至極複雑な微笑を湛えて、師父は立っている。
 それは僕の罪を見透かす以外の何物でもない眼で、居心地が悪いことこの
うえない。
 「祈りなんて。何も救わないことを誰よりもよく知っているはずの貴殿が、愚
  かしい事この上ない」
 貴殿が、と皮肉めいた声音で嘯く師父の様子はキリスト教の教えを信じてい
ない者特有の嫌悪に、それはよく似てはいたが。
 師父ほどキリスト教の良い面、悪い面を熟知している男はそういないだろう。
 色目も鮮やかな"すてんどぐらす"を背に説教をしたならば、きっと誰もがそ
の、夢のような思想に惑溺するのは目に見えていた。
 「それでも、祈ることしかできない時もあるのですよ」
 「懺悔か?いいのさ。あんな"をんな"のために御神槌が祈ることはない。あ
  れはそれ相応の罰を受けているだけだ。元々が淫乱な質なのだから気に
  かけるだけ無駄というもの……」
 想い人の目の前で、しかも複数の人間によって陵辱された美里殿は日増し
に、淫欲に身をゆだねる事に恥じらいがなくなってゆく。
 その事実が師父を更に残虐非道な人間にさせ、美里殿を無様でしかない
肉欲に乱れる
 "をんな"へと貶めた。愛を知らずに肉を狂わされた"をんな"の狂乱は凄まじ
く、一歩間違えればほのかさんを同じ存在にさせてしまう恐怖を禁じえなかっ
た。
 「ほのかにしたってそうだろう?あれは自ら不幸を望む女だと何度も説明し
  たはずだ。お前は正しい事をしている。惑う事は許されない。それゆえの
  神父だろうに」
 くつくつと飽食した猫のように満足げに笑う龍斗をみて、満たされてしまう僕
にはもう、神父の資格など遠の昔にないのかもしれない。
 「……夕餉には来るんだろう?」
 「御方様に約束いたしましたから、必ず」



                                     
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