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  真昼の野蛮 京一編

 アスファルトの照り返しが目に眩し過ぎる午後の二時。
 俺は新宿の町を汗も拭かずに歩いていた。
 貴重な夏休みの補習は自業自得とはいえ全く持ってやってられないがこうや
って、暑い最中を出歩くよりは余程ましだ。
 教室内はクーラーがきいているので勉強をしているというのが癪に障るが概
ね快適だったと、教室から一歩出てぎらぎらと容赦なく降り注ぐ熱の日差しに晒
されれば、しみじみと思う。
 人ごみを縫って、極力日陰を狙いつつ歩く。
 駅までの短くはない距離。
 高校生の女の子達は昼間でもちょっと通らない方がいいだろううらぶれた小
道も、俺にはクーラーできんきんに冷えた電車に乗り込むための取っておきな
近道にすぎない。
 それでも念のため汗ばむワイシャツを肩までめくり上げ、木刀の入った袋を
抱えなおして路地裏へと入り込む。
 聞くとはなしに聞こえる怒声の荒んだ内容も、真っ昼間でも容赦ないすすり
泣きのような甘い音色も頭に残さず聞き流して足を早める…と。

 不意に小さな溜息が聞こえた。 

 気をつけていなければ聞き逃してしまいそうな溜息が、こんなにも鮮烈に頭
に響くのが不思議で駅へ向かう道とは少し外れた、随分とねじくれた道へ足を
踏み入れれば、狭い空間に樹木のように乱立する建物の下日の光も届かない
場所に、背を向けて立っている人物があった。
 この暑いのにもかかわらず長袖で、時間を考えれば違和感を伴うくらいに闇
に馴染んだ黒い服を全身にまとった人物は、ご丁寧に手首までを覆い隠す手
袋までしている。
 視界もおぼつかない暗がりの中、ゆっくりと振り返った人物は、思いもかけ
ず俺の名を呼んだ。
 「蓬莱時…さん」
 「え?壬生か!」
 俺の名を"蓬莱時さん"などと他人行儀に呼ぶ奴は壬生しかいない。
 大して親しくもないクラスメイトですら"蓬莱時!"と呼び捨てだ。
 ま、俺もそんな扱いを気に入っているんだが、壬生が相手だとどーにも上手
くいかない。
 綺麗な顔立ちも、その潔癖な生き方も、人馴れしない風情すら決して嫌いな
わけではないというのに。
 「こんな所で何をしているんだ。物騒だろうよ!」
 慌てて近づこうとしたが、瞬間叩きつけられるように向けられた殺意という
よりは邪悪な覇気にオレの足はアスファルトに縫い付けられたように動けなく
なった。
 「君は、こちらへ来ていい人じゃあない。僕が、行くよ」
 ポケットに手を入れて、壬生がすたすたとこちらへ歩いてくる途中。
 ひょいと何かを跨いだ。
 見るともなしにその様子を視界の端に収めていた俺はひゅっと自分の意志と
は関係なく、喉が生唾を飲み込む音を聞いた。

 壬生が跨いだのは人間だった。

 未だによくは見えないので細かいところの判断はしかねるが、恐らく死んで
いる。
 うつ伏せに倒れてアスファルトに突っ伏している状態では息ができないだろう
し、男のちょうど腹の辺りからはどす黒いものが大量に染み出て鈍い光の反射
を起こしていた。
 何時の間にか息が届く位置まで近づいてきた壬生が、そっとオレの耳元に囁
く。
 「見なかったことに、して、くれるね?」
 なぜか睦言のように酷く、甘い声音に。
 俺の背中を悪寒ではない何かが走り抜けた。
 「…し、仕事だった、ん…かよ……」
 我ながらよく声が出たなと思う。
 それぐらい俺は動転していた。
 声がひっくり返ったのくらいは勘弁して欲しい。
 「まぁ、ね」
 表情も変えず艶然と微笑んだままで壬生が肯定をする。
 あんまりにも場違いな場面だったけれど、綺麗だと、思ってしまった。
 表情の乏しい壬生の笑顔が見れるのは嬉しい。

 それが、こんな殺伐とした場面でさえなければ。

 『行こう』と、顎をしゃくって無言で促す壬生の頬に、雲の位置でも動いたのか
太陽の光が一筋降り注ぐ。
 「おい、壬生!お前、怪我ぁ!」
 加減何かしてる余裕があるはずもない。
 俺は壬生の頬に紛れもない血の跡を見つけて、腕をぐいと掴んで体を引き寄
せた。
 途端。
 「つあ!」
 反射的だったのだろう、殺気だけで人が殺せるほどの波風が俺の額にへば
りついていた髪を凪いだのとほぼ同時に、俺の腕に激痛が走った。
 壬生の、渾身の蹴りが俺の腕を打ったのだ。
 咄嗟に感じるものがあったのか、下から上へと蹴り上げられたのは不幸中
の幸いだったかもしれない。
 上から下へと振り下ろされた蹴りだったならば間違いなく足の骨は逝ってし
まったはず。
 「っ!すまない。蓬莱時さん。骨、骨は!」
 これまた滅多に見る事がない…と言うか俺は初めて見る動転した壬生の震
える指先が、そっと俺の腕の安否を確かめる。
 先程の殺気が嘘のように消えた様子に俺は大きく息を吐きながら、壬生の
頬を汚している血を指先で拭いながら返事をした。
 「大丈夫だ。折れてもなければ、ヒビがいってるわけでもねぇ。心配するな」
 「……良かった……」
 ポケットから真っ白なハンカチが出されて、俺の指先についた血を拭ってく
れる。
 「僕が、怪我をしているわけではないから」
 ごしごしと磨くように俺の指先を包み込んだハンカチは丹念に動かされた。
 「相手の?」
 「そうだよ。普段は返り血など浴びやしないけど…油断を、した」
 「壬生でも油断することなんてあるんだな」
 「……僕も人間だからね」
 俺の物言いが癇に触ったのか、ようやっと気が済んだのかハンカチがポケッ
トへと仕舞われて、俺の指から壬生の手が離れてゆく。



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