「遅かったな、龍」
決して押し付けがましくはない。
むしろ本当に手前が来るのを待っていたのがわかる、焦がれた者が出す声
音で、優しく微笑まれた。
「悪いな。色々と掴まっていたんだ」
手前の言葉に嘘偽りはないが、穏やかな笑顔を見てしまえば、さすがに罪悪
感に襲われる。
「全く嘘も方便ってーなよく言ったもんや。ここに来るまでの状況を天戒殿に報
告差し上げたいで?」
そんな手前の様子を伺いつつも、們天丸は己が被った迷惑をそつなく零す。
「はははは。そう責めるな、們天丸。龍が皆に好かれるのは今に始まったこと
じゃあない」
「どうせ、皆に引っ張りだこだったんだろ?さ、まずは一献。あけておしまい
な?」
天戒の側に侍る桔梗が、手前の座る場所を空ける手を返し、徳利を手にし
た。
「では、今度こそ。遠慮なく」
並々と注がれた薄い杯を、天戒が差し出した杯に軽くあてる。
きん、と。
陶器がぶつかる静かな音が耳に届いた。
待ちかねた杯を口にして、一息に飲み干す。
「くー!よく冷えているな!」
「ああ、雹と比良坂がな。頑張ってくれた」
「へー?あの二人が」
雹も比良坂もお互いの生い立ちより、華やかな場、人が集まる場には出た
がらないし、こういった催しにはほとんど参加しない。
まして雹は深窓のお姫様。
比良坂は見世物小屋で人ではない扱いを受けてきた女性。
お互い料理の下準備の類は、不得手なはずなのだ。
「龍に、喜んで欲しかったらしいぞ?」
「光栄だがな。手前だけじゃなくて、天戒にもだろうな」
無口な二人が顔をつき合わせて、懸命に酒を冷やし、つまみを作っている姿
を想像するだけでも、にやりとした笑みが浮かんでしまう。
「その二人は?」
「ん。龍が来たら顔を出すといっていたからな、時機に来るだろう」
「時機に来るといえば、師匠。霜葉殿はどうした?」
們天丸と徳利のみをしていた九桐が、つるつるの頭を撫ぜ上げながら、尋ね
てくる。
「們曰く、山奥に入って、何やら宴にふさわしい華を探しているらしい」
「華、か?」
「何だか、わからんがな」
「これだけの花があるのに。妥協しない方だ」
天を仰ぐ九桐の目線にあわせて、手前もぐるりと辺りを見回す。
山中に隠れている村なので、比較的山桜が多いが、宴会の場所にと選んだ
見晴らしの良い広場は、十数種類の桜に囲まれている。
咲き始めの八重桜から、既に散り始めた枝垂れ桜までが何十本となくあるた
めに、桃色の景色の中にぽつりぽつりと人がいるような風情だ。
こんなに心穏やかに、花見をできる日がやってくるとは思わなかったので、純
粋に、心躍る。
「ほほ、物珍しげな顔をしておるな?」
「ふふ。そういうお顔も楽しげで良いですね」
ぎ、ぎ、というゼンマイの軋みと共に、ガンリュウに抱かれた雹と、その後ろに
隠れるように、それでも金色の髪をびょうと靡かせた比良坂の姿が現われた。
「ああ。二人ともごくろうだったな」
「何。わらわは酒を冷やしただけだ。たししたことはできもせん。比良坂殿は
随分つまみを造られたようじゃが?」
「いえいえ。下拵えだけですよ?味付けは嵐王殿に…」
「って、嵐王!?」
嵐王が料理!嵐王がおつまみ造り?
「龍殿、そんなに不可思議か?」
今日ばかりは暑苦しい仮面は外して(でも分厚い生地のマントは羽織ったま
まだったが)天戒の斜め後ろに座していた嵐王が、不満そうな声を上げた。
「いや。何だか怪しい料理は得意に見えるんだがな?ほら普段が普段だろ
う」
ほんの一瞬。場が静まり返った。
皆、嵐王の作る数々の特殊武器などを思い浮かべているのだろう。
「嵐王も、龍にかかってはひとたまりも無いな?これは幼い頃から我らの面倒
をみてくれた口でな。幼子に与える菓子なども上手いぞ」
「若っ!!」
顔を赤くして、あわあわと両手を振る嵐王は何故だかとても、年相応に見える。
嵐王を幼くも、大人びても見せる天戒はやはり偉大だ。
「おや?」
人の気配に敏い中でも、人狐と呼ばれる化生でもある桔梗の能力はとびき
りだ。
微かに語尾が跳ねたのを感じ取って、桔梗の視線を追えば…。
「霜葉っつ!!」
弥勒の後ろに姿を隠すようにして、霜葉が現われた。
「そんなに目くじらをたてるな、龍。霜葉殿は龍の為に山に篭っていたのだか
ら」
おっとりと目を細めた弥勒は、片方にしかない腕に抱えきれないほどの桜を
持っていた。
「もしかして、それなのか?」
「遅くなって、すまなかったな」
弥勒同様、両手に溢れんばかりに抱えている桜の束が、手前に全て渡され
た。
「は!見事だ。これは紫貴桜だね?」
桔梗がひらりと落ちた花びらを拾って、二人の顔を見上げる。
「そういう、名前らしいな」
静かに頷いた弥勒が、手にした桜を一本一本、その場にいる人間に配って
いる。
紫貴桜。
しきざくら、と呼ばれる桜は山奥に咲くといわれている幻の桜だ。
花びらが淡い紫色をしているから、そう名づけられたという。
珍しい色がつくため、金にモノを言わせた貴族達に乱獲され、絶滅に追い込
まれたという話を、誰かに聞いた。
「凄いな……大変だっただろう?よく、見つけたな」
「いや、弥勒殿が面の材料を取りに山へ入った時に見かけたと言っていたん
でな。教えて頂いただけだ」
「謙遜を。霜葉殿がいなかったら、持っては来れなかった、桜だ」
「弥勒?」
どういうことだと、目線だけで尋ねる。
「祟るのさ。この桜は。無魂症の霜葉殿でなかったら、生気を全て吸い取られ
てしまっただろう」
老長けた樹木が祟るという話は、以外によく耳にする。
ましてや、桜、はその手の逸話が少なくはなかった。
人に狩られた珍種なら、十分考えられる。
「弥勒殿!」
手前が心配するから、きっと口止めされていたのだろう。
霜葉が困った顔をして、俯く。
「そんな顔するな。手前は嬉しいから」
いつものように、心配して怒って見せるのはたやすいが。
せっかく本当を教えてくれた弥勒や。
手前なんかの為に一層懸命な霜葉や。
今日という日を楽しんでいる皆の瞳を曇らせたくはない。
「ほら、弥勒も。霜葉も座って、一緒に飲むぞ!」
ほっとした雰囲気が全体に伝わる。
自ら徳利を手にした天戒の注ぐ先を、さりげなく弥勒の杯に摩り替えて。
手前は霜葉の杯に、紫貴桜の花びらを一枚浮かべて、酒を並々と満たして
やった。
酒豪とまではいかなくとも、酒に強い部類に入る霜葉が一息に酒を飲み干
して、ほうっと息をつく。
唇についた花びらを指先で拾ってやりながら、ようやっと。
手前は至福の笑みを浮かべて、拾った花びらを浮かべた酒を飲み干した。
*龍斗&霜葉
ビバ、完結♪剣風帖と同時に書いた桜ものだったのですが、ちゃんと時代
の違いが出ているかどうか、いささか不安です。江戸時代ってーのは奔放
な時代 だったらしいのですが、そのあっけらかんとした奔放さってーのが
なかなかだせないのが、切ないところでした。