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   氷月



 鳴滝に呼び出されるのは、今に始まったことじゃあない。
 あの男は厄介事があると、とかく俺を呼びつけたがる。
 別に聞いてやる義理も無いのだが、鳴滝は本当の俺を知る数少ない権力を
持った人間(ひと)。
 関係が切れたところで困るものでもないが、使い勝手は悪くはない。
 俺に恩をきせようとしてか、俺の身を探る者があればすぐさま跡形もなく滅殺
し、そ知らぬ顔をする。
 『殺してやった』とは言わない。
 『そういえば先日お前を追っていた男が死んだな』と告げるだけだ。
 だから手伝え、助けろと暗に言われているのは鼻につくのだが、これも鳴滝な
りの最上級の好意なのだから仕方ない。
 策士の癖に不器用なのは苦笑を誘った。
 
 人払いされた拳武館の最上階の一番奥にある館長室にある扉を、音もさせず
に開けて滑り込む。
 扉の真ん前に置かれているがっしりとした作りの机の後ろに、まるで全てを見
透かすように座っている鳴滝の姿は、珍しくなかった。
 耳をすませば、隣の部屋から鳴滝の声ともう一人。
 最近よく知るようになった男の声が聞こえる。
 「人を呼びつけておいて、悠長なものだ」
 大きく肩で息をつくと、禁煙なのもかまわずに煙草を取り出して火をつけた。
 どこで吸ってもさして変わらない味に、何故かゆるやかな安堵を覚えながら聞
くともなしに、隣の会話を聞く。
 それなりの防音が施されている館長室だろうが、満月が近い狼の耳に聞こえ
ないものはない。
 『……亡くなったそうだな』
 どこか浮かれたような鳴滝の口調にわずかな訝しさを感じたのは、俺の気の
せいじゃないだろう。
 『ご存知でしたか?』
 『つきそいの看護婦から連絡があった。通夜はいつだ』
 『明日にでも…でもどなたも呼ぶ気はありませんので、館長もいらっしゃらな
  いでください』
 『母親と約束でも?』
 『いいえ、母の死に様を見て悦ぶ人間に送って欲しくないだけです』
 まるで感情を伴わない少年の声に、どこまでも楽しそうな鳴滝の声が続く。
 『俺が悦ぶ訳はないだろうが?お前を引き止めておける唯一の枷を失ったん
  だから』
 緋勇の半身でもある少年が、母親の命を紡ぐために拳武館へ身を売ったの
は彼を多少なりとも知る人間ならば皆知っていることだ。
 決して誰かを否定する事をしない、万人に優しいはずの緋勇がはき捨てるよ
うに鳴滝をののしったのは、壁の向こうにいる怜悧な表情を崩さない半身を大
切にしているからだろう。
 『ああ、そうですね。僕はもう人殺しをしなくてもいいんだ……こうして貴方に抱
  かれる事もなくなる……』
 『離れられるのか、この淫乱な身体で』
 二人に肉体関係があることは知っている。
 自慢するかのように何度も何度も、直接的表現は使わないにしろ鳴滝は少
年の痴態を語った。
 俺が何もかも躾たのだと、楽しそうに笑いながら。
 『……長くてしつこいだけのSEXで淫乱になれるほど、お気楽人生を歩んで
  いませんよ、僕は』
 語尾に、何故か微笑みめいたものが乗った。
 今まで感情の色を乗せなかった少年の、変化の意味は一つしかない。
 「やめておけ、紅葉」
 煙草を壁で消しながらバタンと隣の部屋の扉を開け放す。
 大きな机の横に位置する革張りの豪奢なソファの上、鳴滝が座っていた。
 ズボンを太もものあたりまで脱いだ情けない格好で。
 少年は。
 壬生、は。
 鳴滝の太ももの上に座っている。
 真っ白いワイシャツのボタンはほとんどとまっておらず、下肢にいたっては靴
下だけを履いた格好で。
 鳴滝の肉塊を奥深くまで、銜え込んだまま。
 「何故?」
 「後悔するからだ」
 俺の言葉に壬生は、驚いたように目を見開き。
 次の瞬間華やかに微笑んだ。
 心底嬉しそうな微笑に見えた。
 ぞっとするほどの寒気を覚えて、壬生をとめようとしたが。
 ほとんど全開で狼の能力を駆使できる今の俺でも間に合わない素早さで、壬
生は鳴滝を銜え込んだ状態で、ふわりと利き足を持ち上げ鳴滝のこめかみに
懇親の蹴りを叩き込む。
 無茶な態勢だったにもかかわらず、鳴滝の身体は吹っ飛んで床の上に転が
った。
 剥き出しになった肉塊は、壬生の血に塗れててらてらと光りながら今だそそ
り立っていた。
 「して、みたいですね。後悔」
 ゆっくりと立ち上がった太ももからは、つっと鮮血が伝う。
 結構な鮮血の量だというのに、まるで痛みを感じないかのようにスムーズに
動く体は、乱暴に抱かれる事にどれほど慣らされているのか。
 慣れている行為といっても、好き好んでするわけでもなく、ましてや望んでい
わけでもないのなら、終わりにしたいのは当然だが。
 鳴滝が壬生を手放すはずはない。
 俺が見るにつけ生半可な執着ではないのだ。
 全てが計算ずくで、拳武館という影で凄まじい意味合いを持つ学校を誰に相
談するでもなく、たった一人で経営している男と同一人物には思えないほどに。
 壬生に対してはかなり愚かしい行動をする。
 それはまるで、壬生が自分から離れていくのを恐れているかのようにも見え
た。
 母親の命という絶対的な、けれどもか細い糸でしか壬生を繋ぎ止めなること
ができないのを重々承知しながらも。
 もしかしたら、己が教えた快楽の前に従順に傅くのではないか、と。
 恋に盲目な、馬鹿をしでかしている風にしか。
 「するさ。長く、生きればな」
 「ああ、そうですね。犬神さんほど長く生きればそれもあるのかもしれません。
  でも僕は……もう」
 「死ぬ気、なのか?」
 母親の命を紡ぐためだけに生きていたようなところが、壬生にはある。
 人殺しを正当化しなければ生きていけないほどに壊れていると、思ったことは
なかったが、それでも。

                                                       



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